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2018年07月02日

「慰霊の日」の摩文仁

6月23日は73回目の「慰霊の日」でした。日本軍の牛島司令官と長参謀長が「自決」したのがこの日とされています(米軍の記録では6月22日)。
最高司令官の「自決」をもって日本軍の組織的戦闘が終結したとされていますが、牛島中将は「自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」という命令を残していました。
この日以降に掃討戦の過程で多くの人々が生命を奪われた事実を忘れるわけにはいきません。6月23日という「慰霊」の日付、そして「慰霊」の中心的な場所が摩文仁であることの問題点も問われなければなりません。
いずれにしても、「慰霊の日」の沖縄を知ることが出発点だと思い、6月22日~24日まで沖縄を訪れました。

「慰霊の日」の摩文仁
那覇空港に到着後、自転車を借りて南部方面に向かいます。
この日は民宿に泊まり、翌朝早くの出発に備えました。
夕陽に照らされた積乱雲が目前に広がります。あたりが暗くなると雲の中で雷が光るのが分かりました。

9時に就寝し、翌朝は3時に起床しました。
3時半に自転車で民宿を出発。真っ暗ななかを摩文仁方面に向かいます。
国道331号線沿いでも街灯がまったくないところが多く、満点の星空を見上げながら坂道の昇り降りを続けました。
73年前のこのあたりはおそらく絶えず照明弾が打ち上げられていたのではないでしょうか。

摩文仁の丘に着きましたが、やっぱり真っ暗でした。
最初の目的地は「黎明の塔」ですが、真っ暗で丘の上に登る階段がなかなか見つかりません。
アキラメかけた頃に地元紙の記者さんや自衛隊員の一群を見つけ、丘上への階段を発見できました。

「慰霊の日」の摩文仁
「黎明の塔」は沖縄守備軍の牛島司令官と長参謀長をまつっています(設置者は沖縄県遺族連合会)。
ここに沖縄に配備されている自衛隊の幹部が早朝に献花に訪れるのです。
参列者全員が制服を着ていますが、「私人として」の参拝なのだそうです。
抗議の声があるなかで批判を避けるためなのか、自衛隊員たちはこの後に沖縄県戦没者墓苑と「島守の塔」および島田知事および県職員の慰霊塔にも参拝していました。

「慰霊の日」の摩文仁
「慰霊の日」の摩文仁
自衛隊員たちが去った頃、本当の黎明が訪れました。

「慰霊の日」の摩文仁
「慰霊の日」の摩文仁
「慰霊の日」の摩文仁
「慰霊の日」の摩文仁
「慰霊の日」の摩文仁
早朝に参拝に訪れるのは南部の方が多い印象でした。
自衛隊幹部の「次の戦争に向けた決意」ではなく、民衆が生命を奪われる次の戦争を拒む祈りがささげられます。

「慰霊の日」の摩文仁
「慰霊の日」の摩文仁
「慰霊の日」の摩文仁
いくさによってその名前さえ残らない子どもたちがいました。

「慰霊の日」の摩文仁
女たちも戦禍に巻き込まれ、その名を奪われてしまいました。

「慰霊の日」の摩文仁
男たちも同様です。

「慰霊の日」の摩文仁
オジー、オバーたちも同じです。

同時に、「平和の礎」に亡くなった方の刻銘を拒む遺族がいることも忘れてはなりません。
故郷からはるか遠くの戦争で生命を奪われた朝鮮半島出身者の名前が、戦闘の責任者である日本軍の幹部と同じ場に刻まれること、さらに「大韓民国」「朝鮮民主主義人民共和国」と民族を分断する形での刻銘のあり方への抗議が込められています。

「慰霊の日」の摩文仁
韓国人慰霊碑では先生と子どもたちが学習の場を持っていました。

「慰霊の日」の摩文仁
米軍の戦死者の刻銘がある場所では、米軍がセレモニーを開いていました。
第3海兵遠征軍司令官と在日米軍沖縄地域調整官を兼ねるニコルソン中将が若い兵士に日米同盟の重要性や米軍基地を支える沖縄への感謝を説いていました。
沖縄で頻発する米軍や関係者による事件・事故への批判さえ受け付けようとしない司令官が沖縄への「感謝」を口にするなど、悪夢のようなものです。

「慰霊の日」の摩文仁
各県の慰霊碑があるあたりでは宗教者たちの祈りがささげられていました。

「慰霊の日」の摩文仁
「慰霊の日」の摩文仁
「近江の塔」です。軍国美談調の銘文が多いなかで、「近江の塔」の説明は簡潔ながら戦争に巻き込まれた沖縄県民に言及し、「戦争の空しさ、悲惨さ」を訴える内容です。

「慰霊の日」の摩文仁
慰霊式典の後、沖縄師範健児の塔に行きました。

「慰霊の日」の摩文仁
鉄血勤皇隊の一員だった大田元知事が隠れていた岩陰です。ここで火炎放射で亡くなった方もいたとのことです。
ここで、「健児の塔」にお兄さんの名前が刻まれているという方からお話をうかがい、若い世代への激励をいただきました。
ご自身も沖縄戦を生き延び、戦後は高校で教員としての道を歩まれたとおっしゃっていました。

「慰霊の日」の摩文仁
続いて、自転車で魂魄の塔に移動。
「東京の塔」を見たことがある人は少ないのではないでしょうか。

「慰霊の日」の摩文仁
魂魄の塔の隣にある「ひろしまの塔」前で開催された国際反戦集会に参加しました。
海勢渡豊さんらによるミニコンサート、高江住民の会のみなさんによる高江フラが披露されていました。フラが美しくて見とれてしまいました。文化活動って大事っすね。

「慰霊の日」の摩文仁
米軍の退役軍人で組織する「ベテランズ・フォー・ピース(VFP)」沖縄支部のダグラス・ラミスさんから発言です。
ラミスさんたちVFPのメンバーも、現役の頃は軍隊の一員として戦争に向かうことに疑問を持っていなかった、だから米軍の兵士たちが変わる可能性は大いにあるんだと訴えていました。

「慰霊の日」の摩文仁
韓国の仲間たちから米軍基地反対のたたかいの報告です。韓国の仲間たちの果敢なたたかいから多くをまなばなければなりません。

「慰霊の日」の摩文仁
屋外での集会でとにかく暑いので発言者も集会参加者もみんな日陰にいないと大変です。

「慰霊の日」の摩文仁
魂魄の塔には多くの花や飲み物が供えられていました。

各所で学徒隊として動員された人々の慰霊祭が行われていました。
「慰霊の日」の摩文仁
これは開南健児の塔です。

「慰霊の日」の摩文仁
ひめゆりの塔前の慰霊祭には多くの人が集まっていました。

「慰霊の日」の摩文仁
白梅の塔の慰霊祭では、校歌に続いて「ふるさと」が歌われていました。
同窓会長の中山きくさんが「体の動く限り活動を続ける」とおっしゃっていました。青年がその思いに応えなければなりません。

「慰霊の日」の摩文仁
伊原第1外科壕跡です。「ひめゆりの塔」に比べると訪れる人は多くはない、というよりほとんどいないでしょう。
遺族会の解散などで維持が困難になっている慰霊碑が少なくないそうです。
各県の慰霊碑でも、きちんと整備されているものもあれば、手が入らないまま碑文さえ読めないものもあります。
修学旅行で南部戦跡をめぐる学校も減少しているそうです。

「慰霊の日」の摩文仁
摩文仁の丘を遠望しました。沖縄戦は、そして「軍隊は民衆を守らなかった」という教訓は、時間の流れの彼方に忘れ去られようとしているのでしょうか。

「慰霊の日」の摩文仁
夕方は総合運動公園でFC琉球とアスルクラロ沼津の試合を観戦しました。キックオフの前に選手、スタッフ、観客全員で黙とうしました。
試合は後半途中から出場したMF朴利基選手の走り込みからのヘディングシュートで得た1点を、GK朴一圭選手を中心としたディフェンス陣の献身的な守備で守り切ったFC琉球が勝利し、J3の2位に浮上しました。アスルクラロのGK牲川選手がオーバーラップしている隙をついて朴一圭選手がパントキックでアスルクラロのゴールを狙うなど、面白いプレーも見られました。

暑いなかでの自転車での移動でヘトヘトになりましたが、「慰霊の日」からまなぶものは少なくありませんでした。事務局なりの追体験だったと思います。
6月に開催された「ヒロシマの旅」では、広島県実行委員会の仲間から「高齢化で被爆体験を話してくれる被爆者がほとんどいなくなっている」という状況を聴きました。
沖縄も同様の状況です。青年がどのようにこれからの反戦平和のたたかいを引き継ぎ、前進させるかを模索しなければなりません。


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