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2024年02月16日
幕張メッセで行われる武器見本市をめぐる県自治あて要請文の紹介
幕張メッセでの武器見本市の開催をめぐり、市民団体や女性団体、社民党、新社会党による県知事あての要請文を紹介します。
幕張メッセで開催される「武器見本市」への協力中止を求める要請書
千葉県知事 熊谷俊人様
千葉県千葉市の幕張メッセではこれまでに4回の武器見本市が開催されています。昨年の3月にも、私たちを含む多くの県民の中止要請にもかかわらず開催されました。千葉県民の暮らしのど真ん中で、千葉県当局の協力のもとに、人を殺し傷つける武器・兵器の一大展示会の開催が年中行事と化そうとしています。
DSEI JAPANの主催者によると、この武器見本市は「日本で開催される唯一の大規模で完全に統合された防衛イベントであり、日本およびより広いアジア太平洋市場への前例のないレベルのアクセスを提供する」とされています。ここには世界中の兵器産業、国家の軍関係省庁や政府関係者が集結し、兵器の宣伝、情報交換、売買契約などが行われます。
そして今年開催されるDSEI JAPANで特に注目すべきことは、現在も中東においてイスラエルによるパレスチナのガザ地区やヨルダン川西岸の自治地区に対する激しい軍事攻撃が行われている最中に準備されている武器見本市だという点です。ガザ地区においては、すでに原爆数発分と言われる大規模で集中的な軍事攻撃が行われ、子どもと女性を中心に2万数千人の人々の命が奪われ、数万人の負傷者が生じ、ガザ地区の7割が瓦礫と化してしまっています。世界中でイスラエルの蛮行に対する批判の声が高まり、そこで用いられる武器を供給している国々とその兵器産業に対する批判の声が高まっています。その声は、それぞれの国の政権さえ脅かすほどに大きくこだましています。
この非人道的大惨事に対しては、日本政府も無関係ではありえません。イスラエルやそれを支援する米国などを厳しく批判していないとして、パレスチナからだけでなく世界の人々からも厳しい視線を注がれています。また千葉県当局も、このままでは大きく責任を問われることにならざるをえません。なぜなら、いままさに世界の目の前で大虐殺を繰り広げているイスラエルと、それを軍事的に支援する米国やNATO諸国、そしてその足下の軍需企業を主要な出展者とする武器見本市に、あえて会場を貸し出そうとしているからです。これは、まさに大変な愚行、それどころか暴挙という他ありません。
とりわけ昨年以降のDSEI JAPANは、一昨年末に明確となった日本の防衛戦略の大転換を受けて、新たに危険な性格を帯びつつあります。この戦略転換では、「防衛産業は防衛力そのもの」「競争力のある国内企業が優れた装備品やデジタル技術などを供給できるよう防衛産業に関する課題を総ざらいし、防衛省に関係府省を加えた体制を整えて、より積極的に育成・強化を図っていく」「防衛装備移転三原則および同運用指針などによる制約をできる限り取り除き、日本の優れた装備品などを積極的に他国に移転できるようにするなど防衛産業が行う投資を回収できるように(する)」等々と強調されています。
また同報告は、国のあらゆる仕組みを軍事優先で作り直そうとしており、国民は「国を守る気概」を持つことを求めています。国の財政も信用・金融システムも軍事の要請の下に置かれ、大学や民間企業の科学技術研究も軍事と一体化。多くの港湾・道路・橋などの公共インフラも同様です。地方自治体の役割は住民の福祉と暮らしが本来の役割であるはずですが、そこにも軍事的な要請が大きく入り込もうとしています。DSEI JAPANはこの大きな仕掛けの一部として、そしてガザ戦争のさなかに開催されようとしているのです。
私たちが支持をし、千葉県民が選んだ熊谷知事のもとでの千葉県政が、こうした国による軍事優先政治による地方自治体に対する施策の押し付けに安易に呼応していることを私たちは大変に無念に思います。また、いままさに武器・兵器の恐ろしさ、その人命の殺傷、人々の暮らしの破壊、人道や倫理の蹂躙という本質が赤裸々に暴露されている最中に、武器見本市に会場の貸し出しで協力をする熊谷県政には、厳しく叱責をせざるを得ない想いです。
以上のことから、私たちは次のことを県当局に要請いたします。
1.武器見本市「DSEIJapan」に対し、公共施設である幕張メッセの貸し出しを許可しないでください。
2. 千葉県議会の「非核平和千葉宣言」や県内各市町村の「非核平和都市宣言」に則った平和施策を、教育の場をはじめの県政の各分野で積極的に推進して下さい。
以上
2024年2月16日
市民ネットワーク千葉県 千葉県議会議員 川口絵未
i女性会議千葉県本部 代表 加藤マリ子
新社会党千葉県本部 委員長 宮川敏一
社会民主党千葉県連合 代表 工藤鈴子
幕張メッセで開催される「武器見本市」への協力中止を求める要請書
千葉県知事 熊谷俊人様
千葉県千葉市の幕張メッセではこれまでに4回の武器見本市が開催されています。昨年の3月にも、私たちを含む多くの県民の中止要請にもかかわらず開催されました。千葉県民の暮らしのど真ん中で、千葉県当局の協力のもとに、人を殺し傷つける武器・兵器の一大展示会の開催が年中行事と化そうとしています。
DSEI JAPANの主催者によると、この武器見本市は「日本で開催される唯一の大規模で完全に統合された防衛イベントであり、日本およびより広いアジア太平洋市場への前例のないレベルのアクセスを提供する」とされています。ここには世界中の兵器産業、国家の軍関係省庁や政府関係者が集結し、兵器の宣伝、情報交換、売買契約などが行われます。
そして今年開催されるDSEI JAPANで特に注目すべきことは、現在も中東においてイスラエルによるパレスチナのガザ地区やヨルダン川西岸の自治地区に対する激しい軍事攻撃が行われている最中に準備されている武器見本市だという点です。ガザ地区においては、すでに原爆数発分と言われる大規模で集中的な軍事攻撃が行われ、子どもと女性を中心に2万数千人の人々の命が奪われ、数万人の負傷者が生じ、ガザ地区の7割が瓦礫と化してしまっています。世界中でイスラエルの蛮行に対する批判の声が高まり、そこで用いられる武器を供給している国々とその兵器産業に対する批判の声が高まっています。その声は、それぞれの国の政権さえ脅かすほどに大きくこだましています。
この非人道的大惨事に対しては、日本政府も無関係ではありえません。イスラエルやそれを支援する米国などを厳しく批判していないとして、パレスチナからだけでなく世界の人々からも厳しい視線を注がれています。また千葉県当局も、このままでは大きく責任を問われることにならざるをえません。なぜなら、いままさに世界の目の前で大虐殺を繰り広げているイスラエルと、それを軍事的に支援する米国やNATO諸国、そしてその足下の軍需企業を主要な出展者とする武器見本市に、あえて会場を貸し出そうとしているからです。これは、まさに大変な愚行、それどころか暴挙という他ありません。
とりわけ昨年以降のDSEI JAPANは、一昨年末に明確となった日本の防衛戦略の大転換を受けて、新たに危険な性格を帯びつつあります。この戦略転換では、「防衛産業は防衛力そのもの」「競争力のある国内企業が優れた装備品やデジタル技術などを供給できるよう防衛産業に関する課題を総ざらいし、防衛省に関係府省を加えた体制を整えて、より積極的に育成・強化を図っていく」「防衛装備移転三原則および同運用指針などによる制約をできる限り取り除き、日本の優れた装備品などを積極的に他国に移転できるようにするなど防衛産業が行う投資を回収できるように(する)」等々と強調されています。
また同報告は、国のあらゆる仕組みを軍事優先で作り直そうとしており、国民は「国を守る気概」を持つことを求めています。国の財政も信用・金融システムも軍事の要請の下に置かれ、大学や民間企業の科学技術研究も軍事と一体化。多くの港湾・道路・橋などの公共インフラも同様です。地方自治体の役割は住民の福祉と暮らしが本来の役割であるはずですが、そこにも軍事的な要請が大きく入り込もうとしています。DSEI JAPANはこの大きな仕掛けの一部として、そしてガザ戦争のさなかに開催されようとしているのです。
私たちが支持をし、千葉県民が選んだ熊谷知事のもとでの千葉県政が、こうした国による軍事優先政治による地方自治体に対する施策の押し付けに安易に呼応していることを私たちは大変に無念に思います。また、いままさに武器・兵器の恐ろしさ、その人命の殺傷、人々の暮らしの破壊、人道や倫理の蹂躙という本質が赤裸々に暴露されている最中に、武器見本市に会場の貸し出しで協力をする熊谷県政には、厳しく叱責をせざるを得ない想いです。
以上のことから、私たちは次のことを県当局に要請いたします。
1.武器見本市「DSEIJapan」に対し、公共施設である幕張メッセの貸し出しを許可しないでください。
2. 千葉県議会の「非核平和千葉宣言」や県内各市町村の「非核平和都市宣言」に則った平和施策を、教育の場をはじめの県政の各分野で積極的に推進して下さい。
以上
2024年2月16日
市民ネットワーク千葉県 千葉県議会議員 川口絵未
i女性会議千葉県本部 代表 加藤マリ子
新社会党千葉県本部 委員長 宮川敏一
社会民主党千葉県連合 代表 工藤鈴子
2023年11月24日
県民平和大集会に1万人が参加
「全国連帯!沖縄から発信しよう!県民平和大集会~対話による信頼こそ平和への道」が11月23日午後に那覇市の奥武山公園陸上競技場で開催され、1万人が参加しました。事務局も仲間たち、先輩たちと一緒に参加しました。
那覇空港に向かう飛行機からキャンプ・シュワブが見えました。埋め立てられた海が痛々しいです。
何としても大浦湾を守らなければなりません。
勝連半島のホワイトビーチが見えました。米軍、自衛隊ともに艦船は停泊していないようでした。
那覇空港からゆいレールに乗って奥武山公園陸上競技場へ。集会に先立ち、12時から音楽コンサートが開催されました。上の写真は島唄ポップスのYUIKAさんです。
唄三線を披露した桑江優稀乃さん。「お医者さんの卵」という紹介がありました。
栄口青年会による力強いエイサーの演舞です。唐船どーいで締めくくられた後、大きな歓声がわき上がっていました。
会場周辺のテントでは展示や物販が行われていました。
伊江島の仲間たちの旗です。以前は平和友好祭の「被戦地オキナワ青年の旅」で伊江島を訪れていました。「また伊江島に行きたい」という声が多いのです。
キッチンカーが何台か出ていました。どれも美味しそうです。
事務局はカレーを食べました。大満足の味でした。
メイン集会が始まりました。まず、「沖縄を再び戦場にさせない県民の会」の瑞慶覧長敏共同代表によるあいさつです。
玉城デニー知事によるあいさつが続きました。「政府は沖縄の不条理に向き合おうとしていない。その不条理が存在する限り、私たち沖縄県民はひるむことなく平和のための声をあげよう」と呼びかけがありました。
暑いなかで会場にはたくさんの人たちが詰めかけていました。集会は、伊波洋一参議院議員、沖縄県議会の次呂久成崇議員のあいさつ、オール沖縄会議の高里鈴代共同代表のあいさつと続きます。
「第2の基地県」である神奈川から、全国基地爆音訴訟原告団連絡協議会の金子豊貴男さんが発言しました。金子さんは平和友好祭運動の大先輩でもあります。
各地からの報告では、与那国、石垣、宮古、うるま市、沖縄市、名護市、奄美、西之表からの発言とメッセージの紹介がありました。
みんなで作ったスイミーバイが披露されました。思いっきり逆光でハレ切りができなかったので、ゴーストが写りこんでしまっています。
みんなで「戦争を知らない子どもたち」を歌いました。みんな笑顔で、とても盛り上がりました。若い人たちはこの歌を知っているのかな? 事務局は「戦争を知らない子どもたち」のさらに子どもの世代なので、2番まではそらで歌えます。3番は忘れていました。今の10~20代の仲間たちは、「戦争を知らない子どもたち」の孫なんですね。
閉会あいさつは具志堅隆松さんから。以前、平和友好祭の「被戦地オキナワ青年の旅」でも講演をいただいたことがありました。
スイミーバイを囲んでみんなで「ガンバロー!」
夜はぱれっと市民劇場で全国参加者交流会が行われました。沖縄からのあいさつ(写真は沖縄平和運動センターの上里議長)、全国の仲間たちの報告、台湾、韓国、アメリカからのメッセージと続きました。沖縄のたたかいを全国に広げようと決意し合いました。
那覇空港に向かう飛行機からキャンプ・シュワブが見えました。埋め立てられた海が痛々しいです。
何としても大浦湾を守らなければなりません。
勝連半島のホワイトビーチが見えました。米軍、自衛隊ともに艦船は停泊していないようでした。
那覇空港からゆいレールに乗って奥武山公園陸上競技場へ。集会に先立ち、12時から音楽コンサートが開催されました。上の写真は島唄ポップスのYUIKAさんです。
唄三線を披露した桑江優稀乃さん。「お医者さんの卵」という紹介がありました。
栄口青年会による力強いエイサーの演舞です。唐船どーいで締めくくられた後、大きな歓声がわき上がっていました。
会場周辺のテントでは展示や物販が行われていました。
伊江島の仲間たちの旗です。以前は平和友好祭の「被戦地オキナワ青年の旅」で伊江島を訪れていました。「また伊江島に行きたい」という声が多いのです。
キッチンカーが何台か出ていました。どれも美味しそうです。
事務局はカレーを食べました。大満足の味でした。
メイン集会が始まりました。まず、「沖縄を再び戦場にさせない県民の会」の瑞慶覧長敏共同代表によるあいさつです。
玉城デニー知事によるあいさつが続きました。「政府は沖縄の不条理に向き合おうとしていない。その不条理が存在する限り、私たち沖縄県民はひるむことなく平和のための声をあげよう」と呼びかけがありました。
暑いなかで会場にはたくさんの人たちが詰めかけていました。集会は、伊波洋一参議院議員、沖縄県議会の次呂久成崇議員のあいさつ、オール沖縄会議の高里鈴代共同代表のあいさつと続きます。
「第2の基地県」である神奈川から、全国基地爆音訴訟原告団連絡協議会の金子豊貴男さんが発言しました。金子さんは平和友好祭運動の大先輩でもあります。
各地からの報告では、与那国、石垣、宮古、うるま市、沖縄市、名護市、奄美、西之表からの発言とメッセージの紹介がありました。
みんなで作ったスイミーバイが披露されました。思いっきり逆光でハレ切りができなかったので、ゴーストが写りこんでしまっています。
みんなで「戦争を知らない子どもたち」を歌いました。みんな笑顔で、とても盛り上がりました。若い人たちはこの歌を知っているのかな? 事務局は「戦争を知らない子どもたち」のさらに子どもの世代なので、2番まではそらで歌えます。3番は忘れていました。今の10~20代の仲間たちは、「戦争を知らない子どもたち」の孫なんですね。
閉会あいさつは具志堅隆松さんから。以前、平和友好祭の「被戦地オキナワ青年の旅」でも講演をいただいたことがありました。
スイミーバイを囲んでみんなで「ガンバロー!」
夜はぱれっと市民劇場で全国参加者交流会が行われました。沖縄からのあいさつ(写真は沖縄平和運動センターの上里議長)、全国の仲間たちの報告、台湾、韓国、アメリカからのメッセージと続きました。沖縄のたたかいを全国に広げようと決意し合いました。
2023年11月17日
11月23日は県民平和大集会(奥武山公園陸上競技場)に参加を
11月23日に那覇市の奥武山公園の陸上競技場で「県民平和大集会」が開催されます。主催者である「沖縄を再び戦場にさせない県民の会」からは県の内外に向けて1万人規模の結集が呼びかけられており、玉城デニー知事と照屋義実副知事も参加する予定とのことです。
以下が「県民の会」のホームページと呼びかけ文です。多くの仲間の結集を実現しましょう。
「県民の会」のホームページ
https://kenminnokai.okinawa/
沖縄県民及び全国の皆さま
連日新聞テレビで報道されていますように、沖縄が再び戦場にされかねない動きが強まっています。政府はここ数年「中国脅威」論を強調し、昨年(2022年)の暮れには「安保関連3文書」を閣議決定。その上で「台湾有事」「南西諸島有事」に備えるためとして、最大の軍事強化を図ることを宣言しています。与那国、石垣、宮古の島々に限らず、沖縄島や奄美、馬毛島に至るまで自衛隊基地が相次いで建設され、ミサイルや弾薬が持ち込まれています。さらには日本から直接中国本土に届く長射程のミサイル開発に乗り出すと言っています。
そのための費用・軍事費を向こう5年間で43兆円と積算しています。とんでもない軍拡であり、かつてない軍事緊張が走っています。このままでは本当に戦争が起きかねません。
政府は、ひたひたと迫る戦争の足音に恐怖する県民感情に配慮するどころか、政権の中枢にいる自民党の麻生副総裁は「戦う覚悟を持て」と迫ってきました。辺野古問題で最高裁判所は、9月4日、埋め立て変更申請を不承認とする玉城県政の訴えを、県側に一切弁論の機会を与えず退けました。このように中央から沖縄に無理難題が押し付けられてくる重苦しい状況下で、昨年12月以来、県内多くの市民団体が一堂に会して、沖縄を再び戦場にさせてはならないと、戦争に反対する全県組織を立上げるために会合を重ねてきました。
そして去る7月25日、ついに『沖縄を再び戦場にさせない県民の会』を、60を超える市民団体で発足させました。会は、対話による信頼関係の醸成こそ現下の緊張する東アジア情勢を改善する唯一の道であることを訴えて活動していくことを目標にしています。政治信条を越えて、老若男女が一体となって、再びの沖縄戦を起こさせないために取り組んでいきます。
つきましては、11月23日(木・祝)には、県立奥武山陸上競技場にて大規模な集会を開催する予定です。12時から音楽コンサートを開催し、14時から16時に平和大集会となり、最後に集会アピール行動で行い、17時に閉会となります。なお、19時からは、全国交流集会をパレット市民劇場(県庁近く)にて行い、沖縄と全国各地からのリレー報告を行います。
万人を超える大集会を成功させ、無謀を極める政府の戦争政策に絶対反対である県民の思いを政府に、全国に発信していきましょう。どうぞ県民の皆さま、『沖縄を再び戦場にさせない県民の会』にご理解をいただき、そして集会へご参加くださいますようお願いいたします。
そして、全国の皆様にも賛同いただき、ご参加くださいますようご案内申し上げます。
以下がチラシのJPGデータです。サムネイルになっているので、クリックしてごらんください。
以下が奥武山公園の地図です。こちらもサムネイルになっています。大集会の会場となる陸上競技場はゆいレールの壷川駅が最寄りとなります。
以下が「県民の会」のホームページと呼びかけ文です。多くの仲間の結集を実現しましょう。
「県民の会」のホームページ
https://kenminnokai.okinawa/
沖縄県民及び全国の皆さま
連日新聞テレビで報道されていますように、沖縄が再び戦場にされかねない動きが強まっています。政府はここ数年「中国脅威」論を強調し、昨年(2022年)の暮れには「安保関連3文書」を閣議決定。その上で「台湾有事」「南西諸島有事」に備えるためとして、最大の軍事強化を図ることを宣言しています。与那国、石垣、宮古の島々に限らず、沖縄島や奄美、馬毛島に至るまで自衛隊基地が相次いで建設され、ミサイルや弾薬が持ち込まれています。さらには日本から直接中国本土に届く長射程のミサイル開発に乗り出すと言っています。
そのための費用・軍事費を向こう5年間で43兆円と積算しています。とんでもない軍拡であり、かつてない軍事緊張が走っています。このままでは本当に戦争が起きかねません。
政府は、ひたひたと迫る戦争の足音に恐怖する県民感情に配慮するどころか、政権の中枢にいる自民党の麻生副総裁は「戦う覚悟を持て」と迫ってきました。辺野古問題で最高裁判所は、9月4日、埋め立て変更申請を不承認とする玉城県政の訴えを、県側に一切弁論の機会を与えず退けました。このように中央から沖縄に無理難題が押し付けられてくる重苦しい状況下で、昨年12月以来、県内多くの市民団体が一堂に会して、沖縄を再び戦場にさせてはならないと、戦争に反対する全県組織を立上げるために会合を重ねてきました。
そして去る7月25日、ついに『沖縄を再び戦場にさせない県民の会』を、60を超える市民団体で発足させました。会は、対話による信頼関係の醸成こそ現下の緊張する東アジア情勢を改善する唯一の道であることを訴えて活動していくことを目標にしています。政治信条を越えて、老若男女が一体となって、再びの沖縄戦を起こさせないために取り組んでいきます。
つきましては、11月23日(木・祝)には、県立奥武山陸上競技場にて大規模な集会を開催する予定です。12時から音楽コンサートを開催し、14時から16時に平和大集会となり、最後に集会アピール行動で行い、17時に閉会となります。なお、19時からは、全国交流集会をパレット市民劇場(県庁近く)にて行い、沖縄と全国各地からのリレー報告を行います。
万人を超える大集会を成功させ、無謀を極める政府の戦争政策に絶対反対である県民の思いを政府に、全国に発信していきましょう。どうぞ県民の皆さま、『沖縄を再び戦場にさせない県民の会』にご理解をいただき、そして集会へご参加くださいますようお願いいたします。
そして、全国の皆様にも賛同いただき、ご参加くださいますようご案内申し上げます。
以下がチラシのJPGデータです。サムネイルになっているので、クリックしてごらんください。
以下が奥武山公園の地図です。こちらもサムネイルになっています。大集会の会場となる陸上競技場はゆいレールの壷川駅が最寄りとなります。
2023年10月27日
反核平和の火リレーが横須賀に到着
神奈川県実行委員会が取り組む反核平和の火リレーが10月27日に横須賀に到着しました。
沖縄に次ぐ「第2の基地県」と呼ばれている神奈川のリレー運動では、米軍基地撤去も重要な課題として位置付けられています。事務局は例年、最終日の到着集会に参加するのとあわせて横須賀基地前を通る最終区間だけ走っています。しかし、今年は目先の任務でドタバタしており、横須賀市役所での到着集会にギリギリで間に合いました。
横須賀市役所への要請行動に続き、市職労、水道労組、教組など地区実の仲間からの報告と決意表明が行われています。
「基地の街」横須賀で暮らし、働く仲間たちからパレスチナ情勢への言及もあり、意識の高さを感じさせられました。
県実行委員会と横須賀地区実行委員会の仲間たちによる集合写真です。実行委員長を先頭によくがんばりました。来年もみんなでまたがんばろう!という決意が聞かれました。
今年度は、北海道、岩手、宮城、山形、茨城、埼玉、神奈川、東京、長野、富山、兵庫、鳥取、島根、広島、山口、香川、徳島、高知、長崎、佐賀、鹿児島の仲間たちが平和の火を走り継ぎました。「反核平和の火の夕べ」など学習の機会の減少という課題はあるものの、青年たちが平和運動に参加する重要な機会です。この運動を大切にして、より多くの仲間に拡げる努力をみんなで進めたいと思います。
さて、軍ヲタの事務局は、本当なら早めに横須賀に来て軍港めぐりのクルーズ船に乗船したかったのですが、今回はその時間がありませんでした。悔しいので、ヴェルニー公園から海上自衛隊の「もがみ」型FFM2番艦の「くまの」を撮影しました。昨年3月に就役し、掃海隊群に所属しています。全長133メートルなのですが、ずいぶん大きく見えました。10月15日には横須賀基地の一般開放があったそうです。最近はこういう情報もきちんとチェックしていないので、見逃すことが多いのが現実です。
沖縄に次ぐ「第2の基地県」と呼ばれている神奈川のリレー運動では、米軍基地撤去も重要な課題として位置付けられています。事務局は例年、最終日の到着集会に参加するのとあわせて横須賀基地前を通る最終区間だけ走っています。しかし、今年は目先の任務でドタバタしており、横須賀市役所での到着集会にギリギリで間に合いました。
横須賀市役所への要請行動に続き、市職労、水道労組、教組など地区実の仲間からの報告と決意表明が行われています。
「基地の街」横須賀で暮らし、働く仲間たちからパレスチナ情勢への言及もあり、意識の高さを感じさせられました。
県実行委員会と横須賀地区実行委員会の仲間たちによる集合写真です。実行委員長を先頭によくがんばりました。来年もみんなでまたがんばろう!という決意が聞かれました。
今年度は、北海道、岩手、宮城、山形、茨城、埼玉、神奈川、東京、長野、富山、兵庫、鳥取、島根、広島、山口、香川、徳島、高知、長崎、佐賀、鹿児島の仲間たちが平和の火を走り継ぎました。「反核平和の火の夕べ」など学習の機会の減少という課題はあるものの、青年たちが平和運動に参加する重要な機会です。この運動を大切にして、より多くの仲間に拡げる努力をみんなで進めたいと思います。
さて、軍ヲタの事務局は、本当なら早めに横須賀に来て軍港めぐりのクルーズ船に乗船したかったのですが、今回はその時間がありませんでした。悔しいので、ヴェルニー公園から海上自衛隊の「もがみ」型FFM2番艦の「くまの」を撮影しました。昨年3月に就役し、掃海隊群に所属しています。全長133メートルなのですが、ずいぶん大きく見えました。10月15日には横須賀基地の一般開放があったそうです。最近はこういう情報もきちんとチェックしていないので、見逃すことが多いのが現実です。
2023年06月23日
「慰霊の日」にあたり琉球新報と沖縄タイムスの社説
「慰霊の日」にあたり、琉球新報と沖縄タイムスの社説を紹介します。両紙の立場・見解の違いがよく分かります。
今日の式典で、岸田首相は先月の広島に続いて、沖縄を次の戦争に利用し、犠牲に供する決意を示すでしょう。私たちが民衆の立場から岸田首相による決意表明を拒否・拒絶できるかが問われています。
【琉球新報】戦後78年「慰霊の日」 沖縄は「戦場」を拒否する
貴い生命を奪う殺りくが続く。抑止力向上を名目とした軍備増強が急速に進む。平和に逆行する動きの中で私たちはこの日を迎えた。きょうは敗戦から78年の「慰霊の日」である。
昨年来、平和はもろく、その回復は極めて困難であることを思い知らされてきた。平和を脅かす戦争準備に強い危機感を抱いてきた。それでも私たちは平和構築の不断の歩みを断念するわけにはいかない。沖縄の島々が再び戦場となることを県民は明確に拒否する。そのためにも沖縄戦の実相を見つめ直す日としたい。
沖縄に住んでいる私たちは今、国際社会の分断と脅威論の広がりを目の当たりにしている。沖縄にとっては、いずれも平和構築の障害であり、克服しなければならない。ロシアによるウクライナ侵攻は無辜(むこ)の民に犠牲を強いるとともに国際社会に深刻な分断をもたらした。侵攻から1年で、双方の軍民の死者数は当局者らの公表分だけで計約2万7千人を数えた。停戦の糸口は見えないままだ。
先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)は国際社会の分断を融和へと導く場とすべきであった。しかし、ロシアへの制裁強化を確認し、包囲網を固めたことで分断はより深まったように見える。
ロシアに影響力を持つ中国との連携や、戦闘を続ける両国に対し中立を保つ「グローバルサウス」の国々との対話を踏まえた停戦の働き掛けが必要だ。停戦を促す国際的枠組みづくりが急がれる。先進国の取り組みを求めたい。
ロシアのウクライナ侵攻は台湾有事という脅威論につながった。それらを背景とした防衛の「南西シフト」によって宮古、石垣、与那国の軍備増強が急激に進んだ。北朝鮮によるミサイル発射や衛星打ち上げも脅威論の横行に拍車をかけている。3島への地対空誘導弾パトリオット(PAC3)配備は2カ月近くになる。
これらの軍備増強は他国との緊張を高めるものでしかなく、地域住民の平安な暮らしに寄与するものではない。他国の標的となることへの危惧を住民は抱いている。何よりも「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓に照らしても、現在の軍備増強の動きは否定されるべきものだ。
「慰霊の日」に当たって沖縄が政府に求めることは、台湾有事や中国、北朝鮮の脅威をあおることではなく、緊張緩和に向けた外交努力である。防衛費増額の財源を確保する特別措置法は成立したが国民は防衛費増に否定的だ。政府は国民世論を直視し、軍備増強政策を改めるべきだ。
きょうの全戦没者追悼式では玉城デニー知事が発表する平和宣言と合わせ、岸田文雄首相があいさつを述べる。沖縄の島々が再び戦禍に巻き込まれることがあってはならない。県民の思いに沿うメッセージを求めたい。
【沖縄タイムス】慰霊の日に 「平和な島」を手放すな
沖縄戦は、幼児からお年寄りまで、あらゆる世代を巻き込んだ戦争だった。本来、保護されるべき一般住民も、逃げ場を失って戦場をさまよい、米軍の容赦ない攻撃の犠牲となった。住民を守ってくれると信じていた「友軍」(日本軍)は、住民を壕から追い出し、食料を奪い、投降しようとした兵士を背後から射殺し、住民をスパイと見なして殺害した。当時、沖縄県庁で疎開業務に携わっていた浦崎純さんは、本島南部の戦場で、死んだ母親にすがって乳房を含んでいる幼子の姿を見た。どうすることもできなかったという。
「そこには前線もなければ後方もなく、戦闘員、非戦闘員の区別もなかった」(『消えた沖縄県』)
なぜ、このような凄惨(せいさん)、無残な戦争になってしまったのか。敗戦の結果、沖縄は本土と切り離され、冷戦の最前線に置かれた。そして今、「新たな戦前」ともいわれる危機の真っただ中にある。
沖縄はきょう、慰霊の日を迎える。二度と戦争を起こしてはならないという切実な声をもっと広げ、世界に向かって伝えていく必要がある。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓は、戦時下にあって、兵士にも民間人にも深く浸透し、行動をしばった。軍人は事実上、捕虜になることを禁じられた。民間人も「米兵に捕まったら女性は強姦される」などという流言にしばられ、捕虜になるより死を選ぶケースが相次いだ。第32軍司令部は戦略持久作戦にこだわり、住民保護も適切に行わないまま、南部に撤退したが、その結果、軍民混在という最悪の状況が生まれ、住民の犠牲を多くしたのである。住民保護の明らかな失敗であった。
南風原にあった沖縄陸軍病院には多くの重傷患者が収容されていた。南部に撤退する際、兵士に青酸カリが配られ、「処置」されたことはよく知られている。退却の際、重傷者をどう扱うかは、沖縄戦のずっと前から、日本軍の中で問題にされていた。ここに見られるのは、ハーグ陸戦条約やジュネーブ条約など非戦闘員の保護や捕虜の取り扱いなどを定めた国際条約に対する日本の後ろ向きの姿勢である。
ジュネーブ条約(赤十字条約)には傷病兵が捕虜になることを認める条文がある。硫黄島に配属された混成第2旅団野戦病院は、この条約を根拠にして米軍と交渉し、投降勧告を受け入れ、組織ごと捕虜になった。彼らはグアムに送られた後、米軍側の要請で沖縄に移動し、軍病院で沖縄住民の治療に当たった。日本が降伏する前の戦争中の話である。
沖縄陸軍病院と第2旅団野戦病院のこの違いはどこからくるのだろうか。日本は1929年に不戦条約を批准し、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する、という国際法上の義務を負うことになった。この考え方は、国連憲章や日本国憲法第9条に取り入れられている。だが、日本を含め多くの国々がこの条約に反するような戦争を続けてきた。
ロシアによるウクライナ侵攻で、世界の光景は一変した。核大国が核使用をちらつかせて他国を威圧するということは、国際法上あってはならないことだ。中国や北朝鮮は軍備増強、核・ミサイル開発を続け、日本政府も防衛費の大幅増額、敵基地攻撃能力の保有を表明し、対抗姿勢を鮮明にした。歯車が完全に逆回転し始めているのである。
23日の慰霊の日、糸満市摩文仁の平和祈念公園では、「沖縄全戦没者追悼式」(主催・県、県議会)が開かれる。国籍や軍人、民間人の区別なく戦没者の名前を刻銘した「平和の礎」は、二度と戦争を起こさないという誓いのモニュメントである。「新たな戦争」の犠牲者の名前が追加刻銘されるようなことがあってはならない。
https://ryukyushimpo.jp/statics/html/okinawasen/
今日の式典で、岸田首相は先月の広島に続いて、沖縄を次の戦争に利用し、犠牲に供する決意を示すでしょう。私たちが民衆の立場から岸田首相による決意表明を拒否・拒絶できるかが問われています。
【琉球新報】戦後78年「慰霊の日」 沖縄は「戦場」を拒否する
貴い生命を奪う殺りくが続く。抑止力向上を名目とした軍備増強が急速に進む。平和に逆行する動きの中で私たちはこの日を迎えた。きょうは敗戦から78年の「慰霊の日」である。
昨年来、平和はもろく、その回復は極めて困難であることを思い知らされてきた。平和を脅かす戦争準備に強い危機感を抱いてきた。それでも私たちは平和構築の不断の歩みを断念するわけにはいかない。沖縄の島々が再び戦場となることを県民は明確に拒否する。そのためにも沖縄戦の実相を見つめ直す日としたい。
沖縄に住んでいる私たちは今、国際社会の分断と脅威論の広がりを目の当たりにしている。沖縄にとっては、いずれも平和構築の障害であり、克服しなければならない。ロシアによるウクライナ侵攻は無辜(むこ)の民に犠牲を強いるとともに国際社会に深刻な分断をもたらした。侵攻から1年で、双方の軍民の死者数は当局者らの公表分だけで計約2万7千人を数えた。停戦の糸口は見えないままだ。
先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)は国際社会の分断を融和へと導く場とすべきであった。しかし、ロシアへの制裁強化を確認し、包囲網を固めたことで分断はより深まったように見える。
ロシアに影響力を持つ中国との連携や、戦闘を続ける両国に対し中立を保つ「グローバルサウス」の国々との対話を踏まえた停戦の働き掛けが必要だ。停戦を促す国際的枠組みづくりが急がれる。先進国の取り組みを求めたい。
ロシアのウクライナ侵攻は台湾有事という脅威論につながった。それらを背景とした防衛の「南西シフト」によって宮古、石垣、与那国の軍備増強が急激に進んだ。北朝鮮によるミサイル発射や衛星打ち上げも脅威論の横行に拍車をかけている。3島への地対空誘導弾パトリオット(PAC3)配備は2カ月近くになる。
これらの軍備増強は他国との緊張を高めるものでしかなく、地域住民の平安な暮らしに寄与するものではない。他国の標的となることへの危惧を住民は抱いている。何よりも「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓に照らしても、現在の軍備増強の動きは否定されるべきものだ。
「慰霊の日」に当たって沖縄が政府に求めることは、台湾有事や中国、北朝鮮の脅威をあおることではなく、緊張緩和に向けた外交努力である。防衛費増額の財源を確保する特別措置法は成立したが国民は防衛費増に否定的だ。政府は国民世論を直視し、軍備増強政策を改めるべきだ。
きょうの全戦没者追悼式では玉城デニー知事が発表する平和宣言と合わせ、岸田文雄首相があいさつを述べる。沖縄の島々が再び戦禍に巻き込まれることがあってはならない。県民の思いに沿うメッセージを求めたい。
【沖縄タイムス】慰霊の日に 「平和な島」を手放すな
沖縄戦は、幼児からお年寄りまで、あらゆる世代を巻き込んだ戦争だった。本来、保護されるべき一般住民も、逃げ場を失って戦場をさまよい、米軍の容赦ない攻撃の犠牲となった。住民を守ってくれると信じていた「友軍」(日本軍)は、住民を壕から追い出し、食料を奪い、投降しようとした兵士を背後から射殺し、住民をスパイと見なして殺害した。当時、沖縄県庁で疎開業務に携わっていた浦崎純さんは、本島南部の戦場で、死んだ母親にすがって乳房を含んでいる幼子の姿を見た。どうすることもできなかったという。
「そこには前線もなければ後方もなく、戦闘員、非戦闘員の区別もなかった」(『消えた沖縄県』)
なぜ、このような凄惨(せいさん)、無残な戦争になってしまったのか。敗戦の結果、沖縄は本土と切り離され、冷戦の最前線に置かれた。そして今、「新たな戦前」ともいわれる危機の真っただ中にある。
沖縄はきょう、慰霊の日を迎える。二度と戦争を起こしてはならないという切実な声をもっと広げ、世界に向かって伝えていく必要がある。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓は、戦時下にあって、兵士にも民間人にも深く浸透し、行動をしばった。軍人は事実上、捕虜になることを禁じられた。民間人も「米兵に捕まったら女性は強姦される」などという流言にしばられ、捕虜になるより死を選ぶケースが相次いだ。第32軍司令部は戦略持久作戦にこだわり、住民保護も適切に行わないまま、南部に撤退したが、その結果、軍民混在という最悪の状況が生まれ、住民の犠牲を多くしたのである。住民保護の明らかな失敗であった。
南風原にあった沖縄陸軍病院には多くの重傷患者が収容されていた。南部に撤退する際、兵士に青酸カリが配られ、「処置」されたことはよく知られている。退却の際、重傷者をどう扱うかは、沖縄戦のずっと前から、日本軍の中で問題にされていた。ここに見られるのは、ハーグ陸戦条約やジュネーブ条約など非戦闘員の保護や捕虜の取り扱いなどを定めた国際条約に対する日本の後ろ向きの姿勢である。
ジュネーブ条約(赤十字条約)には傷病兵が捕虜になることを認める条文がある。硫黄島に配属された混成第2旅団野戦病院は、この条約を根拠にして米軍と交渉し、投降勧告を受け入れ、組織ごと捕虜になった。彼らはグアムに送られた後、米軍側の要請で沖縄に移動し、軍病院で沖縄住民の治療に当たった。日本が降伏する前の戦争中の話である。
沖縄陸軍病院と第2旅団野戦病院のこの違いはどこからくるのだろうか。日本は1929年に不戦条約を批准し、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する、という国際法上の義務を負うことになった。この考え方は、国連憲章や日本国憲法第9条に取り入れられている。だが、日本を含め多くの国々がこの条約に反するような戦争を続けてきた。
ロシアによるウクライナ侵攻で、世界の光景は一変した。核大国が核使用をちらつかせて他国を威圧するということは、国際法上あってはならないことだ。中国や北朝鮮は軍備増強、核・ミサイル開発を続け、日本政府も防衛費の大幅増額、敵基地攻撃能力の保有を表明し、対抗姿勢を鮮明にした。歯車が完全に逆回転し始めているのである。
23日の慰霊の日、糸満市摩文仁の平和祈念公園では、「沖縄全戦没者追悼式」(主催・県、県議会)が開かれる。国籍や軍人、民間人の区別なく戦没者の名前を刻銘した「平和の礎」は、二度と戦争を起こさないという誓いのモニュメントである。「新たな戦争」の犠牲者の名前が追加刻銘されるようなことがあってはならない。
https://ryukyushimpo.jp/statics/html/okinawasen/
2023年05月22日
5・21平和集会宣言
2000人以上の仲間たちが北谷公園野球場前広場に集まり、「島々を戦場にするな!沖縄を平和発信の場に!平和集会」が開催されました。ガマフヤー代表の具志堅隆松さんをはじめ、さまざまな仲間が発言しました。集会後はデモ行進も行われました。
集会宣言を以下に紹介します。
◆5・21平和集会宣言
島々を戦場にするな!
沖縄を平和発信の場に!
馬毛島および種子島、奄美大島、沖縄島、宮古島、石垣島、与那国島。軍事拡大に脅かされる島々の想いを一つに私たちはここに集い、平和への想いを込めて宣言します。
政府が守るのは住民ではなく国家です。「軍隊は住民を守らない」というのが沖縄戦の教訓です。戦争は、すべての自由や権利を奪います。シニア世代も子育て世代も若者も子どもたちも老若男女を問わず、いま私たちは平和に生き延びることを本気で考えなければいけない時にきています。日中友好条約は先人達が残してくれた平和への資源です。日本の各都道府県・市町村は中国全土の数多くの省や市との姉妹都市・友好都市提携を結んでいます。隣国に向けるものはミサイルではなく、平和です。日本全国で日中の平和外交・民間交流へ推進の声を上げて行きましょう。
琉球は日本国憲法ができる何百年も前から『非武の邦』として平和国家を実践し、信頼の中で「万国津梁」世界の架け橋を担いました。
その子孫である私たちもまた、沖縄を世界平和の架け橋とする使命のもとに、手は他者の手とつなぐため、足は東アジア・世界に飛び立つため、目は相手に信頼の眼差しを向け、口は言葉を交わしあい、歌を歌い、知恵は私たちの平和をつくるために使いましょう。
中国に「以民促官(いみんそっかん)」という言葉があります。私たち一人ひとりの声が、「官」すなわち政治を動かすことができるということです。未来の命に促され、過去の命に励まされて、大きな力を恐れず、勇気を得て、私たちは、私たちの島々を守っていきましょう。
2023年5月21日 5・21平和集会実行委員会
集会宣言を以下に紹介します。
◆5・21平和集会宣言
島々を戦場にするな!
沖縄を平和発信の場に!
馬毛島および種子島、奄美大島、沖縄島、宮古島、石垣島、与那国島。軍事拡大に脅かされる島々の想いを一つに私たちはここに集い、平和への想いを込めて宣言します。
政府が守るのは住民ではなく国家です。「軍隊は住民を守らない」というのが沖縄戦の教訓です。戦争は、すべての自由や権利を奪います。シニア世代も子育て世代も若者も子どもたちも老若男女を問わず、いま私たちは平和に生き延びることを本気で考えなければいけない時にきています。日中友好条約は先人達が残してくれた平和への資源です。日本の各都道府県・市町村は中国全土の数多くの省や市との姉妹都市・友好都市提携を結んでいます。隣国に向けるものはミサイルではなく、平和です。日本全国で日中の平和外交・民間交流へ推進の声を上げて行きましょう。
琉球は日本国憲法ができる何百年も前から『非武の邦』として平和国家を実践し、信頼の中で「万国津梁」世界の架け橋を担いました。
その子孫である私たちもまた、沖縄を世界平和の架け橋とする使命のもとに、手は他者の手とつなぐため、足は東アジア・世界に飛び立つため、目は相手に信頼の眼差しを向け、口は言葉を交わしあい、歌を歌い、知恵は私たちの平和をつくるために使いましょう。
中国に「以民促官(いみんそっかん)」という言葉があります。私たち一人ひとりの声が、「官」すなわち政治を動かすことができるということです。未来の命に促され、過去の命に励まされて、大きな力を恐れず、勇気を得て、私たちは、私たちの島々を守っていきましょう。
2023年5月21日 5・21平和集会実行委員会
2023年05月18日
「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
「第29回被戦地オキナワ青年の旅」を5月12日(金)~16日(火)に開催しました。北海道、岩手、秋田、茨城、兵庫、島根、広島、徳島から、自治労、林野労組、全農林、私鉄、全水道、社青同の19人の仲間が参加しました。
事務局は準備物に細かい忘れ物があったので、那覇空港到着後にゆいレールで「おもろまち」まで買い物にでかけました。せっかくなので、沖縄戦の際の激戦地だったシュガーローフ・ヒルに行ってみました。数年ぶりでした。
「おもろまち」駅から少し坂を登ったところにあるこの丘がシュガーローフです。天久住宅地区の返還後の再開発で建てられたたくさんのビルの狭間にあるこの小さな丘の周辺では、沖縄戦の際に日米両軍が激しい戦闘を繰り広げました。米軍にとっては首里の日本軍司令部を包囲するためにこの一帯の制圧は不可欠でした。ゆいレールの「おもろまち」駅付近は戦前は軽便鉄道が走っていた路線にあたり、当時の写真を見ると現在の地形と一致していることが分かります。
急な階段でシュガーローフの丘を登ります。途中の木陰で若いサラリーマンが昼休憩していました。お仕事お疲れ様です。
丘に登り、那覇の市街地を臨みました。以前は沖縄戦の際に米軍が「ホースシュー」と呼んだ窪地の痕跡が判別できたのですが、今は市街地化が急速に進み、新しく建ったビルの合間に埋もれてしまっています。
シュガーローフから見た首里城です。日本軍はシュガーローフを「安里52高地」と呼んでいました。周辺のいくつかの丘の陣地との間での相互支援、首里城からの砲兵の支援で米軍と熾烈な戦闘が繰り広げられました。首里城の日本軍の砲兵隊はシュガーローフ周辺の米軍に正確に砲弾を撃ち込んだそうです。ただし、5月中旬には日本軍の砲兵隊は弾薬を使い果たしつつあり、1日に発射できる砲弾の数が制限されていたとのことです。
「ガマフヤー」の具志堅隆松さんによれば、「おもろまち」は戦死した日本兵の遺骨の収集が行われないまま再開発が進められたそうです。華やかな新しい市街地のコンクリートの下には、多くの日本兵の遺骨が放置されたままになっています。
■さて、14時45分に那覇空港1階到着ロビーで19人の参加者が無事に集合完了した後、バスに乗ってまずは国道58号線を北上し、那覇軍港、浦添市にあるキャンプキンザー(牧港補給区)を車窓から眺めつつ、嘉数高台まで移動しました。第3海兵兵站群の司令部があるキャンプキンザーには、11棟の倉庫、13棟の高層住宅があります。ベトナム戦争の時代には「ミサイルからトイレットペーパーまで」補給した施設です。
嘉数高台に到着後、丘に登り、展望台から海兵隊普天間飛行場を視察しました。2700メートルの滑走路がある飛行場です。周辺に住宅地、学校、市役所、病院などがあり、「世界一危険な基地」と呼ばれています。SACO合意にもとづく普天間基地の返還計画、辺野古移設=新基地建設の問題について確認しました。
ちょうど、この日の訓練を終えたオスプレイが私たちのすぐ真上を通過して普天間基地へと戻るところでした。かなり低空を飛んでいます。
展望台のすぐ横には、沖縄戦で生命を奪われた朝鮮半島出身者を弔う「青丘の塔」があります。「青丘」とは朝鮮半島のことです。さらにその奥にある「京都の塔」の由来についてもまなびました。
嘉数高台は沖縄戦の際に日本軍の主陣地帯の要でもありました。4月1日に読谷~嘉手納~北谷の海岸に上陸し、南下して首里の日本軍司令部を目指す米軍は、激しい突撃準備射撃をともないつつ戦車と歩兵の協働で嘉数高台とその背後にある嘉数集落の制圧を目指しました。日本軍は米軍の戦車を、4門の対戦車砲と兵士の肉弾攻撃で防ごうとしました。肉弾攻撃は10人で編成され、うち5人が20キロの爆薬を背負って戦車の履帯の下に身を投げ出して擱座させます。残り5人は突入を支援しました。履帯の下に飛び込む兵士もそれを支援の兵士もいずれも殲滅したという米軍の戦闘記録があるそうです。多数の兵士の犠牲が前提の日本軍の戦闘だったのです。
嘉数高台には第63師団隷下の「独立歩兵第13大隊」が配備され、戦闘の経過とともに「独立歩兵第23大隊」「独立歩兵第272大隊」「独立歩兵第273大隊」が投入されました。嘉数の戦闘では多くの京都府出身の兵士が生命を落としました。沖縄戦における京都出身の2500余柱の戦没者をまつるのが「京都の塔」です。「京都の塔」は嘉数の住民の大きな犠牲にも触れていることから、しばしば平和運動の題材にもなっています。沖縄戦の当時の嘉数集落の住民は、最初はテラガマ、チヂフチャーガマに避難していましたが、日米両軍の戦闘が始まる前に南部に避難した人と、嘉数に残った人がいました。しかし、いずれも戦闘に巻き込まれ、半数以上が亡くなりました。
嘉数高台を後にして、普天間~石平~ライカムを通って沖縄市内へ。平和友好祭は「基地の街」と呼ばれる沖縄市のホテルニューセンチュリーで宿泊しています。「基地の街」で40年以上にわたって営業を続けているホテルということで、米軍関係者の利用もあるようです。私たちは到着後、ホテルの8階で結団式を行い、「10フィート運動」の映画を観ました。続いて、夕食を取りながら参加者から自己紹介を受けました。4泊5日の「旅」への参加のために、休暇を取るのがたいへんだった、と報告した仲間が多くいました。「なんで沖縄に行くのか」と職場で言われた仲間もいたそうです。日本の職場や社会は本当に不自由で窮屈ですね。
■2日目は5・15平和行進に参加しました。
平和友好祭は読谷村役場から嘉手納町を経て北谷町役場まで行進する「中部基地コース」に参加しました。
日本でいちばん人口の多い村である読谷村(23年4月時点で約4万1千人)は緑が多く、空が広く、明るく、とても解放感があります。現在の読谷村役場は以前は読谷補助飛行場があった場所です。基地のない村づくりが村ぐるみで進められています。
陸軍のグリーンベレー部隊が所在しているトリイステーションのフェンスのすぐわきで行進を続けます。「平和な沖縄を返せ!」「辺野古新基地建設反対!」とシュプレヒコールを続けました。デモ行進やシュプレヒコールを平和行進で初めて経験した、という仲間が少なくありません。この意味でも、平和行進は大事な取り組みです。
嘉手納町民広場で昼食休憩を取った後、国道58号線の嘉手納基地ぞいを行進しました。歩いても歩いても米軍基地のフェンスです。4千メートル級滑走路を2本も持つ嘉手納基地がいかに広大かを実感させられるコースでした。
行進団は15時半に北谷町役場に到着しました。北谷町職労のみなさんに冷たいお茶や北谷町名産の甘いぜんざいをふるまっていただきました。疲れた体に甘さと水分が心地よく浸みわたりました。
中部コースの行進には1200人が参加したとの報告でした。到着集会には北谷町の町議会議員さんの過半数が参加していたとのことです。野国前町長もいらっしゃいました。代表で発言した町議会議員さんの報告では、米軍基地の汚染水が町民の健康を脅かしていることがよく分かりました。「町ぐるみ」で基地撤去をたたかう必要性と意義を強く感じました。
今年の平和行進でも恒例の妨害行為がありました。「出征兵士を送る歌」など戦時歌謡・軍国歌謡を大音量でまきちらしつつ、彼ら自身は自衛隊に入隊して国防の最前線に立つご様子は見られません。そういえば、事務局の大学時代の友人・先輩が何人か自衛隊で勤務しており、「いたずらに国防意識に燃えて入隊するような人は、隊内での集団生活の現実に慣れることができずにやめていく」といった話を聞いたことがあります。
街宣車から垂れ流されている戦時歌謡で言うと、「青年日本の歌」には難しい言葉や言い回しが多用されていますが、「ばかやろう」「おまえら帰れ」としか言わないような乏しい語彙力でその内容を理解できるのか、本当に心配です。「青年日本の歌」は別名「昭和維新の歌」と呼ばれ、極めて軍国主義的な内容です。しかし、「権門上に傲れども国を憂うる誠なし 財閥富を誇れども社稷を思う心なし」など、資本主義がもたらす民衆の貧困を背景に、当時の政治体制や当時の青年将校たちにとっての「君側の奸」に対する激しい怒りがうたわれています。青年の義憤や正義感も、間違った方向に組織されると戦争のできる国づくりに利用されてしまうということではないでしょうか。
平和行進が北谷町役場に到着する前、コンビニで平和友好祭からの行進参加者が何人かで一服していたところ、「私も若い頃に平和友好祭運動をがんばっていた」「若い人たちに期待している」と、元自治労組合員の女性からカンパをいただきました。このカンパを受け取った仲間から後で報告を受け、本当に驚きました。お名前をお聞きしなかったとのことで、言葉では直接に感謝の伝えようがありません。これから、労働組合運動や平和運動を懸命にがんばることで、カンパをくださった方へのお返しとしなければなりません。
北谷町役場から沖縄市内に戻り、嘉手納基地第2ゲートの前にある沖縄市戦後文化資料展示館(ヒストリート)を見学しました。市史編纂室の方に展示のご案内をいただきました。1時間ほど沖縄市にとっての沖縄戦、現在の嘉手納基地内で行われた南西諸島方面の日本軍の降伏文書調印式、そして戦後のコザの街の歴史についてまなびました。
この日の夕食は恒例のステーキでした。美味しそうな牛ヒレにみんなで舌鼓を打ちました。若い調理師さんがめちゃイケメンで盛り上がっていました。みんなで平和行進を貫徹した後のステーキは格別です。200グラムのお肉では足りず、追加で注文した仲間もいました。若い胃袋は本当に無限大です。
■「オキナワの旅」の3日目は南部戦跡で沖縄戦の実相についてまなびました。
この日のガイドはいつもお世話になっている仲本節子さんです。まず、午前中はひめゆり平和祈念資料館に向かいました。
最初に伊原第3外科壕の前で仲本さんからお話を聞き、お花と黙とうを捧げました。伊原第3外科壕は6月18日の日本軍の解散命令の後、米軍の爆弾攻撃で多くの犠牲が出たところです。
赤心之塔にもお花を差し上げました。ひめゆり学徒たちとともに伊原第3外科壕で犠牲になった大田さん一家を偲ぶ塔です。日本軍は首里から南部への撤退にあたり、伊原第3外科壕に避難していた住民を追い出しましたが、大田さんという一家は高齢者と小さな子どもたちがいたために壕内に残留しました。しかし、6月19日に米軍のガス弾が壕内に投げ込まれ、高齢者と3人の子どもが犠牲になりました。
資料館では、元学徒隊員の宮良るりさんの証言ビデオを見ながら講話を聴きました。宮良さんの「兵隊は死ぬときにお母さんや家族の名前を呼んで死んでいった。学校では日本の兵隊は天皇陛下万歳と言って散っていくと教えられたが、誰も天皇陛下万歳とは言わなかった」という言葉が心に重くひびきました。ひめゆり平和祈念資料館での学習は、多くの人々が動員されているウクライナでの戦争のことを思い起こさせます。「軍隊は住民を守らない」という教訓を現代の世界や反戦平和の運動に生かすにはどうしたら良いのかが深刻に問われています。
また、「オキナワの旅」実施にあたり全国の仲間から寄せられた資料館への寄付をお渡ししました。
2020年冬以降の「コロナ禍」下での入館者の減少で、入館料収入が激減する資料館を支援することを目的に、昨年も同様の呼びかけを行いました。昨年は「コロナ禍」で参加がかなわないという声が多かったため、「旅」に参加しない県実・労組への呼びかけ、「旅」参加者が代表してお渡しすることとしましたが、結論としては「旅」に参加者を出した県実・労組からの寄付がほとんどでした。私は、「ああ、多くの仲間たちが沖縄のこと、沖縄戦のことは忘れてしまったのだな」と思いました。しかし、今年はあらためて呼びかけを行い、11万9千円を資料館にお渡しすることができました。ご協力くださったみなさん、ありがとうございました。
今回は仲本さんの案内で、ひめゆり資料館から10分ほど歩いたところにある伊原第1外科壕跡にも行きました。ガマに少し降りたところにお花が供えられており、訪れた人がいることが分かりました。沖縄陸軍病院は南部に撤退した頃にはすでに病院としての機能は停止していたとのことです。6月18日の解散命令の後、米軍の掃討戦のなかで多くの学徒隊員が生命を奪われました。
昼食はひめゆり平和祈念資料館前の「優美堂」さんでいただきました。
22年、20年の「旅」のときには、「コロナ禍」の影響で優美堂のお客さんが本当に少なく、訪れた際に食事を団体でしているのは平和友好祭だけでした。お土産のコーナーも電気が消されていて、本当に心配になりました。今回は平和友好祭以外にもたくさんの団体の予約が入っており、注文する料理はなるべく統一してほしいと言われるほどでした。このまま何とか持ち直してほしいところです。
昼食後はまず魂魄の塔を訪れました。その後、南城市まで移動し、アブチラガマで沖縄戦の追体験を行いました。アブチラガマは当初は陸軍の陣地でしたが、沖縄戦では沖縄陸軍病院糸数分室となり、戦闘で負傷した600人とも言われる負傷兵が運び込まれました。ひめゆり学徒隊員が看護活動に動員されました。
今回は新城啓八さんのガイドで、沖縄戦の際にガマで何があったかについてまなびました。
アブチラガマでは、この20年の間にさまざまな整備が進んでいます。事務局が「オキナワの旅」の参加者として初めてアブチラガマを訪れたのはもう20年以上前になります。当時は駐車場と民家の裏にガマの入口がひっそりとあるだけでした。今は案内センターや入口前のもぎりの建物ができ、入口には手すりや階段が整備されています。内部には落石防止の金網が備えられ、ヘルメットの着用が義務付けられ、写真撮影は禁止になりました。インターネットではアブチラガマを「心霊スポット」として紹介するものもあり、修学旅行や労働組合でも事前の学習が不足していると戦争の追体験ではなく「洞窟探検」のような雰囲気になってしまっている様子が見られます。また、糸満市の「轟の壕」では落石があり、現在は内部での追体験が中止となっているとのことです。整備が進むことと、戦争の追体験・学習との間で考えなければならない課題があります。
新城啓八さんは、お若いころに平和友好祭石垣地区実行委員会で実行委員長を務めていたとのことです。「平和はうたごえから」ということでうたごえ運動に熱心に関わっていたとのことでした。この日は平和友好祭運動の後輩たちのガイドということで、張り切ってかけつけたとおっしゃってくださいました。青年たちへの激励もいただきました。ありがとうございました。
続いて、沖縄戦で沖縄陸軍病院が置かれていた南風原町にある南風原文化センターで沖縄戦の映像と展示資料を見学しました。
これは、病院壕内の寝台の様子を再現したジオラマです。
展示では、南風原の人々が沖縄戦で多くの人々が亡くなったことについても説明がありました。軍隊がもし住民を守るというなら、陸軍病院のあった南風原の人々の半数が戦闘に巻き込まれて亡くなったことについて説明できません。同時に、文化センターの資料には「切り込みに行く日本兵がおにぎりをくれて、生き延びるように言われた」という証言も展示されていました。沖縄戦では、味方であるはずの日本兵によって多くの沖縄の人々が殺害され、食料強奪や壕の追い出しなどの形で戦場に放り出される事態が多発する一方、「生き延びろ」「死ぬな」と住民に言い残した兵士がいたという証言もあります。ひめゆり資料館でも、生徒たちと「自決」した教師がいた一方、「死んではダメだ」と伝えた先生もいたとのことでした。
いま、資本の合理化攻撃によって忙しくなる一方の職場では、多くの人が「他人を蹴落としてでも自分が生き延びることができたら…」という気持ちにさせられています。働く意欲、生きる意欲さえ奪われる仲間もいます。労働組合の役員や活動家が仲間たちに「生き延びろ」「死ぬな」と言えるかどうかが問われていると思います。
南風原文化センターでの学習を終え、ホテルに戻りました。南風原町から沖縄市まで高速道路を使うと30分弱で到着します。沖縄自動車道すごいです。
ホテルの会議室で、9歳のときに沖縄戦を体験した仲宗根藤子さんからお話をいただきました。平和への思いをたくさん語っていただきました。参加者からも感想や質問をお返ししました。仲宗根さんの体験は、『青年の声』5月1日付号に掲載されています。
戦争が終わってから78年が経ちました。すでに「コロナ禍」の前から、沖縄戦の体験者から直接にお話を聞く機会が少なくなっていました。「オキナワの旅」の開催にあたり、青年たちのために沖縄戦の体験を話してくださる方がいないかと思っていたときに、Ⅰ女性会議の「おんなのしんぶん」の記事で仲宗根藤子さんのことを知りました。87歳の仲宗根さんは足が悪くされており、講演の会場までの移動に心配がありました。しかし、平和友好祭が利用しているホテルニューセンチュリーの社長が仲宗根さんのいとこということで、「それなら行かないといけないね」ということで講演を引き受けてくださいました。もと中学校の先生ということで、仲宗根さんの言葉は本当に力強く感じました。
この日は、那覇市議会議員の多和田英子さん、Ⅰ女性会議沖縄県本部の前議長の狩俣信子さん(前沖縄県議会議員)が仲宗根さんをホテルまでお連れしてくださいました。狩俣さんからいただいたごあいさつは、私たちの南風原文化センターでの学習について、実例をもとに補強・補足してくださる内容でした。
講演後の夕食では、この3日間を振り返り、それぞれの感想を交流しました。笑いあり、涙ありのステキな交流でした。
■「旅」の4日目は、ホテルをチェックアウトしてから嘉手納町の「道の駅かでな」に向かいました。
4千メートル級滑走路を2本持つ広大な空軍嘉手納基地を視察しました。F15戦闘機部隊や輸送機が配備されています。国内外から外来機が多数飛来する基地でもあります。さらに、嘉手納基地内には住宅、学校、ホテル、商業施設、ゴルフ場もあり、一つの町となっています。そして、地域の人々が常に騒音にさらされています。近隣の学校では、飛行機の墜落事故に備えて避難訓練が行われているそうです。
「道の駅かでな」3階の資料室の展示がリニューアルされていました。戦前の嘉手納の街のジオラマがなくなっていました。
伊芸サービスエリアでトイレ休憩を取ってから、辺野古に向かいました。キャンプシュワブの座り込みのテント前では、平和友好祭からも1人ずつみなさんにごあいさつと決意表明しました。
テントで鹿児島の平和運動センターの先輩からごあいさつをいただきました。
平和友好祭もテントにいたみなさんと一緒に昼のトラックの基地内への進入阻止の座り込みに参加しました。みんなで「沖縄を返せ」や「ここへ座り込め」を歌いました。
排除のために機動隊員がやってきました。
排除が始まりました。この日の朝の座り込みは、平和運動センターの指示で平和行進に参加していた仲間たちがたくさん駆けつけ、工事用トラックの進入を阻止できたとのことでした。
たくさんのトラックが工事用ゲートからキャンプシュワブに入って行きます。シュプレヒコールで抗議を続けました。
午後は2班に分かれ、グラスボートで汀間漁港から大浦湾の埋め立て予定海域に向かいました。
事務局はバスの誘導があったので乗船しませんでしたが、この日は天気が良く、大浦湾の貴重な自然と新基地建設の現場の様子をしっかり確認できました。グラスボートの船長の西原さんのお話がとても分かりやすく、これからもたくさんの仲間たちに訪れてほしいところです。西原さんは「新基地建設に反対する私たちの運動が何を守ろうとしているのか知ってほしい」と話していました。
乗船まで待機している方の班は瀬嵩集落内の「じゅごんの里」の事務所の庭でお弁当です。うりずんの優しい風がそよぐなか、昼下がりの楽しいおしゃべりがお弁当をいっそう美味しくさせます。
静かな瀬嵩の集落の片隅で仲間たちとのんびり過ごす至福の時間でした。
何人かは瀬嵩の共同売店で買い物をしました。おまんじゅうやアイスが本当に美味しいのです。
集落内や海岸の散歩を楽しんだ仲間もいました。命の洗濯とはこのことですね。
大浦湾での学習を終えました。西原さん、じゅごんの里のみなさん、ありがとうございました。
6年前に元海兵隊員の米軍属にレイプ・殺害された女性のご遺体が遺棄されていた県道104号線沿いで、黙とうをささげました。米軍があることによる事件・事故は過去のことではありません。
そして、「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓もまた過去の物語にしてはいけません。いま、南西諸島での自衛隊の配備・強化が進められています。「旅」での交流で、ある参加者が、職場にいる元自衛隊員の仲間が「自衛隊では、おまえたちが守るのは住民ではない、と最初に教えられた」と話していたと報告していました。ところがいま、平和運動においてさえ、「専守防衛」に後退し個別的自衛権を実質上容認するような意見が聞かれるようになっています。しかし、私たちが沖縄で学習する内容は、それとはまったく逆の方向性にあります。これはイデオロギーではなく、沖縄の人々が体験した事実です。平和は軍隊によって守られ、作られるものではなく、労働者・民衆の国籍・国境・民族の枠ぐみを超えた国際的なたたかいによって実現されるものです。憲法9条はその象徴であり、「平和憲法の危機」は日本の平和運動の後退を示しているに過ぎません。戦争が起きたときに犠牲になるのは若い世代とその将来です。平和友好祭運動に課せられている課題は大きいものがあります。
4日目の宿泊は、名護市にある喜瀬ビーチパレスです。平和友好祭としては久しぶりの宿泊です。沖縄を訪れる観光客が増えるなかで、1年前でも宿泊予約ができなくなってしまい、しばらくご無沙汰していました。ホテルに到着後、この日までお世話になった東京バス沖縄営業所のドライバーの翁長さんにみんなでごあいさつしました。翁長さんも「旅」の趣旨や目的を理解し、ともにまなんでくださいました。ありがとうございました。
ホテルの前のビーチで楽しく過ごしました。夕方のビーチでみんなで元気にジャンプするのは青年の特権です。青年にしかできないことです。先輩から「俺は今も青年の気持ちでがんばっている」という言葉をお聞きすることがありますが、ビーチでジャンプできるかどうかぜひ試してみてほしいです。
「オキナワの旅」の最後の夜はビーチパーティーを楽しみました。
少しだけ花火をしました。BGMはフジファブリックの「若者のすべて」というところでしょうか。
アームレスリング大会が始まりました。「常に準備せよ」。日ごろから鍛えているかどうかが試されます。この後も深夜…明け方まで楽しい交流が続きました。
■最終日はホテルの会議室で美しい名護浦を眺めながら解団式を行いました。
まず2人の参加者から感想を受け、団長の林野労組青年女性委員会の田中委員長から集約があり、ガンバローで締めくくりました。
バスで那覇に向けて出発する前にビーチで集合写真を撮りました。うっかり平和友好祭のノボリを用意するのを忘れていました。でも、最後もみんなでジャンプしました。5日間の学習と交流を経て、19人が「仲間」になることができました。「しんどいこと」も含めて一緒に課題に取り組むことでこそ仲間になることができます。労働組合がそんな場であってほしいと思います。
「かわいい子には旅をさせよ」という言葉があります。4泊5日の「旅」を通じてみんな驚くほどたくましく成長しました。青年のまなぶ力と成長をいやというほど見せつけられたのが、事務局としての今回の「旅」での最大の成果でした。そして、いつになく多くの人たちに支えられた「旅」でもありました。その事実が、青年の学習と成長をいっそう引き出すことにつながったように感じます。来年以降も「旅」を継続するという結論が自然に導き出されたように思いました。
しかし、目の前の仕事に追われるなかで青年に「旅」をさせられない職場や労働組合が増えています。あるいは、未だに「青年に元気がない」「青年が保守化している」といった声を聞くことがあります。いや、青年は本当に元気です。「青年が元気である」ことを確認できない位置にいる人たちが、「青年は保守化している」といった無責任で表面的な評論をするのでしょう。かつての「革新」の保守化は本当に深刻です。労働組合が、反戦平和の運動が、青年の力を正しく発揮させる機会をなるべく多く持つこと以外に、職場や仲間を守り、平和を実現することはできません。
バスで那覇空港に戻り、解散後は飛行機まで時間のある仲間は牧志公設市場で昼食を食べました。
改築が終わり、新装オープンした牧志公設市場の様子です。のうれんプラザの致命的な失敗に比べると、比較的以前の雰囲気を良く残していると思いました。後は、ここで働く人々、ここを訪れる人々が日々の生産活動を通じて新たな歴史を刻み込んでいくだけです。
ただ、日差しが強いので、もう一度アーケードをかけてほしいです。雨降りの日も困りそうです。
活気あるまちぐわーの懐かしい風景をこれからも残したいものです。
事務局は紙屋さんで事務用の封筒を購入しました。
兵庫の仲間と事後学習で首里城の下にある旧日本軍司令部壕の第1坑道前に来ました。首里城にはたくさんの観光客が訪れていますが、ここを訪れる人は多くはありません。
東京に戻る飛行機から辺野古が見えました。埋め立て工事が進められています。新基地建設阻止のため、基地のない沖縄の実現のため、これからもみんなでがんばりましょう。
事務局は準備物に細かい忘れ物があったので、那覇空港到着後にゆいレールで「おもろまち」まで買い物にでかけました。せっかくなので、沖縄戦の際の激戦地だったシュガーローフ・ヒルに行ってみました。数年ぶりでした。
「おもろまち」駅から少し坂を登ったところにあるこの丘がシュガーローフです。天久住宅地区の返還後の再開発で建てられたたくさんのビルの狭間にあるこの小さな丘の周辺では、沖縄戦の際に日米両軍が激しい戦闘を繰り広げました。米軍にとっては首里の日本軍司令部を包囲するためにこの一帯の制圧は不可欠でした。ゆいレールの「おもろまち」駅付近は戦前は軽便鉄道が走っていた路線にあたり、当時の写真を見ると現在の地形と一致していることが分かります。
急な階段でシュガーローフの丘を登ります。途中の木陰で若いサラリーマンが昼休憩していました。お仕事お疲れ様です。
丘に登り、那覇の市街地を臨みました。以前は沖縄戦の際に米軍が「ホースシュー」と呼んだ窪地の痕跡が判別できたのですが、今は市街地化が急速に進み、新しく建ったビルの合間に埋もれてしまっています。
シュガーローフから見た首里城です。日本軍はシュガーローフを「安里52高地」と呼んでいました。周辺のいくつかの丘の陣地との間での相互支援、首里城からの砲兵の支援で米軍と熾烈な戦闘が繰り広げられました。首里城の日本軍の砲兵隊はシュガーローフ周辺の米軍に正確に砲弾を撃ち込んだそうです。ただし、5月中旬には日本軍の砲兵隊は弾薬を使い果たしつつあり、1日に発射できる砲弾の数が制限されていたとのことです。
「ガマフヤー」の具志堅隆松さんによれば、「おもろまち」は戦死した日本兵の遺骨の収集が行われないまま再開発が進められたそうです。華やかな新しい市街地のコンクリートの下には、多くの日本兵の遺骨が放置されたままになっています。
■さて、14時45分に那覇空港1階到着ロビーで19人の参加者が無事に集合完了した後、バスに乗ってまずは国道58号線を北上し、那覇軍港、浦添市にあるキャンプキンザー(牧港補給区)を車窓から眺めつつ、嘉数高台まで移動しました。第3海兵兵站群の司令部があるキャンプキンザーには、11棟の倉庫、13棟の高層住宅があります。ベトナム戦争の時代には「ミサイルからトイレットペーパーまで」補給した施設です。
嘉数高台に到着後、丘に登り、展望台から海兵隊普天間飛行場を視察しました。2700メートルの滑走路がある飛行場です。周辺に住宅地、学校、市役所、病院などがあり、「世界一危険な基地」と呼ばれています。SACO合意にもとづく普天間基地の返還計画、辺野古移設=新基地建設の問題について確認しました。
ちょうど、この日の訓練を終えたオスプレイが私たちのすぐ真上を通過して普天間基地へと戻るところでした。かなり低空を飛んでいます。
展望台のすぐ横には、沖縄戦で生命を奪われた朝鮮半島出身者を弔う「青丘の塔」があります。「青丘」とは朝鮮半島のことです。さらにその奥にある「京都の塔」の由来についてもまなびました。
嘉数高台は沖縄戦の際に日本軍の主陣地帯の要でもありました。4月1日に読谷~嘉手納~北谷の海岸に上陸し、南下して首里の日本軍司令部を目指す米軍は、激しい突撃準備射撃をともないつつ戦車と歩兵の協働で嘉数高台とその背後にある嘉数集落の制圧を目指しました。日本軍は米軍の戦車を、4門の対戦車砲と兵士の肉弾攻撃で防ごうとしました。肉弾攻撃は10人で編成され、うち5人が20キロの爆薬を背負って戦車の履帯の下に身を投げ出して擱座させます。残り5人は突入を支援しました。履帯の下に飛び込む兵士もそれを支援の兵士もいずれも殲滅したという米軍の戦闘記録があるそうです。多数の兵士の犠牲が前提の日本軍の戦闘だったのです。
嘉数高台には第63師団隷下の「独立歩兵第13大隊」が配備され、戦闘の経過とともに「独立歩兵第23大隊」「独立歩兵第272大隊」「独立歩兵第273大隊」が投入されました。嘉数の戦闘では多くの京都府出身の兵士が生命を落としました。沖縄戦における京都出身の2500余柱の戦没者をまつるのが「京都の塔」です。「京都の塔」は嘉数の住民の大きな犠牲にも触れていることから、しばしば平和運動の題材にもなっています。沖縄戦の当時の嘉数集落の住民は、最初はテラガマ、チヂフチャーガマに避難していましたが、日米両軍の戦闘が始まる前に南部に避難した人と、嘉数に残った人がいました。しかし、いずれも戦闘に巻き込まれ、半数以上が亡くなりました。
嘉数高台を後にして、普天間~石平~ライカムを通って沖縄市内へ。平和友好祭は「基地の街」と呼ばれる沖縄市のホテルニューセンチュリーで宿泊しています。「基地の街」で40年以上にわたって営業を続けているホテルということで、米軍関係者の利用もあるようです。私たちは到着後、ホテルの8階で結団式を行い、「10フィート運動」の映画を観ました。続いて、夕食を取りながら参加者から自己紹介を受けました。4泊5日の「旅」への参加のために、休暇を取るのがたいへんだった、と報告した仲間が多くいました。「なんで沖縄に行くのか」と職場で言われた仲間もいたそうです。日本の職場や社会は本当に不自由で窮屈ですね。
■2日目は5・15平和行進に参加しました。
平和友好祭は読谷村役場から嘉手納町を経て北谷町役場まで行進する「中部基地コース」に参加しました。
日本でいちばん人口の多い村である読谷村(23年4月時点で約4万1千人)は緑が多く、空が広く、明るく、とても解放感があります。現在の読谷村役場は以前は読谷補助飛行場があった場所です。基地のない村づくりが村ぐるみで進められています。
陸軍のグリーンベレー部隊が所在しているトリイステーションのフェンスのすぐわきで行進を続けます。「平和な沖縄を返せ!」「辺野古新基地建設反対!」とシュプレヒコールを続けました。デモ行進やシュプレヒコールを平和行進で初めて経験した、という仲間が少なくありません。この意味でも、平和行進は大事な取り組みです。
嘉手納町民広場で昼食休憩を取った後、国道58号線の嘉手納基地ぞいを行進しました。歩いても歩いても米軍基地のフェンスです。4千メートル級滑走路を2本も持つ嘉手納基地がいかに広大かを実感させられるコースでした。
行進団は15時半に北谷町役場に到着しました。北谷町職労のみなさんに冷たいお茶や北谷町名産の甘いぜんざいをふるまっていただきました。疲れた体に甘さと水分が心地よく浸みわたりました。
中部コースの行進には1200人が参加したとの報告でした。到着集会には北谷町の町議会議員さんの過半数が参加していたとのことです。野国前町長もいらっしゃいました。代表で発言した町議会議員さんの報告では、米軍基地の汚染水が町民の健康を脅かしていることがよく分かりました。「町ぐるみ」で基地撤去をたたかう必要性と意義を強く感じました。
今年の平和行進でも恒例の妨害行為がありました。「出征兵士を送る歌」など戦時歌謡・軍国歌謡を大音量でまきちらしつつ、彼ら自身は自衛隊に入隊して国防の最前線に立つご様子は見られません。そういえば、事務局の大学時代の友人・先輩が何人か自衛隊で勤務しており、「いたずらに国防意識に燃えて入隊するような人は、隊内での集団生活の現実に慣れることができずにやめていく」といった話を聞いたことがあります。
街宣車から垂れ流されている戦時歌謡で言うと、「青年日本の歌」には難しい言葉や言い回しが多用されていますが、「ばかやろう」「おまえら帰れ」としか言わないような乏しい語彙力でその内容を理解できるのか、本当に心配です。「青年日本の歌」は別名「昭和維新の歌」と呼ばれ、極めて軍国主義的な内容です。しかし、「権門上に傲れども国を憂うる誠なし 財閥富を誇れども社稷を思う心なし」など、資本主義がもたらす民衆の貧困を背景に、当時の政治体制や当時の青年将校たちにとっての「君側の奸」に対する激しい怒りがうたわれています。青年の義憤や正義感も、間違った方向に組織されると戦争のできる国づくりに利用されてしまうということではないでしょうか。
平和行進が北谷町役場に到着する前、コンビニで平和友好祭からの行進参加者が何人かで一服していたところ、「私も若い頃に平和友好祭運動をがんばっていた」「若い人たちに期待している」と、元自治労組合員の女性からカンパをいただきました。このカンパを受け取った仲間から後で報告を受け、本当に驚きました。お名前をお聞きしなかったとのことで、言葉では直接に感謝の伝えようがありません。これから、労働組合運動や平和運動を懸命にがんばることで、カンパをくださった方へのお返しとしなければなりません。
北谷町役場から沖縄市内に戻り、嘉手納基地第2ゲートの前にある沖縄市戦後文化資料展示館(ヒストリート)を見学しました。市史編纂室の方に展示のご案内をいただきました。1時間ほど沖縄市にとっての沖縄戦、現在の嘉手納基地内で行われた南西諸島方面の日本軍の降伏文書調印式、そして戦後のコザの街の歴史についてまなびました。
この日の夕食は恒例のステーキでした。美味しそうな牛ヒレにみんなで舌鼓を打ちました。若い調理師さんがめちゃイケメンで盛り上がっていました。みんなで平和行進を貫徹した後のステーキは格別です。200グラムのお肉では足りず、追加で注文した仲間もいました。若い胃袋は本当に無限大です。
■「オキナワの旅」の3日目は南部戦跡で沖縄戦の実相についてまなびました。
この日のガイドはいつもお世話になっている仲本節子さんです。まず、午前中はひめゆり平和祈念資料館に向かいました。
最初に伊原第3外科壕の前で仲本さんからお話を聞き、お花と黙とうを捧げました。伊原第3外科壕は6月18日の日本軍の解散命令の後、米軍の爆弾攻撃で多くの犠牲が出たところです。
赤心之塔にもお花を差し上げました。ひめゆり学徒たちとともに伊原第3外科壕で犠牲になった大田さん一家を偲ぶ塔です。日本軍は首里から南部への撤退にあたり、伊原第3外科壕に避難していた住民を追い出しましたが、大田さんという一家は高齢者と小さな子どもたちがいたために壕内に残留しました。しかし、6月19日に米軍のガス弾が壕内に投げ込まれ、高齢者と3人の子どもが犠牲になりました。
資料館では、元学徒隊員の宮良るりさんの証言ビデオを見ながら講話を聴きました。宮良さんの「兵隊は死ぬときにお母さんや家族の名前を呼んで死んでいった。学校では日本の兵隊は天皇陛下万歳と言って散っていくと教えられたが、誰も天皇陛下万歳とは言わなかった」という言葉が心に重くひびきました。ひめゆり平和祈念資料館での学習は、多くの人々が動員されているウクライナでの戦争のことを思い起こさせます。「軍隊は住民を守らない」という教訓を現代の世界や反戦平和の運動に生かすにはどうしたら良いのかが深刻に問われています。
また、「オキナワの旅」実施にあたり全国の仲間から寄せられた資料館への寄付をお渡ししました。
2020年冬以降の「コロナ禍」下での入館者の減少で、入館料収入が激減する資料館を支援することを目的に、昨年も同様の呼びかけを行いました。昨年は「コロナ禍」で参加がかなわないという声が多かったため、「旅」に参加しない県実・労組への呼びかけ、「旅」参加者が代表してお渡しすることとしましたが、結論としては「旅」に参加者を出した県実・労組からの寄付がほとんどでした。私は、「ああ、多くの仲間たちが沖縄のこと、沖縄戦のことは忘れてしまったのだな」と思いました。しかし、今年はあらためて呼びかけを行い、11万9千円を資料館にお渡しすることができました。ご協力くださったみなさん、ありがとうございました。
今回は仲本さんの案内で、ひめゆり資料館から10分ほど歩いたところにある伊原第1外科壕跡にも行きました。ガマに少し降りたところにお花が供えられており、訪れた人がいることが分かりました。沖縄陸軍病院は南部に撤退した頃にはすでに病院としての機能は停止していたとのことです。6月18日の解散命令の後、米軍の掃討戦のなかで多くの学徒隊員が生命を奪われました。
昼食はひめゆり平和祈念資料館前の「優美堂」さんでいただきました。
22年、20年の「旅」のときには、「コロナ禍」の影響で優美堂のお客さんが本当に少なく、訪れた際に食事を団体でしているのは平和友好祭だけでした。お土産のコーナーも電気が消されていて、本当に心配になりました。今回は平和友好祭以外にもたくさんの団体の予約が入っており、注文する料理はなるべく統一してほしいと言われるほどでした。このまま何とか持ち直してほしいところです。
昼食後はまず魂魄の塔を訪れました。その後、南城市まで移動し、アブチラガマで沖縄戦の追体験を行いました。アブチラガマは当初は陸軍の陣地でしたが、沖縄戦では沖縄陸軍病院糸数分室となり、戦闘で負傷した600人とも言われる負傷兵が運び込まれました。ひめゆり学徒隊員が看護活動に動員されました。
今回は新城啓八さんのガイドで、沖縄戦の際にガマで何があったかについてまなびました。
アブチラガマでは、この20年の間にさまざまな整備が進んでいます。事務局が「オキナワの旅」の参加者として初めてアブチラガマを訪れたのはもう20年以上前になります。当時は駐車場と民家の裏にガマの入口がひっそりとあるだけでした。今は案内センターや入口前のもぎりの建物ができ、入口には手すりや階段が整備されています。内部には落石防止の金網が備えられ、ヘルメットの着用が義務付けられ、写真撮影は禁止になりました。インターネットではアブチラガマを「心霊スポット」として紹介するものもあり、修学旅行や労働組合でも事前の学習が不足していると戦争の追体験ではなく「洞窟探検」のような雰囲気になってしまっている様子が見られます。また、糸満市の「轟の壕」では落石があり、現在は内部での追体験が中止となっているとのことです。整備が進むことと、戦争の追体験・学習との間で考えなければならない課題があります。
新城啓八さんは、お若いころに平和友好祭石垣地区実行委員会で実行委員長を務めていたとのことです。「平和はうたごえから」ということでうたごえ運動に熱心に関わっていたとのことでした。この日は平和友好祭運動の後輩たちのガイドということで、張り切ってかけつけたとおっしゃってくださいました。青年たちへの激励もいただきました。ありがとうございました。
続いて、沖縄戦で沖縄陸軍病院が置かれていた南風原町にある南風原文化センターで沖縄戦の映像と展示資料を見学しました。
これは、病院壕内の寝台の様子を再現したジオラマです。
展示では、南風原の人々が沖縄戦で多くの人々が亡くなったことについても説明がありました。軍隊がもし住民を守るというなら、陸軍病院のあった南風原の人々の半数が戦闘に巻き込まれて亡くなったことについて説明できません。同時に、文化センターの資料には「切り込みに行く日本兵がおにぎりをくれて、生き延びるように言われた」という証言も展示されていました。沖縄戦では、味方であるはずの日本兵によって多くの沖縄の人々が殺害され、食料強奪や壕の追い出しなどの形で戦場に放り出される事態が多発する一方、「生き延びろ」「死ぬな」と住民に言い残した兵士がいたという証言もあります。ひめゆり資料館でも、生徒たちと「自決」した教師がいた一方、「死んではダメだ」と伝えた先生もいたとのことでした。
いま、資本の合理化攻撃によって忙しくなる一方の職場では、多くの人が「他人を蹴落としてでも自分が生き延びることができたら…」という気持ちにさせられています。働く意欲、生きる意欲さえ奪われる仲間もいます。労働組合の役員や活動家が仲間たちに「生き延びろ」「死ぬな」と言えるかどうかが問われていると思います。
南風原文化センターでの学習を終え、ホテルに戻りました。南風原町から沖縄市まで高速道路を使うと30分弱で到着します。沖縄自動車道すごいです。
ホテルの会議室で、9歳のときに沖縄戦を体験した仲宗根藤子さんからお話をいただきました。平和への思いをたくさん語っていただきました。参加者からも感想や質問をお返ししました。仲宗根さんの体験は、『青年の声』5月1日付号に掲載されています。
戦争が終わってから78年が経ちました。すでに「コロナ禍」の前から、沖縄戦の体験者から直接にお話を聞く機会が少なくなっていました。「オキナワの旅」の開催にあたり、青年たちのために沖縄戦の体験を話してくださる方がいないかと思っていたときに、Ⅰ女性会議の「おんなのしんぶん」の記事で仲宗根藤子さんのことを知りました。87歳の仲宗根さんは足が悪くされており、講演の会場までの移動に心配がありました。しかし、平和友好祭が利用しているホテルニューセンチュリーの社長が仲宗根さんのいとこということで、「それなら行かないといけないね」ということで講演を引き受けてくださいました。もと中学校の先生ということで、仲宗根さんの言葉は本当に力強く感じました。
この日は、那覇市議会議員の多和田英子さん、Ⅰ女性会議沖縄県本部の前議長の狩俣信子さん(前沖縄県議会議員)が仲宗根さんをホテルまでお連れしてくださいました。狩俣さんからいただいたごあいさつは、私たちの南風原文化センターでの学習について、実例をもとに補強・補足してくださる内容でした。
講演後の夕食では、この3日間を振り返り、それぞれの感想を交流しました。笑いあり、涙ありのステキな交流でした。
■「旅」の4日目は、ホテルをチェックアウトしてから嘉手納町の「道の駅かでな」に向かいました。
4千メートル級滑走路を2本持つ広大な空軍嘉手納基地を視察しました。F15戦闘機部隊や輸送機が配備されています。国内外から外来機が多数飛来する基地でもあります。さらに、嘉手納基地内には住宅、学校、ホテル、商業施設、ゴルフ場もあり、一つの町となっています。そして、地域の人々が常に騒音にさらされています。近隣の学校では、飛行機の墜落事故に備えて避難訓練が行われているそうです。
「道の駅かでな」3階の資料室の展示がリニューアルされていました。戦前の嘉手納の街のジオラマがなくなっていました。
伊芸サービスエリアでトイレ休憩を取ってから、辺野古に向かいました。キャンプシュワブの座り込みのテント前では、平和友好祭からも1人ずつみなさんにごあいさつと決意表明しました。
テントで鹿児島の平和運動センターの先輩からごあいさつをいただきました。
平和友好祭もテントにいたみなさんと一緒に昼のトラックの基地内への進入阻止の座り込みに参加しました。みんなで「沖縄を返せ」や「ここへ座り込め」を歌いました。
排除のために機動隊員がやってきました。
排除が始まりました。この日の朝の座り込みは、平和運動センターの指示で平和行進に参加していた仲間たちがたくさん駆けつけ、工事用トラックの進入を阻止できたとのことでした。
たくさんのトラックが工事用ゲートからキャンプシュワブに入って行きます。シュプレヒコールで抗議を続けました。
午後は2班に分かれ、グラスボートで汀間漁港から大浦湾の埋め立て予定海域に向かいました。
事務局はバスの誘導があったので乗船しませんでしたが、この日は天気が良く、大浦湾の貴重な自然と新基地建設の現場の様子をしっかり確認できました。グラスボートの船長の西原さんのお話がとても分かりやすく、これからもたくさんの仲間たちに訪れてほしいところです。西原さんは「新基地建設に反対する私たちの運動が何を守ろうとしているのか知ってほしい」と話していました。
乗船まで待機している方の班は瀬嵩集落内の「じゅごんの里」の事務所の庭でお弁当です。うりずんの優しい風がそよぐなか、昼下がりの楽しいおしゃべりがお弁当をいっそう美味しくさせます。
静かな瀬嵩の集落の片隅で仲間たちとのんびり過ごす至福の時間でした。
何人かは瀬嵩の共同売店で買い物をしました。おまんじゅうやアイスが本当に美味しいのです。
集落内や海岸の散歩を楽しんだ仲間もいました。命の洗濯とはこのことですね。
大浦湾での学習を終えました。西原さん、じゅごんの里のみなさん、ありがとうございました。
6年前に元海兵隊員の米軍属にレイプ・殺害された女性のご遺体が遺棄されていた県道104号線沿いで、黙とうをささげました。米軍があることによる事件・事故は過去のことではありません。
そして、「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓もまた過去の物語にしてはいけません。いま、南西諸島での自衛隊の配備・強化が進められています。「旅」での交流で、ある参加者が、職場にいる元自衛隊員の仲間が「自衛隊では、おまえたちが守るのは住民ではない、と最初に教えられた」と話していたと報告していました。ところがいま、平和運動においてさえ、「専守防衛」に後退し個別的自衛権を実質上容認するような意見が聞かれるようになっています。しかし、私たちが沖縄で学習する内容は、それとはまったく逆の方向性にあります。これはイデオロギーではなく、沖縄の人々が体験した事実です。平和は軍隊によって守られ、作られるものではなく、労働者・民衆の国籍・国境・民族の枠ぐみを超えた国際的なたたかいによって実現されるものです。憲法9条はその象徴であり、「平和憲法の危機」は日本の平和運動の後退を示しているに過ぎません。戦争が起きたときに犠牲になるのは若い世代とその将来です。平和友好祭運動に課せられている課題は大きいものがあります。
4日目の宿泊は、名護市にある喜瀬ビーチパレスです。平和友好祭としては久しぶりの宿泊です。沖縄を訪れる観光客が増えるなかで、1年前でも宿泊予約ができなくなってしまい、しばらくご無沙汰していました。ホテルに到着後、この日までお世話になった東京バス沖縄営業所のドライバーの翁長さんにみんなでごあいさつしました。翁長さんも「旅」の趣旨や目的を理解し、ともにまなんでくださいました。ありがとうございました。
ホテルの前のビーチで楽しく過ごしました。夕方のビーチでみんなで元気にジャンプするのは青年の特権です。青年にしかできないことです。先輩から「俺は今も青年の気持ちでがんばっている」という言葉をお聞きすることがありますが、ビーチでジャンプできるかどうかぜひ試してみてほしいです。
「オキナワの旅」の最後の夜はビーチパーティーを楽しみました。
少しだけ花火をしました。BGMはフジファブリックの「若者のすべて」というところでしょうか。
アームレスリング大会が始まりました。「常に準備せよ」。日ごろから鍛えているかどうかが試されます。この後も深夜…明け方まで楽しい交流が続きました。
■最終日はホテルの会議室で美しい名護浦を眺めながら解団式を行いました。
まず2人の参加者から感想を受け、団長の林野労組青年女性委員会の田中委員長から集約があり、ガンバローで締めくくりました。
バスで那覇に向けて出発する前にビーチで集合写真を撮りました。うっかり平和友好祭のノボリを用意するのを忘れていました。でも、最後もみんなでジャンプしました。5日間の学習と交流を経て、19人が「仲間」になることができました。「しんどいこと」も含めて一緒に課題に取り組むことでこそ仲間になることができます。労働組合がそんな場であってほしいと思います。
「かわいい子には旅をさせよ」という言葉があります。4泊5日の「旅」を通じてみんな驚くほどたくましく成長しました。青年のまなぶ力と成長をいやというほど見せつけられたのが、事務局としての今回の「旅」での最大の成果でした。そして、いつになく多くの人たちに支えられた「旅」でもありました。その事実が、青年の学習と成長をいっそう引き出すことにつながったように感じます。来年以降も「旅」を継続するという結論が自然に導き出されたように思いました。
しかし、目の前の仕事に追われるなかで青年に「旅」をさせられない職場や労働組合が増えています。あるいは、未だに「青年に元気がない」「青年が保守化している」といった声を聞くことがあります。いや、青年は本当に元気です。「青年が元気である」ことを確認できない位置にいる人たちが、「青年は保守化している」といった無責任で表面的な評論をするのでしょう。かつての「革新」の保守化は本当に深刻です。労働組合が、反戦平和の運動が、青年の力を正しく発揮させる機会をなるべく多く持つこと以外に、職場や仲間を守り、平和を実現することはできません。
バスで那覇空港に戻り、解散後は飛行機まで時間のある仲間は牧志公設市場で昼食を食べました。
改築が終わり、新装オープンした牧志公設市場の様子です。のうれんプラザの致命的な失敗に比べると、比較的以前の雰囲気を良く残していると思いました。後は、ここで働く人々、ここを訪れる人々が日々の生産活動を通じて新たな歴史を刻み込んでいくだけです。
ただ、日差しが強いので、もう一度アーケードをかけてほしいです。雨降りの日も困りそうです。
活気あるまちぐわーの懐かしい風景をこれからも残したいものです。
事務局は紙屋さんで事務用の封筒を購入しました。
兵庫の仲間と事後学習で首里城の下にある旧日本軍司令部壕の第1坑道前に来ました。首里城にはたくさんの観光客が訪れていますが、ここを訪れる人は多くはありません。
東京に戻る飛行機から辺野古が見えました。埋め立て工事が進められています。新基地建設阻止のため、基地のない沖縄の実現のため、これからもみんなでがんばりましょう。
2023年05月14日
復帰51年の5・15平和行進に2000人が参加
復帰51年の5・15平和行進が5月13日に南部(戦跡)コースと中部(基地)コースで開催され、南部コースに750人、中部コースに1200人の仲間たちが参加しました。
平和友好祭実行委員会も「第29回被戦地オキナワ青年の旅」の取り組みの一環として平和行進の中部コースに参加しました。
出発集会は読谷村役場のわきにある広場で行われました。読谷村役場はかつての読谷補助飛行場の敷地にあります。役場は村ぐるみでの基地撤去の取り組みの象徴です。
たくさんの仲間たちが沖縄県内外から参加しました。
平和フォーラムの田中事務局長からもあいさつがありました。
読谷村職労の仲間の音頭でガンバロー
読谷村役場を出発しました。とても良い天気です。
みんな笑顔で行進し、基地のない沖縄を訴えています。
ざわわ、ざわわ…。サトウキビ畑の中の道を進みます。
米陸軍のトリイステーションのゲートが見えてきました。
本当に空が広くて明るいのです。
嘉手納町方面に向けてトリイステーションのフェンス脇を進みます。
昼食休憩は嘉手納町民広場で取りました。嘉手納町の非核平和宣言の碑の前を仲間たちが行進しています。
延々と続く広大な嘉手納基地と陸軍貯油施設のフェンスの脇で行進を続けました。
1200人の仲間たちの長い長い行進の隊列が彼方まで続いています。
シュプレヒコールを繰り返しながら、みんなで元気に歩き続けます。みんなで「しんどいこと」に取り組むことで、平和を守り、合理化に対して職場や雇用や仲間を守る力を持つことができます。
北谷町役場に到着しました。到着集会で北谷町職労、北谷町議会議員、北谷町の野国前町長が出迎えてくださいました。
北谷町の名産のぜんざいやお茶を出していただきました。疲れた体に甘みと水分と北谷の仲間たちのやさしさが染みわたりました。
北谷町議会議員の半数以上が到着集会に参加してくださったそうです。基地からのPFAS汚染水が町民の健康を脅かしているとの報告を受けました。基地のない町つくりが健康な生活の実現に直結しています。
平和友好祭の仲間たちもがんばって平和行進を貫徹しました。
5月14日は宮古コース、15日は八重山コースで行進が行われます。沖縄の米軍基地撤去、辺野古での新基地建設反対、南西諸島での自衛隊の増強に反対するたたかいを全国各地で強めなければなりません。
平和友好祭実行委員会も「第29回被戦地オキナワ青年の旅」の取り組みの一環として平和行進の中部コースに参加しました。
出発集会は読谷村役場のわきにある広場で行われました。読谷村役場はかつての読谷補助飛行場の敷地にあります。役場は村ぐるみでの基地撤去の取り組みの象徴です。
たくさんの仲間たちが沖縄県内外から参加しました。
平和フォーラムの田中事務局長からもあいさつがありました。
読谷村職労の仲間の音頭でガンバロー
読谷村役場を出発しました。とても良い天気です。
みんな笑顔で行進し、基地のない沖縄を訴えています。
ざわわ、ざわわ…。サトウキビ畑の中の道を進みます。
米陸軍のトリイステーションのゲートが見えてきました。
本当に空が広くて明るいのです。
嘉手納町方面に向けてトリイステーションのフェンス脇を進みます。
昼食休憩は嘉手納町民広場で取りました。嘉手納町の非核平和宣言の碑の前を仲間たちが行進しています。
延々と続く広大な嘉手納基地と陸軍貯油施設のフェンスの脇で行進を続けました。
1200人の仲間たちの長い長い行進の隊列が彼方まで続いています。
シュプレヒコールを繰り返しながら、みんなで元気に歩き続けます。みんなで「しんどいこと」に取り組むことで、平和を守り、合理化に対して職場や雇用や仲間を守る力を持つことができます。
北谷町役場に到着しました。到着集会で北谷町職労、北谷町議会議員、北谷町の野国前町長が出迎えてくださいました。
北谷町の名産のぜんざいやお茶を出していただきました。疲れた体に甘みと水分と北谷の仲間たちのやさしさが染みわたりました。
北谷町議会議員の半数以上が到着集会に参加してくださったそうです。基地からのPFAS汚染水が町民の健康を脅かしているとの報告を受けました。基地のない町つくりが健康な生活の実現に直結しています。
平和友好祭の仲間たちもがんばって平和行進を貫徹しました。
5月14日は宮古コース、15日は八重山コースで行進が行われます。沖縄の米軍基地撤去、辺野古での新基地建設反対、南西諸島での自衛隊の増強に反対するたたかいを全国各地で強めなければなりません。
2023年04月16日
「第29回被戦地オキナワ青年の旅」を5月12日~16日で開催
沖縄平和運動センターからの5・15平和行進の取り組みの指示を受けて、平和友好祭実行委員会でも「第29回被戦地オキナワ青年の旅」の準備を進めています。今年は5月12日(金)~16日(火)での開催となります。以下の内容で準備を進めています。
12日(金) 那覇空港で集合、嘉数高台から普天間基地視察、結団式
13日(土) 5・15平和行進、沖縄市戦後文化資料展示館見学
14日(日) ひめゆり資料館で講話と見学、魂魄の塔、アブチラガマ追体験、沖縄戦体験者の講話
15日(月) 道の駅かでなから嘉手納基地視察、辺野古で座り込みと海上から新基地予定地視察
16日(火) 解団式
宿泊は12日~14日の3泊は沖縄市内、15日は名護市内となります。
以前は平和友好祭の「オキナワの旅」の宿泊先は那覇市の国際通り沿いのホテルでした。ある年の取り組みで沖縄市長の東門美津子さん(当時)から講演を受けた際、「基地の中の沖縄に触れるなら、ぜひコザで宿泊を」というお誘いを受け、学習という意味も含めて基地の街コザ=沖縄市内で宿泊するようになった経過があります。「旅」で沖縄市職労青年部のみなさんとの交流に取り組んでいた時期もありました。
基地の街コザは、さまざまな歌手によってその様子や現実が歌われていますので、以下に少しだけですが紹介します。
ネーネーズの「あめりか通り」です。たくさんの人々で賑わう空港通りの様子が目に浮かびます。
佐渡山豊さんの「ドゥチュイムニイ」。「独り言」という意味です。「独り言」の解説は無粋でしょうから、まずは聴いてください。
同じく佐渡山豊さんの「第三ゲート」です。「基地の中の沖縄」の現実を淡々と、しかし赤裸々に歌っています。
我喜屋良光さんの「Koza」です。しみじみとコザの雰囲気を思い起こすことができます。
沖縄市は1970年12月の「コザ暴動」の舞台でもありました。かつてコザ市長だった大山朝常さんは「コザ暴動の炎は民衆の心に燃え上がった炎だから水では消せないんだ」とおっしゃったそうです。「オキナワの旅」でも、くすぶり続ける火種を仲間たちの心へと移す作業にあたりたいと思います。仲間たちの参加をお待ちしています。
2年ほど前に「ミラクルシティコザ」という映画も作られていますので、機会があったらご覧ください。
12日(金) 那覇空港で集合、嘉数高台から普天間基地視察、結団式
13日(土) 5・15平和行進、沖縄市戦後文化資料展示館見学
14日(日) ひめゆり資料館で講話と見学、魂魄の塔、アブチラガマ追体験、沖縄戦体験者の講話
15日(月) 道の駅かでなから嘉手納基地視察、辺野古で座り込みと海上から新基地予定地視察
16日(火) 解団式
宿泊は12日~14日の3泊は沖縄市内、15日は名護市内となります。
以前は平和友好祭の「オキナワの旅」の宿泊先は那覇市の国際通り沿いのホテルでした。ある年の取り組みで沖縄市長の東門美津子さん(当時)から講演を受けた際、「基地の中の沖縄に触れるなら、ぜひコザで宿泊を」というお誘いを受け、学習という意味も含めて基地の街コザ=沖縄市内で宿泊するようになった経過があります。「旅」で沖縄市職労青年部のみなさんとの交流に取り組んでいた時期もありました。
基地の街コザは、さまざまな歌手によってその様子や現実が歌われていますので、以下に少しだけですが紹介します。
ネーネーズの「あめりか通り」です。たくさんの人々で賑わう空港通りの様子が目に浮かびます。
佐渡山豊さんの「ドゥチュイムニイ」。「独り言」という意味です。「独り言」の解説は無粋でしょうから、まずは聴いてください。
同じく佐渡山豊さんの「第三ゲート」です。「基地の中の沖縄」の現実を淡々と、しかし赤裸々に歌っています。
我喜屋良光さんの「Koza」です。しみじみとコザの雰囲気を思い起こすことができます。
沖縄市は1970年12月の「コザ暴動」の舞台でもありました。かつてコザ市長だった大山朝常さんは「コザ暴動の炎は民衆の心に燃え上がった炎だから水では消せないんだ」とおっしゃったそうです。「オキナワの旅」でも、くすぶり続ける火種を仲間たちの心へと移す作業にあたりたいと思います。仲間たちの参加をお待ちしています。
2年ほど前に「ミラクルシティコザ」という映画も作られていますので、機会があったらご覧ください。
2023年01月28日
東京で「1・27「建白書」10年 日比谷野音集会」
2013年1月27日に東京の日比谷野外音楽堂で沖縄の県議会議員、市町村長、議会議長が出席して「ノー オスプレイ東京集会」が行われました。その翌日、オスプレイ配備反対を訴える「建白書」を政府に提出しました。集会での翁長雄志那覇市長(その後に沖縄県知事)の発言は衝撃でした。
「ここ東京に沖縄県民の総意が結集しました。沖縄県民は目覚めました。もうもとには戻りません。日本国も変わらなければなりません」…
自民党の保守政治家から、大衆の心を激しく揺さぶる熱いアジテーションが飛び出すとは思ってもいませんでした。しかし、集会後の銀座でのデモ行進では民間ファシストによる卑劣な差別攻撃がデモ隊に降り注ぎました。
あの集会から10年が経ち、同じ日に「1・27建白書10年 日比谷野音集会」が開催されました。「コロナ禍」で、しかも雪が舞う寒空の下でしたが、800人が参加しました。
集会に先立ち、新運転書記長の太田武二さんらによる三線の演奏とうたごえがありました。「今こそ立ち上がろう」と訴えていました。
司会は青木初子さん。会場に熱烈な訴えがひびき渡りました。
主催者あいさつは「国会包囲実行委員会」の野平晋作さん(ピースボート)です。
「1月27日は歴史的な日だ。10年前に沖縄の全市町村長、全市町村議会議長が建白書を政府に提出したが、安倍首相は一顧だにしなかった。県民投票の結果も無視した」と述べ、沖縄の世論を日本全体の世論にしようと訴えていました。
続いて、「オール沖縄会議」の福元事務局長が発言しました。
玉城デニー知事のビデオメッセージに続き、リレートークを受けました。
ジャーナリストの金平茂紀さんはウクライナへの取材の経験も踏まえ、「ウクライナを我がことのように心配する日本人が、沖縄のことを我がことのように感じないのはなぜだ」と告発していました。日本と日本人に深く染みついた差別を告発する発言でした。
ルポライターの鎌田慧さん、哲学者の西谷修さん(東京外国語大学名誉教授)、「辺野古」県民投票の会元代表の元山仁士郎さんからも発言を受けました。
「参加・賛同の団体と個人」からの発言として、平和フォーラム・戦争をさせない1000人委員会から全水道書記次長の菖蒲谷眞一さん、宜野湾市緑が丘保育園父母会の元副会長の明有希子さんが登壇しました。菖蒲谷さんは水道事業をよく知る立場から米軍基地の汚染物質の問題について報告していました。明さんは現在は東京に住んでいるそうです。米軍機の騒音のない東京と、常に米軍機が頭上を飛びかう沖縄の生活とのギャップについて発言していました。
東京でも、三多摩まで行くと横田基地や厚木基地を離発着する米軍機が常に飛びかっています。三多摩の仲間たちが反核平和の火リレーなどさまざまな取り組みで横田基地撤去を訴えていることをお伝えできると良いなと思いました。
みんなでシュプレヒコール
集会後、銀座方面にデモ行進に出発しました。10年前と同じルートです。日音協のみなさんがうたごえで送り出しました。
事務局もデモの写真を撮りながら銀座方面に向かっていたところ、日比谷公園の脇で外国から来た観光客?の一団に声をかけられました。英語で「ヨコハマにはどうやったら行けるのか」と言われたので、JR有楽町駅まで案内したらずいぶん喜ばれました。イラクのバスラから来たみなさんでした。沖縄の平和とイラクの平和がつながっていることを望みます。
「ここ東京に沖縄県民の総意が結集しました。沖縄県民は目覚めました。もうもとには戻りません。日本国も変わらなければなりません」…
自民党の保守政治家から、大衆の心を激しく揺さぶる熱いアジテーションが飛び出すとは思ってもいませんでした。しかし、集会後の銀座でのデモ行進では民間ファシストによる卑劣な差別攻撃がデモ隊に降り注ぎました。
あの集会から10年が経ち、同じ日に「1・27建白書10年 日比谷野音集会」が開催されました。「コロナ禍」で、しかも雪が舞う寒空の下でしたが、800人が参加しました。
集会に先立ち、新運転書記長の太田武二さんらによる三線の演奏とうたごえがありました。「今こそ立ち上がろう」と訴えていました。
司会は青木初子さん。会場に熱烈な訴えがひびき渡りました。
主催者あいさつは「国会包囲実行委員会」の野平晋作さん(ピースボート)です。
「1月27日は歴史的な日だ。10年前に沖縄の全市町村長、全市町村議会議長が建白書を政府に提出したが、安倍首相は一顧だにしなかった。県民投票の結果も無視した」と述べ、沖縄の世論を日本全体の世論にしようと訴えていました。
続いて、「オール沖縄会議」の福元事務局長が発言しました。
玉城デニー知事のビデオメッセージに続き、リレートークを受けました。
ジャーナリストの金平茂紀さんはウクライナへの取材の経験も踏まえ、「ウクライナを我がことのように心配する日本人が、沖縄のことを我がことのように感じないのはなぜだ」と告発していました。日本と日本人に深く染みついた差別を告発する発言でした。
ルポライターの鎌田慧さん、哲学者の西谷修さん(東京外国語大学名誉教授)、「辺野古」県民投票の会元代表の元山仁士郎さんからも発言を受けました。
「参加・賛同の団体と個人」からの発言として、平和フォーラム・戦争をさせない1000人委員会から全水道書記次長の菖蒲谷眞一さん、宜野湾市緑が丘保育園父母会の元副会長の明有希子さんが登壇しました。菖蒲谷さんは水道事業をよく知る立場から米軍基地の汚染物質の問題について報告していました。明さんは現在は東京に住んでいるそうです。米軍機の騒音のない東京と、常に米軍機が頭上を飛びかう沖縄の生活とのギャップについて発言していました。
東京でも、三多摩まで行くと横田基地や厚木基地を離発着する米軍機が常に飛びかっています。三多摩の仲間たちが反核平和の火リレーなどさまざまな取り組みで横田基地撤去を訴えていることをお伝えできると良いなと思いました。
みんなでシュプレヒコール
集会後、銀座方面にデモ行進に出発しました。10年前と同じルートです。日音協のみなさんがうたごえで送り出しました。
事務局もデモの写真を撮りながら銀座方面に向かっていたところ、日比谷公園の脇で外国から来た観光客?の一団に声をかけられました。英語で「ヨコハマにはどうやったら行けるのか」と言われたので、JR有楽町駅まで案内したらずいぶん喜ばれました。イラクのバスラから来たみなさんでした。沖縄の平和とイラクの平和がつながっていることを望みます。
2022年11月01日
大浦湾とマングローブ林
ひろゆきが辺野古のキャンプシュワブのゲート前に押しかけて、座り込みや基地反対をたたかう人々に冷笑を浴びせました。
ひろゆきの言動の背後には、「中立」を装おうとする人々の無関心と無責任、政府にたて突いても何も変えることはできないというアキラメが広がるなかで、新基地建設反対の運動をつぶそうとする人々の思惑があるのは間違いありません。これまでも右翼団体が座り込みの現場にたびたび差し向けられ、数々の嫌がらせが行われていますが、それでは反対運動に関わる人たちを屈服させられないため、違った形での攻撃が行われているということです。
事務局は今年は5月と7月に辺野古に行きました。5月は「被戦地オキナワ青年の旅」でした。7月は「オキナワの旅」でお世話になっている、大浦湾でグラスボートを運航している仲間へのインタビューが目的でした。このときのインタビューは『青年の声』という新聞に掲載されていますが、今回はそのときの大浦湾の写真を中心に紹介します。
羽田からの飛行機が沖縄に近付くと、青い海の中に与論島が見えてきました。南からの湿った空気が与論島にぶつかり、雲を発生させていました。
与論島と辺戸岬です。こうして上空から見るととても近く感じます。かつて祖国復帰闘争の際に「27度線」をはさんでたたかう仲間たちの交歓が幾度も繰り返された歴史が思い起こされます。
辺戸岬です。5月の「オキナワの旅」の最終日の早朝に、有志で訪れたのを思い出します。とても楽しい思い出になりました。
伊平屋島、伊是名島がすぐ下に見えています。沖縄本島の上空には積乱雲が発達しつつあります。事務局の滞在中にも、この雲が沖縄に激しいスコールを降らせていました。
この日はまず那覇空港から路線バスに乗車。途中で那覇軍港に停泊する高速輸送船が見えました。バスで浦添市に移動後、毎年の「オキナワの旅」で南部戦跡のガイドを務めてくださっている仲本節子さんにお話を聴きました。さまざまな差別とのたたかいであった仲本さんのお話を多くの仲間たちに知ってほしいと思います。仲本さんからお話を伺った後は、勢理客のバス停からバスに乗り、宿泊予定のコザのホテルへ。ですが、事務局は間違った番号のバスに乗ってしまい、嘉手納経由でかなり遠回りになってしまいました。
泊まったホテルから見えた勝連半島方面の朝の風景です。真夏の景色です。セミの鳴き声があたりにひびき渡っていました。
「山里」バス停から高速バスで名護へ。名護市内からタクシーで汀間の漁港に向かいました。汀間までは現在はバスが走っていないようです。
汀間の漁港から西原瑠夏さんの操船するグラスボートに乗船し、海上でいろいろとお話を聴きました。大浦湾のサンゴのことだけでなく、辺野古の新基地建設反対運動が何を守ろうとしているのかを多くの人たちに知ってほしいということでグラスボートの運航が始まったとのことでした。インタビューの内容が知りたい方は、ぜひ『青年の声』をお読みください。
事務局も、多くの人たちに沖縄へ、辺野古へと駆けつけてほしい、そこで何が起きているのか、私たちが何を守ろうとしているのかを知ってほしいと思っています。
西原さんにお話を伺った後は、わんさか大浦パークにある「南の畑」という食堂で昼食をいただきました。事務局は野菜チャンプルー定食を食べました。めちゃうまかったです。「南の畑」では「オキナワの旅」の際にもお弁当を作ってもらっています。お弁当も安くて本当においしいです。毎日でも食べられます。
大浦湾ではシーカヤック体験ができます。
事務局は那覇に戻るバスの時間まで大浦湾の最奥部の汽水域にあるマングローブ林を見学しました。
マングローブ林は「マングローブロード」という遊歩道が整備されており、有料で見学が可能です。ガイド付きのツアーもあるそうです。
真夏の照り付ける太陽の下、風が吹き抜けます。耳を澄ますとマングローブ林の陰から小さな生き物たちの静かな音が聞こえます。
静寂のなか、小道を歩き続きます。この橋は沖縄で唯一の沈下橋とのことです。
写真では分かりにくいのですが、満ち潮で海から上がって来た海水と、山を下ってきた川の水が出会う場所を見つけました。さらさらと音をたてながら水が混じりあっていました。
立派なマングローブ林です。本島では、大浦湾のほかに東村の慶佐次のマングローブ林が有名です。
上空を1羽のサギがエサを求めて飛んでいました。
かつて、大浦湾のマングローブ林は農地化で埋め立てる計画があったとのことです。上空からの写真を見ると、実際に埋め立てられて農地化された地域があるようです。地域の農業も、こうして残されたマングローブ林も、どちらも大切にしないといけないですね。
静寂は破られました。轟音をあげながら米軍の軍用機が上空を通過しました。翼下の「USAF」という文字がはっきり見えるほど低空を飛んでいました。いきなり「基地の島」の現実に引き戻されたような感覚でした。
その後、大浦の集落内を少し歩きました。見たところ、空き家が少なくないようです。かつて賑やかな時代があったのかも知れませんね。
共同売店でペットボトルのお茶を買いました。おじさんに「冷えてないよ」と言われましたが、暑いなかでキンキンに冷えたお茶を飲むのはつらいので、ぬるくてぜんぜんオッケーです。北部には共同売店が残っています。地域の大切な財産です。
那覇行きのバスが来るまで少し時間があったので、「わんさか大浦パーク」の売店でブルーシールの「マンゴタンゴ」味のアイスクリームを食べました。さすがに暑さですぐに融けてしまうのですが、マングローブ林内や大浦の集落を2時間ほど歩き続けた後だったので、とてもおいしく感じました。
那覇空港行きのバスが来ました。実は、「那覇空港-わんさか大浦パークおよびカヌチャリゾート」間は1日2往復のシャトルバスがあります。この日は事務局以外にお客さんがいなかったのですが、ガラガラなのが本当にもったいないです。那覇空港からわんさか大浦パークまで約1時間半で到着します。那覇のバスターミナルでも乗降できます。便利なバスなのでもっと活用されてほしいです。
https://wansaka-o.jp/
「わんさか大浦パーク」の公式HPです。2023年春から24年まで改装工事につき瀬嵩保育園跡地に一時的に移転するそうです。
「わんさか大浦パーク」の公式HPに貼られているマングローブロードの紹介の動画です。
バスで那覇に到着後、飛行機の時間までは市場本通り周辺のまちぐゎーの散歩を楽しみました。民衆の活気を感じられるまちぐゎーの風景を再開発から守りたいものです。
7月ということで、工事中の公設市場前に七夕の短冊が飾られていました。
「世界平和!」と書かれています。みんなの願いです。
「はやく戦争が終わりますように」。事務局も強く共感します。
彼氏のことでしょうか「もう仕事でケガせず、毎日元気でいますように」とのこと。労災の根絶もまた私たちのたたかいの重要な課題です。
市場にはかならず猫がいます。きっとネズミ捕りに活躍しているのでしょう。人だけでなく、猫たちも安心して暮らせるまちぐゎーを残してほしいものです。
ひろゆきの言動の背後には、「中立」を装おうとする人々の無関心と無責任、政府にたて突いても何も変えることはできないというアキラメが広がるなかで、新基地建設反対の運動をつぶそうとする人々の思惑があるのは間違いありません。これまでも右翼団体が座り込みの現場にたびたび差し向けられ、数々の嫌がらせが行われていますが、それでは反対運動に関わる人たちを屈服させられないため、違った形での攻撃が行われているということです。
事務局は今年は5月と7月に辺野古に行きました。5月は「被戦地オキナワ青年の旅」でした。7月は「オキナワの旅」でお世話になっている、大浦湾でグラスボートを運航している仲間へのインタビューが目的でした。このときのインタビューは『青年の声』という新聞に掲載されていますが、今回はそのときの大浦湾の写真を中心に紹介します。
羽田からの飛行機が沖縄に近付くと、青い海の中に与論島が見えてきました。南からの湿った空気が与論島にぶつかり、雲を発生させていました。
与論島と辺戸岬です。こうして上空から見るととても近く感じます。かつて祖国復帰闘争の際に「27度線」をはさんでたたかう仲間たちの交歓が幾度も繰り返された歴史が思い起こされます。
辺戸岬です。5月の「オキナワの旅」の最終日の早朝に、有志で訪れたのを思い出します。とても楽しい思い出になりました。
伊平屋島、伊是名島がすぐ下に見えています。沖縄本島の上空には積乱雲が発達しつつあります。事務局の滞在中にも、この雲が沖縄に激しいスコールを降らせていました。
この日はまず那覇空港から路線バスに乗車。途中で那覇軍港に停泊する高速輸送船が見えました。バスで浦添市に移動後、毎年の「オキナワの旅」で南部戦跡のガイドを務めてくださっている仲本節子さんにお話を聴きました。さまざまな差別とのたたかいであった仲本さんのお話を多くの仲間たちに知ってほしいと思います。仲本さんからお話を伺った後は、勢理客のバス停からバスに乗り、宿泊予定のコザのホテルへ。ですが、事務局は間違った番号のバスに乗ってしまい、嘉手納経由でかなり遠回りになってしまいました。
泊まったホテルから見えた勝連半島方面の朝の風景です。真夏の景色です。セミの鳴き声があたりにひびき渡っていました。
「山里」バス停から高速バスで名護へ。名護市内からタクシーで汀間の漁港に向かいました。汀間までは現在はバスが走っていないようです。
汀間の漁港から西原瑠夏さんの操船するグラスボートに乗船し、海上でいろいろとお話を聴きました。大浦湾のサンゴのことだけでなく、辺野古の新基地建設反対運動が何を守ろうとしているのかを多くの人たちに知ってほしいということでグラスボートの運航が始まったとのことでした。インタビューの内容が知りたい方は、ぜひ『青年の声』をお読みください。
事務局も、多くの人たちに沖縄へ、辺野古へと駆けつけてほしい、そこで何が起きているのか、私たちが何を守ろうとしているのかを知ってほしいと思っています。
西原さんにお話を伺った後は、わんさか大浦パークにある「南の畑」という食堂で昼食をいただきました。事務局は野菜チャンプルー定食を食べました。めちゃうまかったです。「南の畑」では「オキナワの旅」の際にもお弁当を作ってもらっています。お弁当も安くて本当においしいです。毎日でも食べられます。
大浦湾ではシーカヤック体験ができます。
事務局は那覇に戻るバスの時間まで大浦湾の最奥部の汽水域にあるマングローブ林を見学しました。
マングローブ林は「マングローブロード」という遊歩道が整備されており、有料で見学が可能です。ガイド付きのツアーもあるそうです。
真夏の照り付ける太陽の下、風が吹き抜けます。耳を澄ますとマングローブ林の陰から小さな生き物たちの静かな音が聞こえます。
静寂のなか、小道を歩き続きます。この橋は沖縄で唯一の沈下橋とのことです。
写真では分かりにくいのですが、満ち潮で海から上がって来た海水と、山を下ってきた川の水が出会う場所を見つけました。さらさらと音をたてながら水が混じりあっていました。
立派なマングローブ林です。本島では、大浦湾のほかに東村の慶佐次のマングローブ林が有名です。
上空を1羽のサギがエサを求めて飛んでいました。
かつて、大浦湾のマングローブ林は農地化で埋め立てる計画があったとのことです。上空からの写真を見ると、実際に埋め立てられて農地化された地域があるようです。地域の農業も、こうして残されたマングローブ林も、どちらも大切にしないといけないですね。
静寂は破られました。轟音をあげながら米軍の軍用機が上空を通過しました。翼下の「USAF」という文字がはっきり見えるほど低空を飛んでいました。いきなり「基地の島」の現実に引き戻されたような感覚でした。
その後、大浦の集落内を少し歩きました。見たところ、空き家が少なくないようです。かつて賑やかな時代があったのかも知れませんね。
共同売店でペットボトルのお茶を買いました。おじさんに「冷えてないよ」と言われましたが、暑いなかでキンキンに冷えたお茶を飲むのはつらいので、ぬるくてぜんぜんオッケーです。北部には共同売店が残っています。地域の大切な財産です。
那覇行きのバスが来るまで少し時間があったので、「わんさか大浦パーク」の売店でブルーシールの「マンゴタンゴ」味のアイスクリームを食べました。さすがに暑さですぐに融けてしまうのですが、マングローブ林内や大浦の集落を2時間ほど歩き続けた後だったので、とてもおいしく感じました。
那覇空港行きのバスが来ました。実は、「那覇空港-わんさか大浦パークおよびカヌチャリゾート」間は1日2往復のシャトルバスがあります。この日は事務局以外にお客さんがいなかったのですが、ガラガラなのが本当にもったいないです。那覇空港からわんさか大浦パークまで約1時間半で到着します。那覇のバスターミナルでも乗降できます。便利なバスなのでもっと活用されてほしいです。
https://wansaka-o.jp/
「わんさか大浦パーク」の公式HPです。2023年春から24年まで改装工事につき瀬嵩保育園跡地に一時的に移転するそうです。
「わんさか大浦パーク」の公式HPに貼られているマングローブロードの紹介の動画です。
バスで那覇に到着後、飛行機の時間までは市場本通り周辺のまちぐゎーの散歩を楽しみました。民衆の活気を感じられるまちぐゎーの風景を再開発から守りたいものです。
7月ということで、工事中の公設市場前に七夕の短冊が飾られていました。
「世界平和!」と書かれています。みんなの願いです。
「はやく戦争が終わりますように」。事務局も強く共感します。
彼氏のことでしょうか「もう仕事でケガせず、毎日元気でいますように」とのこと。労災の根絶もまた私たちのたたかいの重要な課題です。
市場にはかならず猫がいます。きっとネズミ捕りに活躍しているのでしょう。人だけでなく、猫たちも安心して暮らせるまちぐゎーを残してほしいものです。
2022年10月09日
第34回三多摩反核平和の火リレーで横田基地を一周
三多摩平和運動センターの呼びかけによる「第34回三多摩反核平和の火リレー」が10月8日に開催されました。200人の仲間たちが平和の火を掲げながら米軍横田基地を一周し、基地撤去、戦争反対、オスプレイ撤去、核兵器禁止条約への日本政府の参加などを訴えました。
福生公園で出発集会を開催しました。
仲間たちから取り組みの成功に向けた決意表明が続きます。
自治労、私鉄、教組、全水道、全国一般、国労などさまざまな労働組合から仲間たちが参加しました。
ストレッチして体をほぐします。
出発です。JR八高線の線路を横切り、横田基地方面に向かいます。
道路の向こうは横田基地です。
仲間たちの力走が続きます。
第1中継所の福東公園です。横田基地の離着陸ルートの直下にある公園です。去年の反核平和の火リレーでは、米軍機の爆音が響き渡るなかでの平和の火の引き継ぎでした。
ランナーたちがまた出発しました。
横田基地のフェンス脇をみんなで走り続けました。基地内で働く仲間からも声援がありました。「全駐労の組合員かな?」などと言いながら走りました。この付近にご実家のある八王子の森市議会議員が米軍基地の近くでの暮らしについていろいろと教えてくださいました。
横田基地のゲートのすぐ前にある伊奈平公園が第2中継所です。子どもたちから大歓迎を受けました。
基地撤去を訴えながら平和の火のリレーを続けます。
第3中継所は経塚向公園です。去年はまだ夏の雰囲気が色濃く残る中でのリレーでしたが、今年は涼しく走りやすかったように感じました。
横田基地のフェンス脇をひたすら走り続けます。米軍基地の広大さを痛感させられます。
第4中継所は瑞穂町営グランド脇の駐車場です。
自治労都本部の高野青年部長から最後まで走るぞ!と力強い呼びかけ。みんな「運動不足が…」と笑顔で言いつつ、しっかり走っています。若いって素晴らしいことです。
次は第5中継所の東福生駅に向けて出発。国立市の藤田市議が先頭に立ちました。最後の区間は東福生駅から福生公園です。これで横田基地一周です。
事務局は6区間のうち4区間を写真を撮りながら走りました。10キロメートル強の走行距離でした。在日米軍司令部、在日米空軍司令部、航空自衛隊航空総隊司令部のある横田基地の機能強化が進められています。戦争が起きれば真っ先に標的になる基地です。私たちには戦争のできる国づくりを許さない取り組みが求められています。横田基地一周の反核平和の火リレーの継続はとても重要です。
福生公園で出発集会を開催しました。
仲間たちから取り組みの成功に向けた決意表明が続きます。
自治労、私鉄、教組、全水道、全国一般、国労などさまざまな労働組合から仲間たちが参加しました。
ストレッチして体をほぐします。
出発です。JR八高線の線路を横切り、横田基地方面に向かいます。
道路の向こうは横田基地です。
仲間たちの力走が続きます。
第1中継所の福東公園です。横田基地の離着陸ルートの直下にある公園です。去年の反核平和の火リレーでは、米軍機の爆音が響き渡るなかでの平和の火の引き継ぎでした。
ランナーたちがまた出発しました。
横田基地のフェンス脇をみんなで走り続けました。基地内で働く仲間からも声援がありました。「全駐労の組合員かな?」などと言いながら走りました。この付近にご実家のある八王子の森市議会議員が米軍基地の近くでの暮らしについていろいろと教えてくださいました。
横田基地のゲートのすぐ前にある伊奈平公園が第2中継所です。子どもたちから大歓迎を受けました。
基地撤去を訴えながら平和の火のリレーを続けます。
第3中継所は経塚向公園です。去年はまだ夏の雰囲気が色濃く残る中でのリレーでしたが、今年は涼しく走りやすかったように感じました。
横田基地のフェンス脇をひたすら走り続けます。米軍基地の広大さを痛感させられます。
第4中継所は瑞穂町営グランド脇の駐車場です。
自治労都本部の高野青年部長から最後まで走るぞ!と力強い呼びかけ。みんな「運動不足が…」と笑顔で言いつつ、しっかり走っています。若いって素晴らしいことです。
次は第5中継所の東福生駅に向けて出発。国立市の藤田市議が先頭に立ちました。最後の区間は東福生駅から福生公園です。これで横田基地一周です。
事務局は6区間のうち4区間を写真を撮りながら走りました。10キロメートル強の走行距離でした。在日米軍司令部、在日米空軍司令部、航空自衛隊航空総隊司令部のある横田基地の機能強化が進められています。戦争が起きれば真っ先に標的になる基地です。私たちには戦争のできる国づくりを許さない取り組みが求められています。横田基地一周の反核平和の火リレーの継続はとても重要です。
2022年10月02日
横須賀で米軍の空母母港撤回を求める集会
10月1日(土)午後に、横須賀のヴェルニー公園で「原子力空母ロナルド・レーガン横須賀配備抗議!母港撤回を求める全国集会」が開催され、450人の仲間たちが参加しました。主催は神奈川平和運動センター、三浦半島地区労センターでした。
事務局はこの集会参加に先立ち、横須賀基地の状況を視察しました。この日はよく晴れており、暑いほどでした。
2番、3番のドライドックの横にはいつも海上自衛隊の潜水艦が停泊しています。海上自衛隊の潜水艦基地は横須賀と呉にあります。水上艦船は番号を見れば名前や艦種が分かりますが、海上自衛隊が22隻を保有する潜水艦は表面に艦番号が記されていません。
砕氷艦「しらせ」です。11月には夏の南極に向けて出港するはずです。事務局は以前に「しらせ」の艦内を見学する機会がありました。「しらせ」は自衛艦ですが、見せてもらえる範囲に限っては「普通」の船でした。
「しらせ」の隣には「たかなみ型」護衛艦のうち「111おおなみ」と、「むらさめ型」護衛艦のうち「107いかづち」が停泊していました。「むらさめ」型は就役から25年、「たかなみ型」は20年ほどが経っており、海自の主力艦ではありますが、最新型というわけではありません。
海上自衛隊の最新鋭の護衛艦は、この「もがみ型」です。今年4月に就役し、横須賀に「もがみ」と「くまの」が配備されています。多機能艦艇ということで、「たかなみ」など主力護衛艦「DD」(デストロイヤー)とは違う「FFM」(フリゲート+機雷)という艦種です。護衛艦隊ではなく、掃海隊群の所属です。
特務艇「はしだて」です。任務は「迎賓」です。安倍元首相の「国葬」にあたり副大統領のおともで来日した米海軍の将官を接待したのでしょう。
海自の潜水艦が5隻も停泊していました。いちどにこれだけの潜水艦が並んでいるのを見るのははじめてでした。安倍「国葬」が他方では軍事的な意味を持っていたことがうかがえます。
掃海艇「はつしま」です。
こちらは海上保安庁の「てしお型」巡視船「たかとり」です。就役から35年が経った古い船です。
海洋観測艦「にちなん」です。海上自衛隊の行動に必要な海底地形、潮流、水質、地磁気などを調査する艦です。調査された情報は米軍とも共有されているはずです。この艦種の活動がなければ、海上自衛隊の戦闘行動は成り立ちません。
「あわじ型」掃海艦の「あわじ」「ひらど」です。2017年から就役している新しい艦であり、磁気機雷の感応を防ぐために強化プラスチックで船体が建造されています。
旧日本海軍は日本帝国主義の敗北の後も掃海部隊として海上自衛隊の発足まで存続した経緯があります。その意味で、掃海隊群は海上自衛隊の「本隊」「保守本流」の部隊です。
試験艦「あすか」です。海上自衛隊が護衛艦・自衛艦に搭載するさまざまな次世代装備を試験する名目で保有している艦です。「あすか」は初めて女性隊員が配置された艦ということで、海上自衛隊が女性を「試験」する艦でもあったわけです。
星条旗が掲げられている吾妻島には燃料関係の施設が見られます。
安倍元首相の国葬にともなうアメリカの副大統領の来日にあたり、米海軍のミサイル駆逐艦「ズムウォルト」が横須賀に停泊しています。ステルス性を追求した特徴的な艦形が印象的です。艦種は「駆逐艦」ですが、満載排水量が1万4千トンを超しており、「タイコンデロガ級」巡洋艦(満載排水量は1万トン)よりもかなり大きくなっています。取得費用が高価(1隻5000億円)である一方、その艦形から戦闘能力が限定的となったために「失敗作」という評価ようです。当初は30隻以上の大量建造が計画されていましたが、3隻にまで削減されています。
「ズムウォルト」と一緒に横須賀に来ている「インデペンデンス級」沿岸海域戦闘艦「オークランド」です。沿海域の戦闘に参加する艦艇です。2010年に就役した、世界各地で発生する非対称戦を強力に意識した艦であるため、速力は40ノットと非常に高速です。
「ズムウォルト」「オークランド」に随伴してきた米軍の給油艦も消磁所の沖合に見られました。
本題の集会ですが、神奈川県内や関東各県を中心に450人の仲間たちが参加しました。
まず、神奈川平和運動センターの福田代表、平和フォーラムの藤本共同代表のあいさつを受けました。
現地報告として、厚木爆音防止期成同盟の石郷さん、非核市民運動宣言ヨコスカの新倉さんから発言を受けました。基地による被害、そして神奈川の米軍がアジアにおける民衆のたたかいを抑圧している歴史を振り返る、とても大切な発言でした。参加者はみんな真剣に聞いていました。
Ⅰ女性会議から集会アピールの提案、反核平和の火リレー実行委員会から10月17日からのリレー運動への呼びかけと、シュプレヒコールを行い
ました。
プラカードを掲げて空母母港撤回をアピール。
みんなで団結ガンバローの後、デモ行進に出発しました。
事務局はこの集会参加に先立ち、横須賀基地の状況を視察しました。この日はよく晴れており、暑いほどでした。
2番、3番のドライドックの横にはいつも海上自衛隊の潜水艦が停泊しています。海上自衛隊の潜水艦基地は横須賀と呉にあります。水上艦船は番号を見れば名前や艦種が分かりますが、海上自衛隊が22隻を保有する潜水艦は表面に艦番号が記されていません。
砕氷艦「しらせ」です。11月には夏の南極に向けて出港するはずです。事務局は以前に「しらせ」の艦内を見学する機会がありました。「しらせ」は自衛艦ですが、見せてもらえる範囲に限っては「普通」の船でした。
「しらせ」の隣には「たかなみ型」護衛艦のうち「111おおなみ」と、「むらさめ型」護衛艦のうち「107いかづち」が停泊していました。「むらさめ」型は就役から25年、「たかなみ型」は20年ほどが経っており、海自の主力艦ではありますが、最新型というわけではありません。
海上自衛隊の最新鋭の護衛艦は、この「もがみ型」です。今年4月に就役し、横須賀に「もがみ」と「くまの」が配備されています。多機能艦艇ということで、「たかなみ」など主力護衛艦「DD」(デストロイヤー)とは違う「FFM」(フリゲート+機雷)という艦種です。護衛艦隊ではなく、掃海隊群の所属です。
特務艇「はしだて」です。任務は「迎賓」です。安倍元首相の「国葬」にあたり副大統領のおともで来日した米海軍の将官を接待したのでしょう。
海自の潜水艦が5隻も停泊していました。いちどにこれだけの潜水艦が並んでいるのを見るのははじめてでした。安倍「国葬」が他方では軍事的な意味を持っていたことがうかがえます。
掃海艇「はつしま」です。
こちらは海上保安庁の「てしお型」巡視船「たかとり」です。就役から35年が経った古い船です。
海洋観測艦「にちなん」です。海上自衛隊の行動に必要な海底地形、潮流、水質、地磁気などを調査する艦です。調査された情報は米軍とも共有されているはずです。この艦種の活動がなければ、海上自衛隊の戦闘行動は成り立ちません。
「あわじ型」掃海艦の「あわじ」「ひらど」です。2017年から就役している新しい艦であり、磁気機雷の感応を防ぐために強化プラスチックで船体が建造されています。
旧日本海軍は日本帝国主義の敗北の後も掃海部隊として海上自衛隊の発足まで存続した経緯があります。その意味で、掃海隊群は海上自衛隊の「本隊」「保守本流」の部隊です。
試験艦「あすか」です。海上自衛隊が護衛艦・自衛艦に搭載するさまざまな次世代装備を試験する名目で保有している艦です。「あすか」は初めて女性隊員が配置された艦ということで、海上自衛隊が女性を「試験」する艦でもあったわけです。
星条旗が掲げられている吾妻島には燃料関係の施設が見られます。
安倍元首相の国葬にともなうアメリカの副大統領の来日にあたり、米海軍のミサイル駆逐艦「ズムウォルト」が横須賀に停泊しています。ステルス性を追求した特徴的な艦形が印象的です。艦種は「駆逐艦」ですが、満載排水量が1万4千トンを超しており、「タイコンデロガ級」巡洋艦(満載排水量は1万トン)よりもかなり大きくなっています。取得費用が高価(1隻5000億円)である一方、その艦形から戦闘能力が限定的となったために「失敗作」という評価ようです。当初は30隻以上の大量建造が計画されていましたが、3隻にまで削減されています。
「ズムウォルト」と一緒に横須賀に来ている「インデペンデンス級」沿岸海域戦闘艦「オークランド」です。沿海域の戦闘に参加する艦艇です。2010年に就役した、世界各地で発生する非対称戦を強力に意識した艦であるため、速力は40ノットと非常に高速です。
「ズムウォルト」「オークランド」に随伴してきた米軍の給油艦も消磁所の沖合に見られました。
本題の集会ですが、神奈川県内や関東各県を中心に450人の仲間たちが参加しました。
まず、神奈川平和運動センターの福田代表、平和フォーラムの藤本共同代表のあいさつを受けました。
現地報告として、厚木爆音防止期成同盟の石郷さん、非核市民運動宣言ヨコスカの新倉さんから発言を受けました。基地による被害、そして神奈川の米軍がアジアにおける民衆のたたかいを抑圧している歴史を振り返る、とても大切な発言でした。参加者はみんな真剣に聞いていました。
Ⅰ女性会議から集会アピールの提案、反核平和の火リレー実行委員会から10月17日からのリレー運動への呼びかけと、シュプレヒコールを行い
ました。
プラカードを掲げて空母母港撤回をアピール。
みんなで団結ガンバローの後、デモ行進に出発しました。
2022年08月02日
各県の反核平和の火リレーの取り組み状況
2022年度の各県の反核平和の火リレーの取り組み状況をお知らせします。すでに取り組みが終わった県も記載しています。
北海道 7月19日~8月6日
岩 手 6月3日~5日
宮 城 8月3日~11日
山 形 各地区ごとの実施
福 島 9月末~10月はじめ
茨 城 7月21日~8月4日
埼 玉 7月28日~8月5日
千 葉 各地区での学習会・自治体要請
神奈川 10月17日~21日
東 京 10月8日
長 野 7月13日~8月10日
富 山 8月2日~5日
兵 庫 7月25日~8月3日
鳥 取 8月1日~3日
島 根 7月29日~8月8日
広 島 7月4日~22日
山 口 7月25日~8月5日
香 川 9月15日~16日
徳 島 8月8日~10日
高 知 8月2日~4日
長 崎 7月19日~27日
鹿児島 7月19日~8月12日
北海道 7月19日~8月6日
岩 手 6月3日~5日
宮 城 8月3日~11日
山 形 各地区ごとの実施
福 島 9月末~10月はじめ
茨 城 7月21日~8月4日
埼 玉 7月28日~8月5日
千 葉 各地区での学習会・自治体要請
神奈川 10月17日~21日
東 京 10月8日
長 野 7月13日~8月10日
富 山 8月2日~5日
兵 庫 7月25日~8月3日
鳥 取 8月1日~3日
島 根 7月29日~8月8日
広 島 7月4日~22日
山 口 7月25日~8月5日
香 川 9月15日~16日
徳 島 8月8日~10日
高 知 8月2日~4日
長 崎 7月19日~27日
鹿児島 7月19日~8月12日
2022年05月19日
「第28回被戦地オキナワ青年の旅」を16人の参加で開催
昨年度は「コロナ禍」や総選挙の影響で開催できなかった平和友好祭主催の「第28回被戦地オキナワ青年の旅」を、5月13日から17日の日程で開催しました。北海道から沖縄まで自治労と林野労組の16人の仲間が参加しました。今回は、30~40年前に平和友好祭沖縄県実行委員会で活動していた先輩たちにもご協力をいただきました。
ロシア軍によるウクライナ侵攻という事態のなかで、日本国内の右派勢力から自衛隊強化や核シェアリングなどの主張が強められています。日本共産党からも「侵略に対して自衛隊を活用する」といった発言がありました。沖縄戦で民衆が得た「軍隊は民衆を守らない」という教訓がこれまで平和運動に関わってきた人々からさえも忘れ去られようとしている時代を迎えています。「自衛隊活用」発言は、第2次世界大戦における民衆の戦争体験をその基礎としてきた戦後日本の平和運動に対する日本共産党による終焉宣言なのでしょう。しかし、戦争が起きたときに被害者となるのは、前線に立たされる青年たちであり、戦火にさらされる子どもたちです。私たちはアキラメるわけにはいきません。
那覇空港に着陸する前の飛行機からの眺めです。雲の合間に残波岬が見えています。今回の「旅」は、最初から最後まで雨天、曇天が続きました。気温も5月の沖縄にしてはかなり低かったように感じました。
那覇空港で集合後、貸切バスで国道58号線を通って宜野湾市の嘉数高台まで移動しました。写真は、高台に登る階段の下で民家の塀に残る沖縄戦の際の弾痕を見ているところです。現在はモニュメントとして残されていますが、20年ほど前までは実際に民家の塀として使われていました。
高台にある階段を上る途中には、沖縄戦の際の日本軍の陣地壕の入口が残されています。日本軍は攻めて来る米軍に対して、丘の反対側に張り巡らせたたくさんの壕を拠点に戦闘を挑みました。日米両軍、そして嘉数集落の人々に多くの犠牲がもたらされました。
嘉数高台の展望台から遠望した海兵隊普天間飛行場です。ちょうどオスプレイがこの日の訓練から戻ったところでした。
展望台の脇にある「青丘の塔」と「京都の塔」では、沖縄に連れてこられた朝鮮半島出身の人々の犠牲、嘉数集落をはじめ沖縄の人々の犠牲についてまなびました。日本軍によってもたらされた住民の犠牲が多かったことも沖縄戦の特徴でした。
嘉数高台に残されている日本軍のコンクリート製のトーチカです。米軍の激しい突撃準備射撃に何度もさらされたはずですが、全体は崩壊していません。
普天間基地のすぐ近くの沖縄国際大学にある、2004年8月の海兵隊ヘリ墜落事故跡に立ち寄りました。
コザにある宿泊ホテルに到着後、結団式を行いました。まず、団長を務める林野労組の田中青年女性委員長から参加者に向けて頼もしいあいさつを受けました。その後、1フィート運動の沖縄戦の映画鑑賞、事務局からの「旅」の日程や課題の説明を受けました。
ホテルが用意してくださった夕食のお弁当を食べながら、参加者それぞれが自己紹介しました。ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、平和運動の強化や方向性について考えたいと参加した仲間が多かったように感じました。
自主交流では嘉手納基地第2ゲート前の空港通りにある旧Aサインバーへ。泡盛をロックで美味しくいただきました。
2日目の午前中は5・15平和行進に参加しました。全国の仲間に呼びかけて平和行進が開催されるのは実に3年ぶりです。この日の取り組みには沖縄県内外から1000人の仲間たちが結集しました。
宜野湾市役所前を出発した行進団は、雨のなかを普天間基地を左に見ながらコザ方面に向けて進みます。
「平和な世界を実現しよう」というシュプレヒコールに大きな共感が寄せられます。いま、本当に問われている課題です。
キャンプ瑞慶覧の石平の米軍司令部前でシュプレヒコール。
降り続く雨に負けずに行進を続けます。平和友好祭の仲間がテレビ局からインタビューを受けました。
行進団が沖縄市内にさしかかりました。携帯電話ショップの店員さんが笑顔で手を振ってくれたのが印象的でした。平和友好祭が泊まっているホテルの前も通りました。
こうしてみると、本当にたくさんの仲間たちが参加したことが分かります。平和を実現するのは、みんなの団結と行動です。
無事に八重島公園に到着。3時間と少しの行進でした。到着集会でも、これからの全国の職場・地域での反戦平和のたたかいの強化が訴えられていました。
いったんホテルに戻り、着替えてから昼食に出発。ステーキを美味しくたくさんいただきました。通常より短い平和行進とはいえ、一つの任務を果たした達成感、充実感は格別です。
午後は「道の駅かでな」から米空軍嘉手納基地を視察。4000メートル級滑走路が2本もある巨大な飛行場です。
日本国内の4000メートル級滑走路は、嘉手納の2本以外には、成田A滑走路、関空B滑走路のみです。
続いて、沖縄市戦後文化資料展示館(ヒストリート)で職員の方の説明を受け、「基地の街」コザの貴重な資料を見学しました。
ここにはコザ暴動や毒ガス撤去闘争など、民衆のたたかいの歴史も展示されています。
夕方は有志でJリーグのFC琉球vs栃木SCの試合を観戦。「復帰50周年記念マッチ」として行われた試合は、前半の早い段階でのアーリークロスからの得点をFC琉球が最後まで守り切り、1-0での勝利となりました。
昼間の雨で濡れたピッチでも、両チームとも安易に前方に蹴り出さず、最終ラインでしっかりボールをまわしてから中盤・前線へとつなぐサッカーでした。あらためてプロ選手の技術の高さに驚きです。後半のFC琉球は押し込まれる展開が続きましたが、CBの李栄直選手を中心にDF陣が身体をはって献身的にゴールを守り切りました。「復帰50周年記念」の試合でもあり、ピッチ上の選手の必死のプレーとスタンドのサポーターの祈るような応援に強く心を打たれました。FC琉球の選手たちが背負っているのはサポーターの期待や気持ちだけでなく、「琉球」そのものなのだと感じました。事務局もこの日ほどFC琉球に勝ってほしいと思った試合はありませんでした。
勝利の瞬間、みんなの喜びが文字通り爆発したかのような歓声がスタジアムにひびき渡りました。クラブの広報の方によるとホームでの勝利は約1年ぶりとのことで、本当に感動的な勝利でした。
来場者には「復帰50年記念マッチ」Tシャツが配られました。家宝にしたいと思います。
「旅」の3日めは南部戦跡での学習です。まず、ひめゆり平和祈念資料館の前にあるひめゆりの塔や伊原第3外科壕跡前で、沖縄戦の犠牲になった人々を偲びながら手を合わせました。
亡くなった元学徒隊員の証言映像を見ながら、軍隊は住民を守らなかったという教訓をまなびました。
ひめゆり平和祈念資料館は2020年以来の「コロナ禍」で入場者が大きく減っているとのことで、寄付が呼びかけられています。平和友好祭からも寄付をお渡ししました。
この日も修学旅行や平和運動団体の見学はこれまでよりかなり少ないように感じました。資料館周辺では利用客の減少から閉店に追い込まれているお土産屋さんがあるようです。
昼食後は魂魄の塔に向かいました。「旅」の日程中、このときだけ晴れていました。ガイドの仲本さんからいただく説明を、みんな熱心に聞いています。
続いて平和公園へ。仲本さんの説明をいただいた後、参加者は資料館見学組と沖縄師範健児之塔に向かう組と二手に分かれました。
健児之塔に向かった仲間たちは、摩文仁の丘を登り、第32軍の司令部壕前を通り、健児之塔に向かう切り立った崖にある急な階段を降りました。雨の影響もあり、足下が本当に不確かな状況でした。
上は大田昌秀元沖縄県知事が、沖縄戦の際に学友たちとともに最後に隠れていたという岩陰です。近くにある健児之塔にお花を捧げました。ちょうど、中学生たちが学習をしているところでした。子どもたちも引率の先生たちも、そして私たちも、過去の戦争の実相をまなび、戦争を繰り返させないために学習する仲間です。
アブチラガマで沖縄戦当時のガマ内部でのできごとを追体験しました。ちなみにガマの内部は撮影禁止です。
このガマは陸軍南風原病院の分院であり、中部で激しい戦闘が開始されると600~1000人の負傷兵が運び込まれたとのことです。
また、避難していた近隣の住民は米軍の攻撃にさらされる出口に近いところを居場所にされて兵隊の監視が付けられ、負傷していない日本兵たちがいたのは住民のいた場所の奥の方だったということです。ここにも「軍隊は住民を守らなかった」という事実が示されています。
追体験を終え、ガマで戦争によって生命を奪われた住民、軍から見殺しにされた負傷兵に黙とうを捧げました。
ガマから生還した元日本兵の日比野さんが戦後に寄贈したひな人形が展示されています。
戦跡での学習を終え、ホテルに戻りました。夕食の前に、沖縄の平和友好祭運動の大先輩たちから、1970年のコザ暴動や50年前の「復帰」の日の出来事についてお話を聞きました。
講演の後は美味しい夕食をいただきました。
自主交流ではホテルの近くの「なんた浜」で民謡ライブを楽しみました。事務局は「汗水節」「二見情話」「下千鳥」が好きです。
4日めは早朝から名護市辺野古にあるキャンプシュワブのゲート前で行動に参加しました。ゲート前に集まったみんなの力で工事車両を1時間以上に渡ってストップさせました。この取り組みが8年も続いていると知った仲間が「毎日の積み重ねの大切さを知った」という感想を寄せてくれました。
民衆が力を合わせれば、新基地建設を阻止できます。
昼はグラスボートで大浦湾へ。サンゴのとても美しい様子が見られました。晴れていたら絶景のはずです。
海上から埋め立て工事の進捗状況も確認しました。新基地建設を阻止し、大浦湾の美しい自然を守らなければなりません。
「旅」の最後の夜は国頭村のかつて米軍保養施設だったホテルに泊まりました。現在も奥間レストセンターが隣接しています。あいにくの雨でしたが、ちょっとだけ海に入った仲間もいました。海と言えば青春、青春と言えば海ですよね。
夕食はバーベキューでした。「旅」の感想、職場実態、労働組合でのぶつかり、お互いの趣味や生活などを交流しました。5日間の取り組みを通じてみんなが仲間になることができました。
仲間たちの笑い声がやんばるの夜の闇にひびき渡ります。事務局にとっては本当に幸せな時間です。
「旅」と言えば深夜までの部屋飲みも楽しみの一つです。名残惜しい時間が過ぎていきました。
翌朝は有志で辺戸岬の祖国復帰闘争碑まで。「沖縄を返せ」の歌がみんなの心の中にこだましていました。
さあ、那覇に戻ります。
道路の整備が進み、国頭村から那覇空港まで休憩を含めて2時間半で到着できるようになりました。那覇空港の会議室で行われた解団式では感想を交流し、団結ガンバローで「旅」を締めくくりました。
その後、飛行機まで時間がある参加者は、那覇市内の牧志公設市場で昼食をいただきました。
かつてのガーブ川沿いの各商店街は農連市場の解体や牧志公設市場の建て替えをはじめ再開発が進められようとしています。行政と資本の主導による再開発を押しとどめ、まちぐゎーの活気と情緒をなんとかして残したいものです。事務局は「のうれんプラザ」は失敗だったのではないかと思っています。
「旅」に参加したみなさん、参加者を送り出してくださったみなさん、さまざまな形で「旅」や平和友好祭にご協力をいただいたみなさん、お世話になったバス会社、ホテル、レストランのみなさん、本当にありがとうございました。
ロシア軍によるウクライナ侵攻という事態のなかで、日本国内の右派勢力から自衛隊強化や核シェアリングなどの主張が強められています。日本共産党からも「侵略に対して自衛隊を活用する」といった発言がありました。沖縄戦で民衆が得た「軍隊は民衆を守らない」という教訓がこれまで平和運動に関わってきた人々からさえも忘れ去られようとしている時代を迎えています。「自衛隊活用」発言は、第2次世界大戦における民衆の戦争体験をその基礎としてきた戦後日本の平和運動に対する日本共産党による終焉宣言なのでしょう。しかし、戦争が起きたときに被害者となるのは、前線に立たされる青年たちであり、戦火にさらされる子どもたちです。私たちはアキラメるわけにはいきません。
那覇空港に着陸する前の飛行機からの眺めです。雲の合間に残波岬が見えています。今回の「旅」は、最初から最後まで雨天、曇天が続きました。気温も5月の沖縄にしてはかなり低かったように感じました。
那覇空港で集合後、貸切バスで国道58号線を通って宜野湾市の嘉数高台まで移動しました。写真は、高台に登る階段の下で民家の塀に残る沖縄戦の際の弾痕を見ているところです。現在はモニュメントとして残されていますが、20年ほど前までは実際に民家の塀として使われていました。
高台にある階段を上る途中には、沖縄戦の際の日本軍の陣地壕の入口が残されています。日本軍は攻めて来る米軍に対して、丘の反対側に張り巡らせたたくさんの壕を拠点に戦闘を挑みました。日米両軍、そして嘉数集落の人々に多くの犠牲がもたらされました。
嘉数高台の展望台から遠望した海兵隊普天間飛行場です。ちょうどオスプレイがこの日の訓練から戻ったところでした。
展望台の脇にある「青丘の塔」と「京都の塔」では、沖縄に連れてこられた朝鮮半島出身の人々の犠牲、嘉数集落をはじめ沖縄の人々の犠牲についてまなびました。日本軍によってもたらされた住民の犠牲が多かったことも沖縄戦の特徴でした。
嘉数高台に残されている日本軍のコンクリート製のトーチカです。米軍の激しい突撃準備射撃に何度もさらされたはずですが、全体は崩壊していません。
普天間基地のすぐ近くの沖縄国際大学にある、2004年8月の海兵隊ヘリ墜落事故跡に立ち寄りました。
コザにある宿泊ホテルに到着後、結団式を行いました。まず、団長を務める林野労組の田中青年女性委員長から参加者に向けて頼もしいあいさつを受けました。その後、1フィート運動の沖縄戦の映画鑑賞、事務局からの「旅」の日程や課題の説明を受けました。
ホテルが用意してくださった夕食のお弁当を食べながら、参加者それぞれが自己紹介しました。ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、平和運動の強化や方向性について考えたいと参加した仲間が多かったように感じました。
自主交流では嘉手納基地第2ゲート前の空港通りにある旧Aサインバーへ。泡盛をロックで美味しくいただきました。
2日目の午前中は5・15平和行進に参加しました。全国の仲間に呼びかけて平和行進が開催されるのは実に3年ぶりです。この日の取り組みには沖縄県内外から1000人の仲間たちが結集しました。
宜野湾市役所前を出発した行進団は、雨のなかを普天間基地を左に見ながらコザ方面に向けて進みます。
「平和な世界を実現しよう」というシュプレヒコールに大きな共感が寄せられます。いま、本当に問われている課題です。
キャンプ瑞慶覧の石平の米軍司令部前でシュプレヒコール。
降り続く雨に負けずに行進を続けます。平和友好祭の仲間がテレビ局からインタビューを受けました。
行進団が沖縄市内にさしかかりました。携帯電話ショップの店員さんが笑顔で手を振ってくれたのが印象的でした。平和友好祭が泊まっているホテルの前も通りました。
こうしてみると、本当にたくさんの仲間たちが参加したことが分かります。平和を実現するのは、みんなの団結と行動です。
無事に八重島公園に到着。3時間と少しの行進でした。到着集会でも、これからの全国の職場・地域での反戦平和のたたかいの強化が訴えられていました。
いったんホテルに戻り、着替えてから昼食に出発。ステーキを美味しくたくさんいただきました。通常より短い平和行進とはいえ、一つの任務を果たした達成感、充実感は格別です。
午後は「道の駅かでな」から米空軍嘉手納基地を視察。4000メートル級滑走路が2本もある巨大な飛行場です。
日本国内の4000メートル級滑走路は、嘉手納の2本以外には、成田A滑走路、関空B滑走路のみです。
続いて、沖縄市戦後文化資料展示館(ヒストリート)で職員の方の説明を受け、「基地の街」コザの貴重な資料を見学しました。
ここにはコザ暴動や毒ガス撤去闘争など、民衆のたたかいの歴史も展示されています。
夕方は有志でJリーグのFC琉球vs栃木SCの試合を観戦。「復帰50周年記念マッチ」として行われた試合は、前半の早い段階でのアーリークロスからの得点をFC琉球が最後まで守り切り、1-0での勝利となりました。
昼間の雨で濡れたピッチでも、両チームとも安易に前方に蹴り出さず、最終ラインでしっかりボールをまわしてから中盤・前線へとつなぐサッカーでした。あらためてプロ選手の技術の高さに驚きです。後半のFC琉球は押し込まれる展開が続きましたが、CBの李栄直選手を中心にDF陣が身体をはって献身的にゴールを守り切りました。「復帰50周年記念」の試合でもあり、ピッチ上の選手の必死のプレーとスタンドのサポーターの祈るような応援に強く心を打たれました。FC琉球の選手たちが背負っているのはサポーターの期待や気持ちだけでなく、「琉球」そのものなのだと感じました。事務局もこの日ほどFC琉球に勝ってほしいと思った試合はありませんでした。
勝利の瞬間、みんなの喜びが文字通り爆発したかのような歓声がスタジアムにひびき渡りました。クラブの広報の方によるとホームでの勝利は約1年ぶりとのことで、本当に感動的な勝利でした。
来場者には「復帰50年記念マッチ」Tシャツが配られました。家宝にしたいと思います。
「旅」の3日めは南部戦跡での学習です。まず、ひめゆり平和祈念資料館の前にあるひめゆりの塔や伊原第3外科壕跡前で、沖縄戦の犠牲になった人々を偲びながら手を合わせました。
亡くなった元学徒隊員の証言映像を見ながら、軍隊は住民を守らなかったという教訓をまなびました。
ひめゆり平和祈念資料館は2020年以来の「コロナ禍」で入場者が大きく減っているとのことで、寄付が呼びかけられています。平和友好祭からも寄付をお渡ししました。
この日も修学旅行や平和運動団体の見学はこれまでよりかなり少ないように感じました。資料館周辺では利用客の減少から閉店に追い込まれているお土産屋さんがあるようです。
昼食後は魂魄の塔に向かいました。「旅」の日程中、このときだけ晴れていました。ガイドの仲本さんからいただく説明を、みんな熱心に聞いています。
続いて平和公園へ。仲本さんの説明をいただいた後、参加者は資料館見学組と沖縄師範健児之塔に向かう組と二手に分かれました。
健児之塔に向かった仲間たちは、摩文仁の丘を登り、第32軍の司令部壕前を通り、健児之塔に向かう切り立った崖にある急な階段を降りました。雨の影響もあり、足下が本当に不確かな状況でした。
上は大田昌秀元沖縄県知事が、沖縄戦の際に学友たちとともに最後に隠れていたという岩陰です。近くにある健児之塔にお花を捧げました。ちょうど、中学生たちが学習をしているところでした。子どもたちも引率の先生たちも、そして私たちも、過去の戦争の実相をまなび、戦争を繰り返させないために学習する仲間です。
アブチラガマで沖縄戦当時のガマ内部でのできごとを追体験しました。ちなみにガマの内部は撮影禁止です。
このガマは陸軍南風原病院の分院であり、中部で激しい戦闘が開始されると600~1000人の負傷兵が運び込まれたとのことです。
また、避難していた近隣の住民は米軍の攻撃にさらされる出口に近いところを居場所にされて兵隊の監視が付けられ、負傷していない日本兵たちがいたのは住民のいた場所の奥の方だったということです。ここにも「軍隊は住民を守らなかった」という事実が示されています。
追体験を終え、ガマで戦争によって生命を奪われた住民、軍から見殺しにされた負傷兵に黙とうを捧げました。
ガマから生還した元日本兵の日比野さんが戦後に寄贈したひな人形が展示されています。
戦跡での学習を終え、ホテルに戻りました。夕食の前に、沖縄の平和友好祭運動の大先輩たちから、1970年のコザ暴動や50年前の「復帰」の日の出来事についてお話を聞きました。
講演の後は美味しい夕食をいただきました。
自主交流ではホテルの近くの「なんた浜」で民謡ライブを楽しみました。事務局は「汗水節」「二見情話」「下千鳥」が好きです。
4日めは早朝から名護市辺野古にあるキャンプシュワブのゲート前で行動に参加しました。ゲート前に集まったみんなの力で工事車両を1時間以上に渡ってストップさせました。この取り組みが8年も続いていると知った仲間が「毎日の積み重ねの大切さを知った」という感想を寄せてくれました。
民衆が力を合わせれば、新基地建設を阻止できます。
昼はグラスボートで大浦湾へ。サンゴのとても美しい様子が見られました。晴れていたら絶景のはずです。
海上から埋め立て工事の進捗状況も確認しました。新基地建設を阻止し、大浦湾の美しい自然を守らなければなりません。
「旅」の最後の夜は国頭村のかつて米軍保養施設だったホテルに泊まりました。現在も奥間レストセンターが隣接しています。あいにくの雨でしたが、ちょっとだけ海に入った仲間もいました。海と言えば青春、青春と言えば海ですよね。
夕食はバーベキューでした。「旅」の感想、職場実態、労働組合でのぶつかり、お互いの趣味や生活などを交流しました。5日間の取り組みを通じてみんなが仲間になることができました。
仲間たちの笑い声がやんばるの夜の闇にひびき渡ります。事務局にとっては本当に幸せな時間です。
「旅」と言えば深夜までの部屋飲みも楽しみの一つです。名残惜しい時間が過ぎていきました。
翌朝は有志で辺戸岬の祖国復帰闘争碑まで。「沖縄を返せ」の歌がみんなの心の中にこだましていました。
さあ、那覇に戻ります。
道路の整備が進み、国頭村から那覇空港まで休憩を含めて2時間半で到着できるようになりました。那覇空港の会議室で行われた解団式では感想を交流し、団結ガンバローで「旅」を締めくくりました。
その後、飛行機まで時間がある参加者は、那覇市内の牧志公設市場で昼食をいただきました。
かつてのガーブ川沿いの各商店街は農連市場の解体や牧志公設市場の建て替えをはじめ再開発が進められようとしています。行政と資本の主導による再開発を押しとどめ、まちぐゎーの活気と情緒をなんとかして残したいものです。事務局は「のうれんプラザ」は失敗だったのではないかと思っています。
「旅」に参加したみなさん、参加者を送り出してくださったみなさん、さまざまな形で「旅」や平和友好祭にご協力をいただいたみなさん、お世話になったバス会社、ホテル、レストランのみなさん、本当にありがとうございました。
2022年05月15日
1000人の仲間たちが平和行進で基地撤去訴える
5・15平和行進が5月14日午前中に開催されました。県内外から1000人の仲間たちが参加し、普天間基地の撤去、新基地建設反対、平和な世界の実現を訴えました。
出発地点の宜野湾市役所前にたくさんの仲間たちが集合しました。
みなさんからあいさつを受けました。下は社民党衆議院議員の新垣邦雄さんです。
平和行進を成功させるぞ!とみんなで決意。
沖縄市に向けて行進が出発。最初は普天間基地を右に見ながら進みました。
力強いシュプレヒコールが響き渡りました。
平和友好祭のみんなもがんばって歩きます。
キャンプフォスターの司令部地区の前です。両側に米軍基地が続きます。
行進団はコザの街に。嘉手納基地第2ゲート前を折り返します。
沖縄市の八重島公園がゴールでした。到着集会でこれからのたたかいの前進を決意し合いました。「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓をどう活かすかが問われています。
平和友好祭のみんなもがんばって平和行進を最後まで貫徹しました。お疲れ様でした。
出発地点の宜野湾市役所前にたくさんの仲間たちが集合しました。
みなさんからあいさつを受けました。下は社民党衆議院議員の新垣邦雄さんです。
平和行進を成功させるぞ!とみんなで決意。
沖縄市に向けて行進が出発。最初は普天間基地を右に見ながら進みました。
力強いシュプレヒコールが響き渡りました。
平和友好祭のみんなもがんばって歩きます。
キャンプフォスターの司令部地区の前です。両側に米軍基地が続きます。
行進団はコザの街に。嘉手納基地第2ゲート前を折り返します。
沖縄市の八重島公園がゴールでした。到着集会でこれからのたたかいの前進を決意し合いました。「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓をどう活かすかが問われています。
平和友好祭のみんなもがんばって平和行進を最後まで貫徹しました。お疲れ様でした。
2021年12月24日
2020年11月07日
「第27回被戦地オキナワ青年の旅」に14人が参加
平和友好祭主催の「第27回被戦地オキナワ青年の旅」を10月31日から11月3日にかけて開催しました。
この「オキナワの旅」は本来は5・15平和行進にあわせて開催していますが、今年は「新型コロナウイルス」の影響で延期となっていました。
あらためて秋に設定した「オキナワの旅」には、14人の仲間が参加しました。「旅」の様子を写真を交えながら報告します。
◆10月31日(土)
上空から見た伊平屋島と伊是名島の美しい眺めです。
「本土」は秋深まる時期ですが、沖縄にはまだまだ夏の日差しが残っています。
摩文仁の丘も見えました。
上空から見ると、首里撤退後の日本軍がきわめて狭い範囲に布陣せざるを得なかったことが分かります。それでも残存する部隊間の連携、連絡に困難をきたしていたわけですから、組織的な戦闘は事実上不可能になっていたのではないでしょうか。
那覇空港で集合後、バスに乗車し、国道58号線を那覇軍港、牧港補給区を通りながら嘉数高台に向かいました。
公園の階段下にある、沖縄戦の際の弾痕が残された嘉数集落のコンクリート塀を見ています。
嘉数の戦いの際に、米軍が制圧・占領を目指した嘉数集落の住民はその半数以上が命を落とす結果となりました。
展望台から普天間基地や沖縄国際大学の位置を確認しました。
エプロンにはオスプレイが駐機しているのが見えました。
朝鮮半島出身の沖縄戦の戦没者を偲ぶ「青丘の塔」です。
ここは翌日の「平和の礎」での学習にもつながっています。
日本軍のトーチカ跡です。
嘉数高台を後にして、バスで宿泊地であるコザに向かいました。途中でキャンプ瑞慶覧やライカムのイオンモールの様子を見ました。
ホテルの会議室で結団式です。団長のあいさつ、ビデオ学習、「旅」の日程を確認しました。
結団式の後、そのまま夕食交流となりました。今回は「新型コロナウイルス」の感染防止ということで、ソーシャルディスタンスを意識した会議と食事となりました。
◆11月1日(日)
沖縄戦の後、普天間基地が建設される前の宜野湾の様子を知るために、宜野湾市立博物館に行きました。
かつての宜野湾並松(じのーんなんまち)の姿がよく分かりました。
沖縄戦前の宜野湾には1万5千人の人々が住む生活の場でした。
「基地が先にあり、そこに後から人々が来た」のではなく、先に人々とその暮らしがあったのです。
沖縄国際大学で2004年8月13日に海兵隊ヘリが墜落した事故についてまなびました。
宜野湾市出身の沖縄バスのガイドの仲本さんが、ヘリ墜落の当日の様子を話してくださいました。
昼前からは南部戦跡での学習です。ひめゆりの塔の前で真剣に仲本さんの説明を聞いています。
証言員の方の講話を聴きました。戦争体験の継承は平和友好祭にとっても重要な課題です。
この日のひめゆり資料館では、私たち以外にも修学旅行の高校生への講話が多く入っていました。
民衆を巻き込み、多くの犠牲を出した沖縄戦の実相から戦争の悲惨さについてまなぼうとする姿勢が共有されているのだと感じました。
しかし、資料館の前のお土産屋さんが閉鎖されていたり、営業しているお土産屋さんも商品が少なかったり、「新型コロナウイルス」の影響を感じざるを得ないのもまた事実でした。
「魂魄の塔」です。かつてここに納められていた3万5千柱の遺骨のほとんどは、現在は摩文仁の納骨堂に移葬されています。仲本さんからその問題点についてまなびました。
日本軍の敗残兵と、軍に見放された人々が最後にたどり着いた海岸です。この海岸を素足同然のままで逃げまどう困難はいかばかりだったでしょうか。
軍隊は民衆を守らなかったという教訓をしっかり継承しなければなりません。
平和友好祭の「旅」としては久しぶりに「平和の礎」と県立平和祈念資料館に来ました。
朝鮮半島出身の戦没者の遺族の多くが「礎」への刻銘を拒んでいるのはなぜかについて考えるなかから、「礎」の積極面と問題点について確認しました。
資料館見学組と慰霊碑見学組に分かれました。各都道府県の碑の状況や碑文の内容の違いからもまなべることがあります。
真摯に平和を訴える内容、軍国美談調の内容、そして碑文がすでに読めなくなっているものなど、さまざまです。
「鉄血勤皇隊」で動員されていた大田昌秀元沖縄県知事が学習たちと最後に隠れていたガマや、「沖縄師範健児の塔」に行きました。
摩文仁の丘までは来ても、この「健児の塔」まで来る人は多くないようです。
南部戦跡での学習の最後はアブチラガマでの追体験です。
ひめゆり資料館での学習を踏まえて、具志堅さんの案内でガマに入りました。
ガマの内部は見学しやすいように整備が進んでいます。こうした整備が進むことへの賛否があるのではないかと感じます。
事務局が23年前にアブチラガマに初めて来たときは、バスが停められるだけの駐車場で、民家の裏にポッカリとガマの入口があるだけでした。
追体験を終え、ガマで亡くなった人々に黙とうをささげ、戦争を繰り返させないことを誓いました。
追体験が終わりました。夕方の日差しがまだ明るい75年後の世界に戻ります。
バスがホテルに到着する直前、これが最後の平和ガイドとなる沖縄バスのバスガイドの仲本さんがご自身の若い頃の体験について初めて語ってくださいました。仲本さんが、会社の指導や「本土」からの利用客の苦情に負けずに反戦平和について語り続けた理由の一端を知ることができました。頭をガツンと殴られたような気持ちでした。
もう10年ほどにもなろうかという仲本さんと平和友好祭のおつきあいですが、今年の「オキナワの旅」を行わなければ、仲本さんの経験も知ることがないままになってしまうところでした。そして、今回は参加がかなわなかった私鉄の仲間たちにも聞いてほしかった体験でした。
「自粛」がいかに青年から学習と成長の機会を奪うものかを思い知らされました。「来年が…」とは言っても、「今年」の「いま」しか聞けなかった経験があるのです。
夕食は、昼間の学習を振り返りながらコザの街でステーキを食べました。
みんな普段はステーキを食べる機会があまりないので、おいしくいただきました。
◆11月2日(月)
コザのホテルをチェックアウトし、北部に向かいました。
まず、「道の駅かでな」から米空軍普天間基地を視察しました。あまりの大きさへの驚きを語る仲間もいました。
F15戦闘機部隊は日米合同演習で九州に出払っており、いつもより静かな嘉手納基地でした。
辺野古では漁港わきのテントでたたかいの課題についてのお話を聞きました。
フェンスの向こうでは美しい海の埋め立てが進められています。
「新型コロナウイルス」の感染防止として、ゲート前での座り込みへの県外からの参加は見合わせるよう指示されています。
このため、私たちはわんさか大浦パークで昼ごはんを食べ、午後は船で海上から大浦湾やキャンプシュワブの現状を視察しました。
新基地建設反対のたたかいを全国の職場や地域で広げなければなりません。
ホテルにチェックインする頃にはもう夕陽もずいぶん傾いていました。
米軍の保養施設が隣接するホテルということで、昼間とは違った形で基地問題についてまなぶ機会となりました。
「自主学習」の時間を使って、徳島の仲間たちはレンタカーで辺戸岬の祖国復帰闘争碑まで出かけました。貴重な経験です。
夕食はホテルのテラスでBBQです。みんなすっかり仲良くなりました。
おなかがいっぱいになった後は、ビーチで花火をしました。名残惜しい時間が過ぎていきます。
BGMはフジファブリックの「若者のすべて」というところでしょうか。
◆11月3日(火・休)
那覇空港に向けて出発です。飛び石連休ということでホテルにはお客さんの姿もたくさん見られました。
那覇空港で解団式です。一人ずつ「旅」の感想を報告し合いました。3泊4日はあっという間でした。またみんなで再開したい仲間たちです。
青年には「旅」をさせよ。「新型コロナウイルス」や仕事に追われる職場をめぐって困難な状況下ですが、参加者を送り出した労組や職場に還元されるものは大きいはずです。
解散後、飛行機まで時間のある仲間で牧志公設市場まで昼ご飯を食べに行きました。
公設市場は新しい建物を建設中で、仮の建物で営業中です。
工事中の公設市場です。完成予想図を見る限りでは、かつての趣と活気を望むのは難しい印象です。「のうれんプラザ」の現状を思うと複雑な気持ちです。
旭橋のバスターミナルも同様ですが、行政と大資本主導の再開発事業のセンスの悪さはどうにかならないものなのでしょうか。
民衆の生活の匂いのするまちぐゎーを何とか残したいものです。
この後、事務局は延伸されたゆいレールに乗って浦添市の前田高地まで事後学習に向かいました。ゆいレールは「てだこ浦西」まで延伸されています。前田高地の戦闘は数年前に「ハクソーリッジ」という映画になっていました。
沖縄戦の主戦線は、読谷・嘉手納・北谷の米軍上陸→嘉数~西原での戦闘→前田高地での戦闘→首里戦線→日本軍司令部の南部撤退→南部戦線という経過をたどっています。伊江島や北部での戦闘、座間味諸島でのいわゆる「集団自決」も忘れてはいけません。
浦添城址から望む嘉数高台と普天間基地です。
墓地の中を探し回って見つけた「平和の碑」です。前田高地には北海道の旭川の連隊が配置されていたようです。
ただし、碑文には地域の人々の犠牲には触れられていません。
旧日本軍を顕彰するだけで、戦闘の犠牲になった沖縄の人々を振り返る視点がないことは、
たとえば5年前の「戦争法制」反対運動で、「自衛隊が戦場で殺したり殺されたりするのに反対」というばかりで、
実際に中東やアフリカなどの戦場で多くの人々が犠牲になっている現実が顧みられていない状況と通底するものだと言えます。
前田高地の崖は急峻です。ここをよじ登って丘陵の制圧を目指すアメリカ兵の犠牲もまた多かったのでしょう。
反対斜面には日本軍の洞窟陣地が多く残されていますが、いずれも入ることはできません。
上の写真の壕は「カンパン壕」と呼ばれ、内部にカンパンなど日本軍の食料が貯蔵されていたそうです。
米軍には「前田高地の日本軍は完璧な反斜面陣地を駆使していた」という記録が残っているそうです。
すぐ上空を訓練から普天間基地に戻る海兵隊のヘリコプターが低空で飛び去ります。
乗っている兵士たちは上空から市街地を監視しています。カメラを向けた事務局にも気付いたようでした。
あるベトナム戦争の映画で、ヘリに乗った米軍の兵士が機関銃でベトナムの人々を銃撃し、「Get Some!」と繰り返すシーンがあります。戦場では、米軍により今も同じ光景が繰り返されているのでしょう。
「基地のない沖縄」は、沖縄のたたかいだけでは実現できません。私たちがそれぞれの職場や地域から、この国の政治、経済、社会を問うたたかいです。
この「オキナワの旅」は本来は5・15平和行進にあわせて開催していますが、今年は「新型コロナウイルス」の影響で延期となっていました。
あらためて秋に設定した「オキナワの旅」には、14人の仲間が参加しました。「旅」の様子を写真を交えながら報告します。
◆10月31日(土)
上空から見た伊平屋島と伊是名島の美しい眺めです。
「本土」は秋深まる時期ですが、沖縄にはまだまだ夏の日差しが残っています。
摩文仁の丘も見えました。
上空から見ると、首里撤退後の日本軍がきわめて狭い範囲に布陣せざるを得なかったことが分かります。それでも残存する部隊間の連携、連絡に困難をきたしていたわけですから、組織的な戦闘は事実上不可能になっていたのではないでしょうか。
那覇空港で集合後、バスに乗車し、国道58号線を那覇軍港、牧港補給区を通りながら嘉数高台に向かいました。
公園の階段下にある、沖縄戦の際の弾痕が残された嘉数集落のコンクリート塀を見ています。
嘉数の戦いの際に、米軍が制圧・占領を目指した嘉数集落の住民はその半数以上が命を落とす結果となりました。
展望台から普天間基地や沖縄国際大学の位置を確認しました。
エプロンにはオスプレイが駐機しているのが見えました。
朝鮮半島出身の沖縄戦の戦没者を偲ぶ「青丘の塔」です。
ここは翌日の「平和の礎」での学習にもつながっています。
日本軍のトーチカ跡です。
嘉数高台を後にして、バスで宿泊地であるコザに向かいました。途中でキャンプ瑞慶覧やライカムのイオンモールの様子を見ました。
ホテルの会議室で結団式です。団長のあいさつ、ビデオ学習、「旅」の日程を確認しました。
結団式の後、そのまま夕食交流となりました。今回は「新型コロナウイルス」の感染防止ということで、ソーシャルディスタンスを意識した会議と食事となりました。
◆11月1日(日)
沖縄戦の後、普天間基地が建設される前の宜野湾の様子を知るために、宜野湾市立博物館に行きました。
かつての宜野湾並松(じのーんなんまち)の姿がよく分かりました。
沖縄戦前の宜野湾には1万5千人の人々が住む生活の場でした。
「基地が先にあり、そこに後から人々が来た」のではなく、先に人々とその暮らしがあったのです。
沖縄国際大学で2004年8月13日に海兵隊ヘリが墜落した事故についてまなびました。
宜野湾市出身の沖縄バスのガイドの仲本さんが、ヘリ墜落の当日の様子を話してくださいました。
昼前からは南部戦跡での学習です。ひめゆりの塔の前で真剣に仲本さんの説明を聞いています。
証言員の方の講話を聴きました。戦争体験の継承は平和友好祭にとっても重要な課題です。
この日のひめゆり資料館では、私たち以外にも修学旅行の高校生への講話が多く入っていました。
民衆を巻き込み、多くの犠牲を出した沖縄戦の実相から戦争の悲惨さについてまなぼうとする姿勢が共有されているのだと感じました。
しかし、資料館の前のお土産屋さんが閉鎖されていたり、営業しているお土産屋さんも商品が少なかったり、「新型コロナウイルス」の影響を感じざるを得ないのもまた事実でした。
「魂魄の塔」です。かつてここに納められていた3万5千柱の遺骨のほとんどは、現在は摩文仁の納骨堂に移葬されています。仲本さんからその問題点についてまなびました。
日本軍の敗残兵と、軍に見放された人々が最後にたどり着いた海岸です。この海岸を素足同然のままで逃げまどう困難はいかばかりだったでしょうか。
軍隊は民衆を守らなかったという教訓をしっかり継承しなければなりません。
平和友好祭の「旅」としては久しぶりに「平和の礎」と県立平和祈念資料館に来ました。
朝鮮半島出身の戦没者の遺族の多くが「礎」への刻銘を拒んでいるのはなぜかについて考えるなかから、「礎」の積極面と問題点について確認しました。
資料館見学組と慰霊碑見学組に分かれました。各都道府県の碑の状況や碑文の内容の違いからもまなべることがあります。
真摯に平和を訴える内容、軍国美談調の内容、そして碑文がすでに読めなくなっているものなど、さまざまです。
「鉄血勤皇隊」で動員されていた大田昌秀元沖縄県知事が学習たちと最後に隠れていたガマや、「沖縄師範健児の塔」に行きました。
摩文仁の丘までは来ても、この「健児の塔」まで来る人は多くないようです。
南部戦跡での学習の最後はアブチラガマでの追体験です。
ひめゆり資料館での学習を踏まえて、具志堅さんの案内でガマに入りました。
ガマの内部は見学しやすいように整備が進んでいます。こうした整備が進むことへの賛否があるのではないかと感じます。
事務局が23年前にアブチラガマに初めて来たときは、バスが停められるだけの駐車場で、民家の裏にポッカリとガマの入口があるだけでした。
追体験を終え、ガマで亡くなった人々に黙とうをささげ、戦争を繰り返させないことを誓いました。
追体験が終わりました。夕方の日差しがまだ明るい75年後の世界に戻ります。
バスがホテルに到着する直前、これが最後の平和ガイドとなる沖縄バスのバスガイドの仲本さんがご自身の若い頃の体験について初めて語ってくださいました。仲本さんが、会社の指導や「本土」からの利用客の苦情に負けずに反戦平和について語り続けた理由の一端を知ることができました。頭をガツンと殴られたような気持ちでした。
もう10年ほどにもなろうかという仲本さんと平和友好祭のおつきあいですが、今年の「オキナワの旅」を行わなければ、仲本さんの経験も知ることがないままになってしまうところでした。そして、今回は参加がかなわなかった私鉄の仲間たちにも聞いてほしかった体験でした。
「自粛」がいかに青年から学習と成長の機会を奪うものかを思い知らされました。「来年が…」とは言っても、「今年」の「いま」しか聞けなかった経験があるのです。
夕食は、昼間の学習を振り返りながらコザの街でステーキを食べました。
みんな普段はステーキを食べる機会があまりないので、おいしくいただきました。
◆11月2日(月)
コザのホテルをチェックアウトし、北部に向かいました。
まず、「道の駅かでな」から米空軍普天間基地を視察しました。あまりの大きさへの驚きを語る仲間もいました。
F15戦闘機部隊は日米合同演習で九州に出払っており、いつもより静かな嘉手納基地でした。
辺野古では漁港わきのテントでたたかいの課題についてのお話を聞きました。
フェンスの向こうでは美しい海の埋め立てが進められています。
「新型コロナウイルス」の感染防止として、ゲート前での座り込みへの県外からの参加は見合わせるよう指示されています。
このため、私たちはわんさか大浦パークで昼ごはんを食べ、午後は船で海上から大浦湾やキャンプシュワブの現状を視察しました。
新基地建設反対のたたかいを全国の職場や地域で広げなければなりません。
ホテルにチェックインする頃にはもう夕陽もずいぶん傾いていました。
米軍の保養施設が隣接するホテルということで、昼間とは違った形で基地問題についてまなぶ機会となりました。
「自主学習」の時間を使って、徳島の仲間たちはレンタカーで辺戸岬の祖国復帰闘争碑まで出かけました。貴重な経験です。
夕食はホテルのテラスでBBQです。みんなすっかり仲良くなりました。
おなかがいっぱいになった後は、ビーチで花火をしました。名残惜しい時間が過ぎていきます。
BGMはフジファブリックの「若者のすべて」というところでしょうか。
◆11月3日(火・休)
那覇空港に向けて出発です。飛び石連休ということでホテルにはお客さんの姿もたくさん見られました。
那覇空港で解団式です。一人ずつ「旅」の感想を報告し合いました。3泊4日はあっという間でした。またみんなで再開したい仲間たちです。
青年には「旅」をさせよ。「新型コロナウイルス」や仕事に追われる職場をめぐって困難な状況下ですが、参加者を送り出した労組や職場に還元されるものは大きいはずです。
解散後、飛行機まで時間のある仲間で牧志公設市場まで昼ご飯を食べに行きました。
公設市場は新しい建物を建設中で、仮の建物で営業中です。
工事中の公設市場です。完成予想図を見る限りでは、かつての趣と活気を望むのは難しい印象です。「のうれんプラザ」の現状を思うと複雑な気持ちです。
旭橋のバスターミナルも同様ですが、行政と大資本主導の再開発事業のセンスの悪さはどうにかならないものなのでしょうか。
民衆の生活の匂いのするまちぐゎーを何とか残したいものです。
この後、事務局は延伸されたゆいレールに乗って浦添市の前田高地まで事後学習に向かいました。ゆいレールは「てだこ浦西」まで延伸されています。前田高地の戦闘は数年前に「ハクソーリッジ」という映画になっていました。
沖縄戦の主戦線は、読谷・嘉手納・北谷の米軍上陸→嘉数~西原での戦闘→前田高地での戦闘→首里戦線→日本軍司令部の南部撤退→南部戦線という経過をたどっています。伊江島や北部での戦闘、座間味諸島でのいわゆる「集団自決」も忘れてはいけません。
浦添城址から望む嘉数高台と普天間基地です。
墓地の中を探し回って見つけた「平和の碑」です。前田高地には北海道の旭川の連隊が配置されていたようです。
ただし、碑文には地域の人々の犠牲には触れられていません。
旧日本軍を顕彰するだけで、戦闘の犠牲になった沖縄の人々を振り返る視点がないことは、
たとえば5年前の「戦争法制」反対運動で、「自衛隊が戦場で殺したり殺されたりするのに反対」というばかりで、
実際に中東やアフリカなどの戦場で多くの人々が犠牲になっている現実が顧みられていない状況と通底するものだと言えます。
前田高地の崖は急峻です。ここをよじ登って丘陵の制圧を目指すアメリカ兵の犠牲もまた多かったのでしょう。
反対斜面には日本軍の洞窟陣地が多く残されていますが、いずれも入ることはできません。
上の写真の壕は「カンパン壕」と呼ばれ、内部にカンパンなど日本軍の食料が貯蔵されていたそうです。
米軍には「前田高地の日本軍は完璧な反斜面陣地を駆使していた」という記録が残っているそうです。
すぐ上空を訓練から普天間基地に戻る海兵隊のヘリコプターが低空で飛び去ります。
乗っている兵士たちは上空から市街地を監視しています。カメラを向けた事務局にも気付いたようでした。
あるベトナム戦争の映画で、ヘリに乗った米軍の兵士が機関銃でベトナムの人々を銃撃し、「Get Some!」と繰り返すシーンがあります。戦場では、米軍により今も同じ光景が繰り返されているのでしょう。
「基地のない沖縄」は、沖縄のたたかいだけでは実現できません。私たちがそれぞれの職場や地域から、この国の政治、経済、社会を問うたたかいです。
2020年06月23日
「慰霊の日」の玉城デニー知事の平和宣言の紹介
2020年の「慰霊の日」にあたり玉城デニー知事の平和宣言を紹介します。
戦争終結75年の節目を迎えようとする今日、私たちは、忌まわしい戦争の記憶を風化させない、再び同じ過を繰り返さない、繰り返させないため、沖縄戦で得た教訓を正しく次世代に伝え、平和を希求する「沖縄のこころ・チムグクル」を世界に発信し、共有することを呼びかけます。
戦後、沖縄県民は人権と自治が抑圧された米軍占領下にある中、先人から大切に受け継がれてきた文化を守り、チムグクルを育みながら、復興と発展の道を力強く歩んできました。
しかしながら戦後75年を経た現在もなお、国土面積の約0・6%に米軍専用施設の約70・3%が集中し、米軍人・軍属等による事件・事故や航空機騒音、PFOSによる水質汚染等の環境問題は、県民生活に多大な影響を及ぼし続けています。
名護市辺野古で進められている新基地建設の場所である辺野古・大浦湾周辺の海は、絶滅危惧種262種を含む5300種以上の生物が生息しているホープスポットです。世界自然遺産への登録が待たれるヤンバルの森も生物多様性の宝庫であり、陸と海が連環するこの沖縄の自然体系そのものが私たちウチナーンチュのかけがえのない財産です。
この自然豊かな海や森を次の世代、またその次の世代に残していくために、今を生きる我々世代が未来を見据え、責任を持って考えることが重要です。
県民の平和を希求する「沖縄のこころ」を世界に発信し、国際平和の創造に貢献することを目的として、2001年に創設した沖縄平和賞の第1回受賞者であるペシャワール会の中村哲医師が、昨年の末、アフガニスタンで凶弾に倒れるという突然の悲報がありました。中村先生は人の幸せを「三度のご飯が食べられ、家族が一緒に穏やかに暮らせること」と説き、現地の人々が生きるために河を引き、干からびた大地を緑に変え、武器を農具に持ち換える喜びを身をもって示されました。私たちは、中村先生の「非暴力と無私の奉仕」に共鳴し、その姿から人々が平和に生きることとは何かを学ばせていただきました。
しかし、依然として世界では、地域紛争やテロの脅威にさらされている国や地域があり、貧困、飢餓、差別、人権の抑圧、環境の破壊などの構造的な暴力が横行しています。
さらに、全世界で新型コロナウイルス感染症が猛威を振るい、人々の命と生活が脅かされる未曾有の事態にあり、経済活動にも甚大な影響が生じています。この感染症は、病気への恐れが不安を呼び、その不安が差別や偏見を生み出し、社会を分断させるという怖さを秘めています。
だからこそ、世界中の人々がそれぞれの立場や違いを認め合い、協力し、信頼し合うことにより、心穏やかで真に豊かな生活を送ることができるよう、国連が提唱するSDGsの推進をはじめとした人間の安全保障の実現に向け、国際社会が一体となって取り組んでいくことが今こそ重要ではないでしょうか。
ここ平和祈念公園には、国籍や人種の別なく戦争で亡くなられた全ての方々の名前を刻む「平和の礎」があります。礎の前で、刻まれた名前をなぞりながら生きていた証を感じ、いつまでも忘れないとの祈りを寄せる御遺族の姿は、私たちの心に深々と染み入ってきます。
平和の広場の中央には、被爆地広島市の「平和の灯」と長崎市の「誓いの火」から分けていただいた火と、沖縄戦最初の米軍の上陸地である座間味村阿嘉島で採取した火を合わせた「平和の火」がともされております。私たちは、人類史上他に類を見ない惨禍を経験されたヒロシマ・ナガサキと平和を願う心を共有し、人類が二度と「黒い雨」や「鉄の暴風」を経験することがないよう、心に「平和の火」をともし、尊い誓いを守り続ける決意を新たにします。
そして今こそ全人類の英知を結集して、核兵器の廃絶、戦争の放棄、恒久平和の確立のため総力をあげてまい進しなければなりません。
此りまでぃに有てーならん戦争因に可惜命、失みそーちゃる人々ぬ魂が穏々とぅなみしぇーる如 御祈っし、此りから未来ぬ世ねー 戦争ぬ無らん弥勒世(平和)招ち、御万人ぬ喜くびぬ満つち溢んでぃぬなみしぇーし心底から念願っし、行ちゅる所存やいびーん。
I pray that the souls of those who lost their lives in past wars may rest in peace. I will continue to pray
for peace and happiness in the future of mankind.
本日、慰霊の日に当たり、犠牲になられた全てのみ霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、私たちは、戦争を風化させないための道のりを真摯に探り、我が国が非核平和国家としての矜持を持ち、世界の人々と手を取り合い、この島が平和交流の拠点となるべく国際平和の実現に貢献する役割を果たしていくために、全身全霊で取り組んでいく決意をここに宣言します。
2020年6月23日 沖縄県知事 玉城デニー
戦争終結75年の節目を迎えようとする今日、私たちは、忌まわしい戦争の記憶を風化させない、再び同じ過を繰り返さない、繰り返させないため、沖縄戦で得た教訓を正しく次世代に伝え、平和を希求する「沖縄のこころ・チムグクル」を世界に発信し、共有することを呼びかけます。
戦後、沖縄県民は人権と自治が抑圧された米軍占領下にある中、先人から大切に受け継がれてきた文化を守り、チムグクルを育みながら、復興と発展の道を力強く歩んできました。
しかしながら戦後75年を経た現在もなお、国土面積の約0・6%に米軍専用施設の約70・3%が集中し、米軍人・軍属等による事件・事故や航空機騒音、PFOSによる水質汚染等の環境問題は、県民生活に多大な影響を及ぼし続けています。
名護市辺野古で進められている新基地建設の場所である辺野古・大浦湾周辺の海は、絶滅危惧種262種を含む5300種以上の生物が生息しているホープスポットです。世界自然遺産への登録が待たれるヤンバルの森も生物多様性の宝庫であり、陸と海が連環するこの沖縄の自然体系そのものが私たちウチナーンチュのかけがえのない財産です。
この自然豊かな海や森を次の世代、またその次の世代に残していくために、今を生きる我々世代が未来を見据え、責任を持って考えることが重要です。
県民の平和を希求する「沖縄のこころ」を世界に発信し、国際平和の創造に貢献することを目的として、2001年に創設した沖縄平和賞の第1回受賞者であるペシャワール会の中村哲医師が、昨年の末、アフガニスタンで凶弾に倒れるという突然の悲報がありました。中村先生は人の幸せを「三度のご飯が食べられ、家族が一緒に穏やかに暮らせること」と説き、現地の人々が生きるために河を引き、干からびた大地を緑に変え、武器を農具に持ち換える喜びを身をもって示されました。私たちは、中村先生の「非暴力と無私の奉仕」に共鳴し、その姿から人々が平和に生きることとは何かを学ばせていただきました。
しかし、依然として世界では、地域紛争やテロの脅威にさらされている国や地域があり、貧困、飢餓、差別、人権の抑圧、環境の破壊などの構造的な暴力が横行しています。
さらに、全世界で新型コロナウイルス感染症が猛威を振るい、人々の命と生活が脅かされる未曾有の事態にあり、経済活動にも甚大な影響が生じています。この感染症は、病気への恐れが不安を呼び、その不安が差別や偏見を生み出し、社会を分断させるという怖さを秘めています。
だからこそ、世界中の人々がそれぞれの立場や違いを認め合い、協力し、信頼し合うことにより、心穏やかで真に豊かな生活を送ることができるよう、国連が提唱するSDGsの推進をはじめとした人間の安全保障の実現に向け、国際社会が一体となって取り組んでいくことが今こそ重要ではないでしょうか。
ここ平和祈念公園には、国籍や人種の別なく戦争で亡くなられた全ての方々の名前を刻む「平和の礎」があります。礎の前で、刻まれた名前をなぞりながら生きていた証を感じ、いつまでも忘れないとの祈りを寄せる御遺族の姿は、私たちの心に深々と染み入ってきます。
平和の広場の中央には、被爆地広島市の「平和の灯」と長崎市の「誓いの火」から分けていただいた火と、沖縄戦最初の米軍の上陸地である座間味村阿嘉島で採取した火を合わせた「平和の火」がともされております。私たちは、人類史上他に類を見ない惨禍を経験されたヒロシマ・ナガサキと平和を願う心を共有し、人類が二度と「黒い雨」や「鉄の暴風」を経験することがないよう、心に「平和の火」をともし、尊い誓いを守り続ける決意を新たにします。
そして今こそ全人類の英知を結集して、核兵器の廃絶、戦争の放棄、恒久平和の確立のため総力をあげてまい進しなければなりません。
此りまでぃに有てーならん戦争因に可惜命、失みそーちゃる人々ぬ魂が穏々とぅなみしぇーる如 御祈っし、此りから未来ぬ世ねー 戦争ぬ無らん弥勒世(平和)招ち、御万人ぬ喜くびぬ満つち溢んでぃぬなみしぇーし心底から念願っし、行ちゅる所存やいびーん。
I pray that the souls of those who lost their lives in past wars may rest in peace. I will continue to pray
for peace and happiness in the future of mankind.
本日、慰霊の日に当たり、犠牲になられた全てのみ霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、私たちは、戦争を風化させないための道のりを真摯に探り、我が国が非核平和国家としての矜持を持ち、世界の人々と手を取り合い、この島が平和交流の拠点となるべく国際平和の実現に貢献する役割を果たしていくために、全身全霊で取り組んでいく決意をここに宣言します。
2020年6月23日 沖縄県知事 玉城デニー
2019年05月21日
25人の参加で「第26回被戦地オキナワ青年の旅」を開催
平和友好祭の「第26回被戦地オキナワ青年の旅」を5月16日(木)~20日(月)の日程で開催しました。
今回は各県実行委員会や労働組合から、自治労、林野労組、私鉄の25人の仲間が参加しました。
◆1日目
事務局は那覇空港に到着後、首里城へ。と言っても、観光に来たのではありません。この日の11時に沖縄地方の梅雨入りが発表され、雨が降っていました。
事前学習の一環として、首里城地下の旧日本軍の司令部壕跡に来ました。
最近の「オキナワの旅」ではここには来ていません。
那覇空港で15時に集合後、まずバスで嘉数高台に来ました。展望台から普天間基地を視察した後、沖縄戦についての学習も行いました。
展望台からの普天間基地の写真を撮るのを忘れていました。この日の訓練を終えたオスプレイがエプロンに駐機しているのが見えました。
国頭村のホテルで結団式と夕食交流です。団長から5日間の取り組みの成功に向けた呼びかけがありました。
◆2日目
この日はまず辺野古のキャンプシュワブのゲート前で行われた平和行進の出発式に参加しました。
平和行進の貫徹と新基地建設阻止を訴えるヒロジさんの檄が飛びます。
3日間の平和行進が出発しました。
平和友好祭はそのままゲート前にとどまり、座り込みに参加しました。
この写真は宜野湾市のキリスト者のみなさんです。美しいゴスペルを聞くことができました。
平和友好祭からも一人ずつ自己紹介しました。座り込みに「若いころに山中湖の中央祭典に参加した!」という方がいらっしゃって、力強い激励をいただきました。本当にありがとうございました。
辺野古の浜にも下りました。フェンスの向こうにキャンプシュワブや埋め立て工事が進む海が見えました。
午後は海上から大浦湾の状況を視察しました。雨予報でしたが、実際には晴れて美しい大浦湾の自然を損なう新基地建設工事の問題点を確認することができました。埋め立て工事を阻止するたたかいの必要性、そのたたかいをどのように進めるかを考えさせられました。
ホテルに戻りました。海に入ったり、デッキチェアでのんびりしたり、カヌーをしたり、お土産を買ったり、サイクリングをしたり、ホテルに隣接する米軍施設の様子を見たり、ここでも有意義な時間を過ごせました。
自治労vs林野労組のビーチバレー大会も盛り上がりました。どちらが勝利したのかは不明です。来年は自治労、林野、私鉄でリーグ戦をしたいところです。
夕食はBBQでした。楽しい時間が過ぎていきます。
このホテルも米軍の施設に隣接しており、ヘリの離発着が頻繁に繰り返されています。また、沖縄戦の際には日本軍による住民の殺害事件が起きた場所でもあります。楽しいだけでは済まない歴史や現実も心の中に留めておかなければなりません。
◆3日目
この日は南部戦跡での学習でした。
午前中はまず陸軍の野戦病院の分室が置かれていたアブチラガマで追体験です。松永さんにご案内をいただきました。
ヘルメットをかぶってガマに入りました。ここに収容されていた日比野さんのお話を中心に、沖縄戦の際にここで何が起きたのかについてまなびました。
松永さんが生前の日比野さんに「みんなアメリカとの戦争に勝てると思っていたのですか?」と聞いたところ、「そんなこと誰も思っていなかった。でも、戦争に勝てないなどと言えば特高警察に引っ張られて拷問されるから、誰も言えなかったんだ」とおっしゃっていたそうです。
昼食後はひめゆり資料館に行きました。献花し、黙とうしました。
沖縄市平和大使の子どもたちと一緒に資料館の普天間館長からのお話を聴き、宮良ルリさんの証言の映像を観ました。
宮良さんがはじめて日本兵の死を看取った際、その日本兵が「お母さん」と言ってこと切れたそうです。学校では「兵隊さんが死ぬときは天皇陛下万歳と言うんだ」と教えられていたのに、実際には兵士たちはお母さんや家族の名前を呼んでから亡くなっていったのだそうです。末端の兵士たちとその家族もまた政治家や軍部の始めた戦争の犠牲者だったということです。これを昔話で終わらせてはいけない時代になっています。
沖縄戦の後に、戦争で生命を奪われた人々の遺骨が納められていた魂魄の塔にも行きました。
具志堅隆松さんから遺骨収集についての講演を受けました。激戦地で出て来るのは日本兵の遺骨ばかり、アメリカ軍は自軍の戦死者の遺体は必ず収容していたとのことでした。那覇新都心では日本兵の遺骨が埋もれたまま再開発事業が進められました。「お国のために」と家族から引き離されて戦死し、その人たちの遺骨を踏みしだく形でカネもうけのための大規模商業施設が建設され、ほとんどの人が何も知らないままそこで買い物をしているということです。これが日本の現実です。
遺骨とともに出て来た砲弾の破片です。とても重いのでびっくりしました。
この日からの宿泊は「基地の街」コザにあるホテルです。分散会で3日間でまなんだことについて交流し、その後、夕食交流に入りました。
◆4日目
この日は最終日の平和行進に参加です。梅雨入り宣言がウソのような快晴で、暑いなかでたっぷり日焼けしました。
出発前の記念写真です。
ヒロジさんからの熱い檄にシュプレヒコールで応えます。
宜野湾市役所から普天間基地の周囲をまわる形で行進が行われました。
北まわりコースは、ヒロジさんや仲村未央さんを先頭に行進を続けました。沿道から地域のみなさんが手を振って応援してくれました。
いろんな労働組合や市民団体のみなさんが参加していました。平和友好祭のみんなもがんばってシュプレヒコールを繰り返しました。
宜野湾市海浜公園に到着後、「平和と暮らしを守る県民大会」が開催されました。沖縄県内選出の国会議員のみなさんを中心にあいさつに立ちました。
韓国から参加した仲間たちからも発言を受けました。平和を求める思いは同じです。
平和行進のたすきが鹿児島の仲間に引き継がれました。全国各地で新基地建設反対のたたかいを…!
ガンバローで県民大会を締めくくりました。みんな頑張りました。
ライカムのショッピングモールで昼食をとった後、沖縄市戦後史資料館(ひすとりーと)で「基地の街」の歴史についてまなびました。
「旅」の最後の夜の夕食はステーキです。
嘉手納基地のゲート前の「オーシャン」で2次会です。ヤッシーの感動的で素晴らしいライブを聴くことができました。
◆5日目
最終日は嘉手納基地の視察へ。「道の駅かでな」の展望台から基地の様子を確認しました。
3階にある資料館でも学習を深めることができました。
解団式を行った後、那覇空港に移動し、解散となりました。みなさん、お疲れ様でした。
有志で牧志公設市場で昼食を食べました。牧志公設市場は建て替えのために来月でいったん閉館し、仮設の市場で営業することになります。牧志公設市場は訪れるのは観光客がほとんどになってしまったとは言え、戦後の民衆の生活や活気や熱気の片りんを感じられる場所でもありました。新しい市場はどのようになるのでしょうか。「のうれんプラザ」のようになってしまうのでしょうか。
こんな光景を何とか残すことはできないのでしょうか。
過去の戦争でも、現代のまちづくりでも、そして米軍基地をめぐっても、民衆の思いや生活は後回しにされていることを感じた「旅」でした。こんな社会のあり方、政治のあり方を変えたい、そう思わずにはいられませんでした。
余談ですが、牧志公設市場での昼食の後、前日の平和行進の際に「お前らがデモ行進したら迷惑なんだよ!」と大音量で怒鳴り散らしていった右翼団体の車が、国際通りでこれまた大音量で「水戸黄門のテーマ」を流しながら通りかかるのを見かけました。「迷惑って、なんだろうね」(『北の国から』の菅原文太ふうに)
今回は各県実行委員会や労働組合から、自治労、林野労組、私鉄の25人の仲間が参加しました。
◆1日目
事務局は那覇空港に到着後、首里城へ。と言っても、観光に来たのではありません。この日の11時に沖縄地方の梅雨入りが発表され、雨が降っていました。
事前学習の一環として、首里城地下の旧日本軍の司令部壕跡に来ました。
最近の「オキナワの旅」ではここには来ていません。
那覇空港で15時に集合後、まずバスで嘉数高台に来ました。展望台から普天間基地を視察した後、沖縄戦についての学習も行いました。
展望台からの普天間基地の写真を撮るのを忘れていました。この日の訓練を終えたオスプレイがエプロンに駐機しているのが見えました。
国頭村のホテルで結団式と夕食交流です。団長から5日間の取り組みの成功に向けた呼びかけがありました。
◆2日目
この日はまず辺野古のキャンプシュワブのゲート前で行われた平和行進の出発式に参加しました。
平和行進の貫徹と新基地建設阻止を訴えるヒロジさんの檄が飛びます。
3日間の平和行進が出発しました。
平和友好祭はそのままゲート前にとどまり、座り込みに参加しました。
この写真は宜野湾市のキリスト者のみなさんです。美しいゴスペルを聞くことができました。
平和友好祭からも一人ずつ自己紹介しました。座り込みに「若いころに山中湖の中央祭典に参加した!」という方がいらっしゃって、力強い激励をいただきました。本当にありがとうございました。
辺野古の浜にも下りました。フェンスの向こうにキャンプシュワブや埋め立て工事が進む海が見えました。
午後は海上から大浦湾の状況を視察しました。雨予報でしたが、実際には晴れて美しい大浦湾の自然を損なう新基地建設工事の問題点を確認することができました。埋め立て工事を阻止するたたかいの必要性、そのたたかいをどのように進めるかを考えさせられました。
ホテルに戻りました。海に入ったり、デッキチェアでのんびりしたり、カヌーをしたり、お土産を買ったり、サイクリングをしたり、ホテルに隣接する米軍施設の様子を見たり、ここでも有意義な時間を過ごせました。
自治労vs林野労組のビーチバレー大会も盛り上がりました。どちらが勝利したのかは不明です。来年は自治労、林野、私鉄でリーグ戦をしたいところです。
夕食はBBQでした。楽しい時間が過ぎていきます。
このホテルも米軍の施設に隣接しており、ヘリの離発着が頻繁に繰り返されています。また、沖縄戦の際には日本軍による住民の殺害事件が起きた場所でもあります。楽しいだけでは済まない歴史や現実も心の中に留めておかなければなりません。
◆3日目
この日は南部戦跡での学習でした。
午前中はまず陸軍の野戦病院の分室が置かれていたアブチラガマで追体験です。松永さんにご案内をいただきました。
ヘルメットをかぶってガマに入りました。ここに収容されていた日比野さんのお話を中心に、沖縄戦の際にここで何が起きたのかについてまなびました。
松永さんが生前の日比野さんに「みんなアメリカとの戦争に勝てると思っていたのですか?」と聞いたところ、「そんなこと誰も思っていなかった。でも、戦争に勝てないなどと言えば特高警察に引っ張られて拷問されるから、誰も言えなかったんだ」とおっしゃっていたそうです。
昼食後はひめゆり資料館に行きました。献花し、黙とうしました。
沖縄市平和大使の子どもたちと一緒に資料館の普天間館長からのお話を聴き、宮良ルリさんの証言の映像を観ました。
宮良さんがはじめて日本兵の死を看取った際、その日本兵が「お母さん」と言ってこと切れたそうです。学校では「兵隊さんが死ぬときは天皇陛下万歳と言うんだ」と教えられていたのに、実際には兵士たちはお母さんや家族の名前を呼んでから亡くなっていったのだそうです。末端の兵士たちとその家族もまた政治家や軍部の始めた戦争の犠牲者だったということです。これを昔話で終わらせてはいけない時代になっています。
沖縄戦の後に、戦争で生命を奪われた人々の遺骨が納められていた魂魄の塔にも行きました。
具志堅隆松さんから遺骨収集についての講演を受けました。激戦地で出て来るのは日本兵の遺骨ばかり、アメリカ軍は自軍の戦死者の遺体は必ず収容していたとのことでした。那覇新都心では日本兵の遺骨が埋もれたまま再開発事業が進められました。「お国のために」と家族から引き離されて戦死し、その人たちの遺骨を踏みしだく形でカネもうけのための大規模商業施設が建設され、ほとんどの人が何も知らないままそこで買い物をしているということです。これが日本の現実です。
遺骨とともに出て来た砲弾の破片です。とても重いのでびっくりしました。
この日からの宿泊は「基地の街」コザにあるホテルです。分散会で3日間でまなんだことについて交流し、その後、夕食交流に入りました。
◆4日目
この日は最終日の平和行進に参加です。梅雨入り宣言がウソのような快晴で、暑いなかでたっぷり日焼けしました。
出発前の記念写真です。
ヒロジさんからの熱い檄にシュプレヒコールで応えます。
宜野湾市役所から普天間基地の周囲をまわる形で行進が行われました。
北まわりコースは、ヒロジさんや仲村未央さんを先頭に行進を続けました。沿道から地域のみなさんが手を振って応援してくれました。
いろんな労働組合や市民団体のみなさんが参加していました。平和友好祭のみんなもがんばってシュプレヒコールを繰り返しました。
宜野湾市海浜公園に到着後、「平和と暮らしを守る県民大会」が開催されました。沖縄県内選出の国会議員のみなさんを中心にあいさつに立ちました。
韓国から参加した仲間たちからも発言を受けました。平和を求める思いは同じです。
平和行進のたすきが鹿児島の仲間に引き継がれました。全国各地で新基地建設反対のたたかいを…!
ガンバローで県民大会を締めくくりました。みんな頑張りました。
ライカムのショッピングモールで昼食をとった後、沖縄市戦後史資料館(ひすとりーと)で「基地の街」の歴史についてまなびました。
「旅」の最後の夜の夕食はステーキです。
嘉手納基地のゲート前の「オーシャン」で2次会です。ヤッシーの感動的で素晴らしいライブを聴くことができました。
◆5日目
最終日は嘉手納基地の視察へ。「道の駅かでな」の展望台から基地の様子を確認しました。
3階にある資料館でも学習を深めることができました。
解団式を行った後、那覇空港に移動し、解散となりました。みなさん、お疲れ様でした。
有志で牧志公設市場で昼食を食べました。牧志公設市場は建て替えのために来月でいったん閉館し、仮設の市場で営業することになります。牧志公設市場は訪れるのは観光客がほとんどになってしまったとは言え、戦後の民衆の生活や活気や熱気の片りんを感じられる場所でもありました。新しい市場はどのようになるのでしょうか。「のうれんプラザ」のようになってしまうのでしょうか。
こんな光景を何とか残すことはできないのでしょうか。
過去の戦争でも、現代のまちづくりでも、そして米軍基地をめぐっても、民衆の思いや生活は後回しにされていることを感じた「旅」でした。こんな社会のあり方、政治のあり方を変えたい、そう思わずにはいられませんでした。
余談ですが、牧志公設市場での昼食の後、前日の平和行進の際に「お前らがデモ行進したら迷惑なんだよ!」と大音量で怒鳴り散らしていった右翼団体の車が、国際通りでこれまた大音量で「水戸黄門のテーマ」を流しながら通りかかるのを見かけました。「迷惑って、なんだろうね」(『北の国から』の菅原文太ふうに)