2020年11月07日
「第27回被戦地オキナワ青年の旅」に14人が参加
平和友好祭主催の「第27回被戦地オキナワ青年の旅」を10月31日から11月3日にかけて開催しました。
この「オキナワの旅」は本来は5・15平和行進にあわせて開催していますが、今年は「新型コロナウイルス」の影響で延期となっていました。
あらためて秋に設定した「オキナワの旅」には、14人の仲間が参加しました。「旅」の様子を写真を交えながら報告します。
◆10月31日(土)

上空から見た伊平屋島と伊是名島の美しい眺めです。
「本土」は秋深まる時期ですが、沖縄にはまだまだ夏の日差しが残っています。

摩文仁の丘も見えました。
上空から見ると、首里撤退後の日本軍がきわめて狭い範囲に布陣せざるを得なかったことが分かります。それでも残存する部隊間の連携、連絡に困難をきたしていたわけですから、組織的な戦闘は事実上不可能になっていたのではないでしょうか。
那覇空港で集合後、バスに乗車し、国道58号線を那覇軍港、牧港補給区を通りながら嘉数高台に向かいました。

公園の階段下にある、沖縄戦の際の弾痕が残された嘉数集落のコンクリート塀を見ています。
嘉数の戦いの際に、米軍が制圧・占領を目指した嘉数集落の住民はその半数以上が命を落とす結果となりました。

展望台から普天間基地や沖縄国際大学の位置を確認しました。
エプロンにはオスプレイが駐機しているのが見えました。

朝鮮半島出身の沖縄戦の戦没者を偲ぶ「青丘の塔」です。
ここは翌日の「平和の礎」での学習にもつながっています。

日本軍のトーチカ跡です。
嘉数高台を後にして、バスで宿泊地であるコザに向かいました。途中でキャンプ瑞慶覧やライカムのイオンモールの様子を見ました。

ホテルの会議室で結団式です。団長のあいさつ、ビデオ学習、「旅」の日程を確認しました。
結団式の後、そのまま夕食交流となりました。今回は「新型コロナウイルス」の感染防止ということで、ソーシャルディスタンスを意識した会議と食事となりました。
◆11月1日(日)

沖縄戦の後、普天間基地が建設される前の宜野湾の様子を知るために、宜野湾市立博物館に行きました。

かつての宜野湾並松(じのーんなんまち)の姿がよく分かりました。
沖縄戦前の宜野湾には1万5千人の人々が住む生活の場でした。
「基地が先にあり、そこに後から人々が来た」のではなく、先に人々とその暮らしがあったのです。

沖縄国際大学で2004年8月13日に海兵隊ヘリが墜落した事故についてまなびました。
宜野湾市出身の沖縄バスのガイドの仲本さんが、ヘリ墜落の当日の様子を話してくださいました。

昼前からは南部戦跡での学習です。ひめゆりの塔の前で真剣に仲本さんの説明を聞いています。

証言員の方の講話を聴きました。戦争体験の継承は平和友好祭にとっても重要な課題です。
この日のひめゆり資料館では、私たち以外にも修学旅行の高校生への講話が多く入っていました。
民衆を巻き込み、多くの犠牲を出した沖縄戦の実相から戦争の悲惨さについてまなぼうとする姿勢が共有されているのだと感じました。
しかし、資料館の前のお土産屋さんが閉鎖されていたり、営業しているお土産屋さんも商品が少なかったり、「新型コロナウイルス」の影響を感じざるを得ないのもまた事実でした。

「魂魄の塔」です。かつてここに納められていた3万5千柱の遺骨のほとんどは、現在は摩文仁の納骨堂に移葬されています。仲本さんからその問題点についてまなびました。

日本軍の敗残兵と、軍に見放された人々が最後にたどり着いた海岸です。この海岸を素足同然のままで逃げまどう困難はいかばかりだったでしょうか。
軍隊は民衆を守らなかったという教訓をしっかり継承しなければなりません。

平和友好祭の「旅」としては久しぶりに「平和の礎」と県立平和祈念資料館に来ました。
朝鮮半島出身の戦没者の遺族の多くが「礎」への刻銘を拒んでいるのはなぜかについて考えるなかから、「礎」の積極面と問題点について確認しました。

資料館見学組と慰霊碑見学組に分かれました。各都道府県の碑の状況や碑文の内容の違いからもまなべることがあります。
真摯に平和を訴える内容、軍国美談調の内容、そして碑文がすでに読めなくなっているものなど、さまざまです。


「鉄血勤皇隊」で動員されていた大田昌秀元沖縄県知事が学習たちと最後に隠れていたガマや、「沖縄師範健児の塔」に行きました。
摩文仁の丘までは来ても、この「健児の塔」まで来る人は多くないようです。

南部戦跡での学習の最後はアブチラガマでの追体験です。
ひめゆり資料館での学習を踏まえて、具志堅さんの案内でガマに入りました。

ガマの内部は見学しやすいように整備が進んでいます。こうした整備が進むことへの賛否があるのではないかと感じます。
事務局が23年前にアブチラガマに初めて来たときは、バスが停められるだけの駐車場で、民家の裏にポッカリとガマの入口があるだけでした。

追体験を終え、ガマで亡くなった人々に黙とうをささげ、戦争を繰り返させないことを誓いました。

追体験が終わりました。夕方の日差しがまだ明るい75年後の世界に戻ります。
バスがホテルに到着する直前、これが最後の平和ガイドとなる沖縄バスのバスガイドの仲本さんがご自身の若い頃の体験について初めて語ってくださいました。仲本さんが、会社の指導や「本土」からの利用客の苦情に負けずに反戦平和について語り続けた理由の一端を知ることができました。頭をガツンと殴られたような気持ちでした。
もう10年ほどにもなろうかという仲本さんと平和友好祭のおつきあいですが、今年の「オキナワの旅」を行わなければ、仲本さんの経験も知ることがないままになってしまうところでした。そして、今回は参加がかなわなかった私鉄の仲間たちにも聞いてほしかった体験でした。
「自粛」がいかに青年から学習と成長の機会を奪うものかを思い知らされました。「来年が…」とは言っても、「今年」の「いま」しか聞けなかった経験があるのです。

夕食は、昼間の学習を振り返りながらコザの街でステーキを食べました。
みんな普段はステーキを食べる機会があまりないので、おいしくいただきました。
◆11月2日(月)
コザのホテルをチェックアウトし、北部に向かいました。

まず、「道の駅かでな」から米空軍普天間基地を視察しました。あまりの大きさへの驚きを語る仲間もいました。
F15戦闘機部隊は日米合同演習で九州に出払っており、いつもより静かな嘉手納基地でした。

辺野古では漁港わきのテントでたたかいの課題についてのお話を聞きました。

フェンスの向こうでは美しい海の埋め立てが進められています。


「新型コロナウイルス」の感染防止として、ゲート前での座り込みへの県外からの参加は見合わせるよう指示されています。
このため、私たちはわんさか大浦パークで昼ごはんを食べ、午後は船で海上から大浦湾やキャンプシュワブの現状を視察しました。
新基地建設反対のたたかいを全国の職場や地域で広げなければなりません。

ホテルにチェックインする頃にはもう夕陽もずいぶん傾いていました。
米軍の保養施設が隣接するホテルということで、昼間とは違った形で基地問題についてまなぶ機会となりました。

「自主学習」の時間を使って、徳島の仲間たちはレンタカーで辺戸岬の祖国復帰闘争碑まで出かけました。貴重な経験です。

夕食はホテルのテラスでBBQです。みんなすっかり仲良くなりました。

おなかがいっぱいになった後は、ビーチで花火をしました。名残惜しい時間が過ぎていきます。
BGMはフジファブリックの「若者のすべて」というところでしょうか。
◆11月3日(火・休)

那覇空港に向けて出発です。飛び石連休ということでホテルにはお客さんの姿もたくさん見られました。

那覇空港で解団式です。一人ずつ「旅」の感想を報告し合いました。3泊4日はあっという間でした。またみんなで再開したい仲間たちです。
青年には「旅」をさせよ。「新型コロナウイルス」や仕事に追われる職場をめぐって困難な状況下ですが、参加者を送り出した労組や職場に還元されるものは大きいはずです。

解散後、飛行機まで時間のある仲間で牧志公設市場まで昼ご飯を食べに行きました。
公設市場は新しい建物を建設中で、仮の建物で営業中です。

工事中の公設市場です。完成予想図を見る限りでは、かつての趣と活気を望むのは難しい印象です。「のうれんプラザ」の現状を思うと複雑な気持ちです。
旭橋のバスターミナルも同様ですが、行政と大資本主導の再開発事業のセンスの悪さはどうにかならないものなのでしょうか。

民衆の生活の匂いのするまちぐゎーを何とか残したいものです。
この後、事務局は延伸されたゆいレールに乗って浦添市の前田高地まで事後学習に向かいました。ゆいレールは「てだこ浦西」まで延伸されています。前田高地の戦闘は数年前に「ハクソーリッジ」という映画になっていました。
沖縄戦の主戦線は、読谷・嘉手納・北谷の米軍上陸→嘉数~西原での戦闘→前田高地での戦闘→首里戦線→日本軍司令部の南部撤退→南部戦線という経過をたどっています。伊江島や北部での戦闘、座間味諸島でのいわゆる「集団自決」も忘れてはいけません。

浦添城址から望む嘉数高台と普天間基地です。

墓地の中を探し回って見つけた「平和の碑」です。前田高地には北海道の旭川の連隊が配置されていたようです。
ただし、碑文には地域の人々の犠牲には触れられていません。
旧日本軍を顕彰するだけで、戦闘の犠牲になった沖縄の人々を振り返る視点がないことは、
たとえば5年前の「戦争法制」反対運動で、「自衛隊が戦場で殺したり殺されたりするのに反対」というばかりで、
実際に中東やアフリカなどの戦場で多くの人々が犠牲になっている現実が顧みられていない状況と通底するものだと言えます。

前田高地の崖は急峻です。ここをよじ登って丘陵の制圧を目指すアメリカ兵の犠牲もまた多かったのでしょう。

反対斜面には日本軍の洞窟陣地が多く残されていますが、いずれも入ることはできません。
上の写真の壕は「カンパン壕」と呼ばれ、内部にカンパンなど日本軍の食料が貯蔵されていたそうです。
米軍には「前田高地の日本軍は完璧な反斜面陣地を駆使していた」という記録が残っているそうです。

すぐ上空を訓練から普天間基地に戻る海兵隊のヘリコプターが低空で飛び去ります。
乗っている兵士たちは上空から市街地を監視しています。カメラを向けた事務局にも気付いたようでした。
あるベトナム戦争の映画で、ヘリに乗った米軍の兵士が機関銃でベトナムの人々を銃撃し、「Get Some!」と繰り返すシーンがあります。戦場では、米軍により今も同じ光景が繰り返されているのでしょう。
「基地のない沖縄」は、沖縄のたたかいだけでは実現できません。私たちがそれぞれの職場や地域から、この国の政治、経済、社会を問うたたかいです。
この「オキナワの旅」は本来は5・15平和行進にあわせて開催していますが、今年は「新型コロナウイルス」の影響で延期となっていました。
あらためて秋に設定した「オキナワの旅」には、14人の仲間が参加しました。「旅」の様子を写真を交えながら報告します。
◆10月31日(土)
上空から見た伊平屋島と伊是名島の美しい眺めです。
「本土」は秋深まる時期ですが、沖縄にはまだまだ夏の日差しが残っています。
摩文仁の丘も見えました。
上空から見ると、首里撤退後の日本軍がきわめて狭い範囲に布陣せざるを得なかったことが分かります。それでも残存する部隊間の連携、連絡に困難をきたしていたわけですから、組織的な戦闘は事実上不可能になっていたのではないでしょうか。
那覇空港で集合後、バスに乗車し、国道58号線を那覇軍港、牧港補給区を通りながら嘉数高台に向かいました。

公園の階段下にある、沖縄戦の際の弾痕が残された嘉数集落のコンクリート塀を見ています。
嘉数の戦いの際に、米軍が制圧・占領を目指した嘉数集落の住民はその半数以上が命を落とす結果となりました。

展望台から普天間基地や沖縄国際大学の位置を確認しました。
エプロンにはオスプレイが駐機しているのが見えました。

朝鮮半島出身の沖縄戦の戦没者を偲ぶ「青丘の塔」です。
ここは翌日の「平和の礎」での学習にもつながっています。
日本軍のトーチカ跡です。
嘉数高台を後にして、バスで宿泊地であるコザに向かいました。途中でキャンプ瑞慶覧やライカムのイオンモールの様子を見ました。

ホテルの会議室で結団式です。団長のあいさつ、ビデオ学習、「旅」の日程を確認しました。
結団式の後、そのまま夕食交流となりました。今回は「新型コロナウイルス」の感染防止ということで、ソーシャルディスタンスを意識した会議と食事となりました。
◆11月1日(日)
沖縄戦の後、普天間基地が建設される前の宜野湾の様子を知るために、宜野湾市立博物館に行きました。
かつての宜野湾並松(じのーんなんまち)の姿がよく分かりました。
沖縄戦前の宜野湾には1万5千人の人々が住む生活の場でした。
「基地が先にあり、そこに後から人々が来た」のではなく、先に人々とその暮らしがあったのです。
沖縄国際大学で2004年8月13日に海兵隊ヘリが墜落した事故についてまなびました。
宜野湾市出身の沖縄バスのガイドの仲本さんが、ヘリ墜落の当日の様子を話してくださいました。
昼前からは南部戦跡での学習です。ひめゆりの塔の前で真剣に仲本さんの説明を聞いています。
証言員の方の講話を聴きました。戦争体験の継承は平和友好祭にとっても重要な課題です。
この日のひめゆり資料館では、私たち以外にも修学旅行の高校生への講話が多く入っていました。
民衆を巻き込み、多くの犠牲を出した沖縄戦の実相から戦争の悲惨さについてまなぼうとする姿勢が共有されているのだと感じました。
しかし、資料館の前のお土産屋さんが閉鎖されていたり、営業しているお土産屋さんも商品が少なかったり、「新型コロナウイルス」の影響を感じざるを得ないのもまた事実でした。
「魂魄の塔」です。かつてここに納められていた3万5千柱の遺骨のほとんどは、現在は摩文仁の納骨堂に移葬されています。仲本さんからその問題点についてまなびました。
日本軍の敗残兵と、軍に見放された人々が最後にたどり着いた海岸です。この海岸を素足同然のままで逃げまどう困難はいかばかりだったでしょうか。
軍隊は民衆を守らなかったという教訓をしっかり継承しなければなりません。
平和友好祭の「旅」としては久しぶりに「平和の礎」と県立平和祈念資料館に来ました。
朝鮮半島出身の戦没者の遺族の多くが「礎」への刻銘を拒んでいるのはなぜかについて考えるなかから、「礎」の積極面と問題点について確認しました。
資料館見学組と慰霊碑見学組に分かれました。各都道府県の碑の状況や碑文の内容の違いからもまなべることがあります。
真摯に平和を訴える内容、軍国美談調の内容、そして碑文がすでに読めなくなっているものなど、さまざまです。
「鉄血勤皇隊」で動員されていた大田昌秀元沖縄県知事が学習たちと最後に隠れていたガマや、「沖縄師範健児の塔」に行きました。
摩文仁の丘までは来ても、この「健児の塔」まで来る人は多くないようです。
南部戦跡での学習の最後はアブチラガマでの追体験です。
ひめゆり資料館での学習を踏まえて、具志堅さんの案内でガマに入りました。
ガマの内部は見学しやすいように整備が進んでいます。こうした整備が進むことへの賛否があるのではないかと感じます。
事務局が23年前にアブチラガマに初めて来たときは、バスが停められるだけの駐車場で、民家の裏にポッカリとガマの入口があるだけでした。
追体験を終え、ガマで亡くなった人々に黙とうをささげ、戦争を繰り返させないことを誓いました。
追体験が終わりました。夕方の日差しがまだ明るい75年後の世界に戻ります。
バスがホテルに到着する直前、これが最後の平和ガイドとなる沖縄バスのバスガイドの仲本さんがご自身の若い頃の体験について初めて語ってくださいました。仲本さんが、会社の指導や「本土」からの利用客の苦情に負けずに反戦平和について語り続けた理由の一端を知ることができました。頭をガツンと殴られたような気持ちでした。
もう10年ほどにもなろうかという仲本さんと平和友好祭のおつきあいですが、今年の「オキナワの旅」を行わなければ、仲本さんの経験も知ることがないままになってしまうところでした。そして、今回は参加がかなわなかった私鉄の仲間たちにも聞いてほしかった体験でした。
「自粛」がいかに青年から学習と成長の機会を奪うものかを思い知らされました。「来年が…」とは言っても、「今年」の「いま」しか聞けなかった経験があるのです。
夕食は、昼間の学習を振り返りながらコザの街でステーキを食べました。
みんな普段はステーキを食べる機会があまりないので、おいしくいただきました。
◆11月2日(月)
コザのホテルをチェックアウトし、北部に向かいました。
まず、「道の駅かでな」から米空軍普天間基地を視察しました。あまりの大きさへの驚きを語る仲間もいました。
F15戦闘機部隊は日米合同演習で九州に出払っており、いつもより静かな嘉手納基地でした。
辺野古では漁港わきのテントでたたかいの課題についてのお話を聞きました。
フェンスの向こうでは美しい海の埋め立てが進められています。

「新型コロナウイルス」の感染防止として、ゲート前での座り込みへの県外からの参加は見合わせるよう指示されています。
このため、私たちはわんさか大浦パークで昼ごはんを食べ、午後は船で海上から大浦湾やキャンプシュワブの現状を視察しました。
新基地建設反対のたたかいを全国の職場や地域で広げなければなりません。
ホテルにチェックインする頃にはもう夕陽もずいぶん傾いていました。
米軍の保養施設が隣接するホテルということで、昼間とは違った形で基地問題についてまなぶ機会となりました。

「自主学習」の時間を使って、徳島の仲間たちはレンタカーで辺戸岬の祖国復帰闘争碑まで出かけました。貴重な経験です。
夕食はホテルのテラスでBBQです。みんなすっかり仲良くなりました。
おなかがいっぱいになった後は、ビーチで花火をしました。名残惜しい時間が過ぎていきます。
BGMはフジファブリックの「若者のすべて」というところでしょうか。
◆11月3日(火・休)
那覇空港に向けて出発です。飛び石連休ということでホテルにはお客さんの姿もたくさん見られました。
那覇空港で解団式です。一人ずつ「旅」の感想を報告し合いました。3泊4日はあっという間でした。またみんなで再開したい仲間たちです。
青年には「旅」をさせよ。「新型コロナウイルス」や仕事に追われる職場をめぐって困難な状況下ですが、参加者を送り出した労組や職場に還元されるものは大きいはずです。
解散後、飛行機まで時間のある仲間で牧志公設市場まで昼ご飯を食べに行きました。
公設市場は新しい建物を建設中で、仮の建物で営業中です。
工事中の公設市場です。完成予想図を見る限りでは、かつての趣と活気を望むのは難しい印象です。「のうれんプラザ」の現状を思うと複雑な気持ちです。
旭橋のバスターミナルも同様ですが、行政と大資本主導の再開発事業のセンスの悪さはどうにかならないものなのでしょうか。
民衆の生活の匂いのするまちぐゎーを何とか残したいものです。
この後、事務局は延伸されたゆいレールに乗って浦添市の前田高地まで事後学習に向かいました。ゆいレールは「てだこ浦西」まで延伸されています。前田高地の戦闘は数年前に「ハクソーリッジ」という映画になっていました。
沖縄戦の主戦線は、読谷・嘉手納・北谷の米軍上陸→嘉数~西原での戦闘→前田高地での戦闘→首里戦線→日本軍司令部の南部撤退→南部戦線という経過をたどっています。伊江島や北部での戦闘、座間味諸島でのいわゆる「集団自決」も忘れてはいけません。
浦添城址から望む嘉数高台と普天間基地です。
墓地の中を探し回って見つけた「平和の碑」です。前田高地には北海道の旭川の連隊が配置されていたようです。
ただし、碑文には地域の人々の犠牲には触れられていません。
旧日本軍を顕彰するだけで、戦闘の犠牲になった沖縄の人々を振り返る視点がないことは、
たとえば5年前の「戦争法制」反対運動で、「自衛隊が戦場で殺したり殺されたりするのに反対」というばかりで、
実際に中東やアフリカなどの戦場で多くの人々が犠牲になっている現実が顧みられていない状況と通底するものだと言えます。
前田高地の崖は急峻です。ここをよじ登って丘陵の制圧を目指すアメリカ兵の犠牲もまた多かったのでしょう。
反対斜面には日本軍の洞窟陣地が多く残されていますが、いずれも入ることはできません。
上の写真の壕は「カンパン壕」と呼ばれ、内部にカンパンなど日本軍の食料が貯蔵されていたそうです。
米軍には「前田高地の日本軍は完璧な反斜面陣地を駆使していた」という記録が残っているそうです。
すぐ上空を訓練から普天間基地に戻る海兵隊のヘリコプターが低空で飛び去ります。
乗っている兵士たちは上空から市街地を監視しています。カメラを向けた事務局にも気付いたようでした。
あるベトナム戦争の映画で、ヘリに乗った米軍の兵士が機関銃でベトナムの人々を銃撃し、「Get Some!」と繰り返すシーンがあります。戦場では、米軍により今も同じ光景が繰り返されているのでしょう。
「基地のない沖縄」は、沖縄のたたかいだけでは実現できません。私たちがそれぞれの職場や地域から、この国の政治、経済、社会を問うたたかいです。
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