79年めの8月6日の広島にて

平和友好祭

2024年08月07日 00:01

被爆79年原水爆禁止世界大会広島大会が8月4日から6日にかけて開催されました。初日の開会総会には2200人が参加し、2日めの午前中は分科会で討論、交流が行われました。


8月4日午後3時半に、真夏の日差しの下を折鶴平和行進が出発しました。ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ、ノーモアフクシマ、ノーモアヒバクシャ、ノーモアウォーを訴えました。


市内を元気に行進した後、県立総合体育館で原水禁世界大会広島大会の開会総会が行われました。


8月5日午前中の「世界の核軍縮Ⅰ」分科会の討論の様子です。


被爆電車が走っていました。「貸切」になっていたので、平和学習に使われていたのでしょう。


午後は労働組合役員に借りていた物品を返却しに比治山の放射線影響研究所に行きました。オープンハウスの見学もさせていただきました。2025年に移転予定であり、この建物も来年で見納めになります。オープンハウスの様子も写真に撮らせていただいたのですが、スマホの機種変更をしたばかりで、データがうまくPCに移せないまま消えてしまいました。残念です。


オープンハウスでこの写真だけ残っていました。調査対象となった被爆者の被爆地点と放射線量を示した地図です。外側の円は爆心地から3キロメートル、内側は2キロメートルを示しています。爆心地から半径1キロメートル以内には生存者がほとんどいなかったことが分かる恐ろしい地図です。


さて、ここからの写真は8月6日のものです。午前中は原水禁世界大会の国際シンポジウムが行われました。核兵器廃絶に向けた第一歩のあり方を示す有意義な討論でした。午後は目先の用事を済ませた後、市内の被爆建物を見て回りました。上の写真は被爆橋梁の「京橋」です。広島駅前の猿猴橋が跡形もなくリニューアルされている一方、この京橋は被爆当時の様子をよく残しているのではないでしょうか。



福屋デパートです。現在も現役で使用されている頑丈な建築物です。被爆当時は物資の不足でデパートとしての機能は失われていたそうです。


広島県民のみなさんにはおなじみの福屋のテレビCMのテーマソングです。森山良子さんが歌っています。


本通り商店街のアンデルセンも被爆建物です。


続いて、袋町小学校にある資料館に来ました。




旧校舎の一部が残され、資料館になっています。被爆の実相をまなぶ上で重要な場所だと思いました。先生に引率された中学生たちが熱心に学習を続けていました。ところが、戦後の学校の再開、再建の展示を見ていた年輩の男性が「日本人はすごい」と言っているのが聞こえました。思わず、「被爆したのは日本人だけじゃないぞ」と言ってしまいました。原爆投下当時の広島市には多くの朝鮮半島出身者、中国をはじめアジアの人たち、そして連合国軍の捕虜もいました。町の復興や生活の再建は日本人だけによって行われたものではないはずです。
平和を祈り、反戦を誓い合う日の学習の場にさえ、戦争への道が口を開いて待っている、と感じたのは大げさでしょうか。それでも、心のモヤモヤが消えませんでした。


旧日本銀行広島支店です。現在はさまざまな展示やイベントが行われています。



内部は確かに昔の銀行のたたずまいです。被爆当時は頑丈な鉄扉、鉄窓のために大きな被害は免れたそうです。地下の頑丈な金庫の内部の現金も無事でした。


「広島県農業会原爆物故者慰霊碑」です。全国農団労の花束が捧げられていました。


夏の空ですね。この時間の広島市の気温は35度。暑いのですが、個人的にはあまり気になりません。


「広島ガス株式会社原爆犠牲者追憶之碑」の隣に意地悪ベンチを見つけました。8月6日に警察や行政が平和公園を制圧し、「慰霊」の主役が市民ではなくなっていることも重大な問題ですが、そもそもこんなベンチが置かれていることもどうなのかと思います。


「ヒロシマの旅」でも必ず立ち寄る「原爆犠牲ヒロシマの碑」です。


建設労働者の慰霊碑です。建設職場の仲間たちによって捧げられた折り鶴でいっぱいになっていました。


レストハウスです。原爆投下前は「燃料会館」と呼ばれていました。現在は1階に売店が入っています。地下が資料館になっています。ここで生き残った人がいたそうです。売店に地元紙の号外があったので、いただきました。


原爆の子の像です。


「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」に着きました。碑に向けて頭を垂れている男性がいました。原爆の被害は日本人だけが受けたのではありません。


原爆ドームを対岸から見たところです。


山口県から動員された機動隊の車です。原爆の被害さえ「被爆地出身」を騙る権力者に政治利用され、異を唱える者には弾圧の矛先が容赦なく向けられる時代になっています。



本川小学校の資料館に来ました。ここも袋町小学校と同様に旧校舎の一部が利用されています。




「ここがはだしのゲンに登場する学校です」と書かれています。いま、子どもたちの視界から「はだしのゲン」が排除されています。



誰もいない地下室で、かつて原爆資料館にあった被爆直後の広島のジオラマを一人で見つめていると、自分が何をすべきかをいやがおうでも考えさせられます。この後、年輩の男性と若い男性たちが下りてきました。職場の先輩と後輩のようでした。先輩が、一生懸命にこの展示の意味を語っていました。職場の後輩たちに平和の大切さを伝えようとしている様子に力をいただいたような気がしました。心の中で感謝を述べました。


被爆公衆トイレです。市民団体の調査で判明した被爆建物です。ちょっと利用させてもらいました。



学生たちの慰霊碑です。若い世代が原爆の犠牲になったことが分かります。


夜はとうろう流しに来ました。音楽が流れ、観光客向けのイベントになってしまったかのようです。


それでも、一つひとつのとうろうには素朴でシンプルな平和への願いがつづられています。イベント化しているのかも知れませんが、それでも大切な行事なのだと思いました。


この女性は原爆で亡くなった家族のお名前と平和のメッセージを書いてとうろうを流していました。ひいおじいちゃんの名前だそうです。
来年は被爆80年を迎えます。原水禁運動、平和友好祭運動の前進をどう勝ち取るかが重要な課題です。

ここより以下は8月14日に追記しました。


美空ひばりさんの「一本の鉛筆」という歌です。「第1回広島平和音楽祭」の参加曲とのことです。
一本の鉛筆があれば、「戦争はいやだ」「8月6日の朝」と私は書く…。
悲惨な戦争はもういやだという戦後の日本民衆の気持ちが素朴に表現された歌詞だと感じます。


リンドバーグの「Voice of Angel」という歌です。確か90年代、8月6日に広島で行われた平和コンサートで上演されています。リンドバーグと言えば名リリーフ藤川球児投手の登場テーマを思い出す阪神ファンの方が多いかも知れません。しかし、当時の青年たちにも反戦平和の願いが引き継がれていたことが、絶大な人気を誇った90年代を代表するバンドの曲に表現されていたのだと思います。


そして、「八月の歌」です。
「八月になるたびにヒロシマの名の下に平和を唱えるこの国アジアに何をつぐなってきた」
栗原貞子さんの「ヒロシマというとき」につらなる、被爆2世でもある浜田省吾さんの激烈な告発です。

関連記事