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2023年08月30日

差別主義団体の集会への「利用制限」を求める共同声明の紹介

排外主義者による横網町公園の「朝鮮人犠牲者追悼碑」前での9月1日の「集会」の開催にあたり、開催を認めないよう「利用制限」を東京都に訴える共同声明が発表されました。以下にその声明を紹介します。

■東京都は「慰霊の公園」での死者への冒涜を阻止してください
-朝鮮人犠牲者追悼碑前でのヘイト集会に「利用制限」適用を

 今年は1923年9月1日に起きた関東大震災から100年です。この震災は、約10万5000人の死者・行方不明者を出すという歴史に残る大惨事になりました。
 震災直後には、「朝鮮人が放火をしている」「井戸に毒を入れている」といった流言を信じた民衆と軍隊が朝鮮人を虐殺しました。警察もまた流言を拡散しました。
 内閣府中央防災会議の専門調査会報告「1923関東大震災【第2編】」は、これについて「自然災害がこれほどの規模で人為的な殺傷行為を誘発した例は日本の災害史上、他に確認できず、大規模災害時に発生した最悪の事態として、今後の防災活動においても念頭に置く必要がある」と指摘し、その背景に民族差別があったことを指摘しています。つまりこの事件は、日本近現代史上最悪のヘイトクライムだったのです。
 震災後、東京市は震災の死者を悼む場として横網町公園を開園しました。この公園は、戦後は東京大空襲の死者をも悼む場となりました。同公園のホームページが「慰霊と継承の公園」と定義しているとおり、中央にある慰霊堂の周辺に、いくつもの追悼・鎮魂のモニュメントが置かれています。その中には、虐殺された朝鮮人を悼む「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」もあります。
 震災100年となる今年の9月1日は、横網町公園にとって例年にも増して特別な日です。慰霊堂では都主催の法要が行われ、関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑の前では、午前には日本の市民が主体となった朝鮮人犠牲者追悼式典が、午後には在日朝鮮人主体の同胞追悼会が行なわれます。
 ところが今年、差別主義団体「そよ風」が、同日の夕方4時半から「真実はここにある! 関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊祭」と称する集会を、しかも朝鮮人犠牲者追悼碑の前で行うことを宣言しました。私たちは、これは許しがたい最悪の死者への冒涜であり、行動そのものが民族差別であると考えます。
 彼らは2017年以降、毎年9月1日に、この追悼碑から30メートルほど離れた場所で「関東大震災石原町犠牲者慰霊祭」と称する集会を開いています。そこでは、朝鮮人が暴動・放火・強姦を行ったという当時の流言を「事実だ」とする虚偽の主張を唱え、「犯人は不逞朝鮮人」「自衛行動や制圧行動(虐殺のこと)は正当な行為」といった発言を繰り返し、ときには巨大な拡声器を外に向け、こうした発言を公園内に響かせたりしてきました。
 この集会には、ヒトラーを崇拝するネオナチ活動家、現場責任者として関与したデモの参加者の発言が朝鮮人の殺害を煽動したなどとして東京都によって繰り返しヘイトスピーチと認定されているレイシスト活動家、ヘイト街宣によって裁判所から対象周辺での街宣禁止の仮処分を受けた人物たちが参加してきました。
 「そよ風」は、在特会(在日特権を許さない市民の会)に近い団体として2009年に結成されました。そのブログには、朝鮮人に対する露骨な差別表現が散見されます。
 東京都は、2020年に、「そよ風」の横網町公園での集会の言動をヘイトスピーチとして認定しています。この認定には、東京都が「適切な措置」をとるべきという人権審査会の「意見」も盛り込まれました。
 関東大震災時に「不逞朝鮮人」が暴動・放火・強姦を行ったのだ、自警団の虐殺は「正当な行為」だったのだと主張する団体が、朝鮮人の殺害を煽動するような人々も集めて、「朝鮮人を慰霊する」と嘯いて集会を開く。しかも「慰霊の日」である9月1日に、「慰霊の公園」の中で、さらに彼ら自身が撤去を要求している朝鮮人犠牲者追悼碑の前で――。
 これはヘイトクライムの犠牲となった死者たちに対する、あからさまな嘲笑であり、冒涜です。集会自体が「東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現を目指す条例」(オリンピック条例)が定めるヘイトスピーチ=「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」に相当すると、私たちは考えます。「言動」とは「言葉と行い」を指すからです。
 同条例では、ヘイトスピーチが行われる蓋然性が高く、それに起因して施設の安全な管理に支障をきたす蓋然性が高い場合に、施設の「利用制限」ができると定めています。
 「慰霊の公園」で公然と死者を冒涜すること自体が、横網町公園の「慰霊」という機能に支障をきたし、慰霊のために公園を訪れる人々に対する精神的暴力となります。私たちは、施設管理者たる東京都建設局公園緑地部が「利用制限」の判断を下すべき時だと考えます。少なくとも、条例に基づいて人権審査会に諮問し、その意見を聴取すべきです。
 東京都は、「慰霊の公園」での死者への嘲笑と冒涜を許さないでください。
 ヘイトクライムの犠牲者を悼む場でのヘイトスピーチ集会を認めないでください。
2023年8月29日
呼びかけ人
加藤直樹(ノンフィクション作家)
坂手洋二(劇作家、演出家)
中沢けい(小説家、法政大学教授)

賛同人
青木有加(弁護士)
明戸隆浩(社会学者)
有田芳生(ジャーナリスト)
飯山由貴(美術家・多摩美術大学非常勤講師)
池田賢太(弁護士・札幌弁護士会)
石坂浩一(立教大学兼任講師)
伊藤朝日太郎(弁護士)
内田雅敏(弁護士)
内海愛子(恵泉女学園大学名誉教授)
岡本厚(前岩波書店社長)
小野沢あかね(立教大学教授)
魁生由美子(愛媛大学教授)
郭基煥(大学教員)
加藤圭木(一橋大学大学院社会学研究科准教授)
金井真紀(文筆家・イラストレーター)
上瀧浩子(弁護士)
河かおる(滋賀県立大学教員)
木村元彦(ノンフィクションライター)
木村友祐(小説家)
金富子(東京外国語大学名誉教授)
清末愛砂(室蘭工業大学大学院教授)
金竜介(弁護士)
具良鈺(弁護士)
小林ふみ子(法政大学教授)
空野佳弘(弁護士)
辛淑玉(のりこえネット共同代表)
高貝亮(弁護士)
高橋哲哉(哲学者)
田中宏(一橋大名誉教授)
田中正敬(専修大学教授)
張界満(弁護士)
寺中誠(東京経済大学教員)
寺脇研(映画評論家)
戸塚悦朗(弁護士)
殿平善彦(一乗寺住職)
外村大(東京大学教員)
仲岡しゅん(弁護士)
樋口直人(社会学者)
穂積剛(弁護士)
浜田桂子(絵本作家)
原田學植(弁護士)
藤井誠二(ノンフィクションライター)
藤野裕子(早稲田大学教授)
二木啓孝(ジャーナリスト)
前川喜平(現代教育行政研究会代表)
松谷信司(「キリスト新聞」編集長)
森川文人(弁護士)
宮下萌(弁護士)
町山広美(放送作家)
師岡康子(弁護士)
前田朗(東京造形大学名誉教授)
前田和男(ノンフィクション作家)
山口二郎(法政大学教授)
山崎雅弘(戦史・紛争史研究家)
吉井正明(兵庫県弁護士会)
若森資朗(のりこえネット共同代表) (56人、アイウエオ順・敬称略)

声明は以上です。
東京都に「利用制限」を求める意味について、ある方のSNSでの分析を以下に紹介します。

極右「そよ風」は朝鮮人虐殺の存在は認めつつ「6000人は多すぎる、二百数十人だ」と称して「真実の慰霊祭」を「朝鮮人犠牲者慰霊碑」の前で行うと公言。実に狡猾。
ただし「そよ風」の本当の意図は、①「そよ風」慰霊祭に対し実力阻止行動がなされること。②そして東京都が「喧嘩両成敗」の判断を下し、朝鮮人犠牲者慰霊碑前での異例集会を一切禁止すること。つまり②の呼び水として、①を目論んでいる。
だから「そよ風」のシナリオに決して乗ってはいけない。挑発に乗って、実力阻止に向かってはいけない。

以上の指摘は的を得ていると思います。それにしても、極右団体による「自作自演」が心配です。


9月1日からは「福田村事件」の映画が公開されます。多くの人が映画館に足を運ぶことを期待します。
  


Posted by 平和友好祭 at 15:43Comments(0)国際連帯政治問題

2023年08月29日

関東大震災における朝鮮人虐殺の実相をまなぶ

今年9月1日で、相模湾を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震とその後の社会的な混乱のなかで10万5千人の死者・行方不明者が発生した関東大震災の発生から100年を迎えます。
大地震の発生の直後から、被災地や周辺地域で「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が暴動を起こした」といった流言やデマが広がり、軍隊、警察、「自警団」によって6千人とも言われる朝鮮人が虐殺されました。中国人も700人以上が殺害され、福田村事件のように朝鮮人と間違われた日本人も虐殺の対象となりました。さらに「亀戸事件」「甘粕事件」のように労働運動の活動家、社会主義者や無政府主義者が殺害されました。
ちなみに、東京大学情報学環の橋元良明教授によると、「流言」とは(1)実態を持つある人物や組織、事象をめぐる、(2)パーソナルコミュニケーション=口コミやネットによる、(3)私的で、(4)責任の所在が明らかでない、(5)一過性の、(6)未確認に、広がっていく情報とのことです。「デマ」は、「デマゴギー」という言葉からも分かるように、誰かがウソだと分かっていて意図的に広げるものです。ただし、デマを本当だと信じて広める人もいるので、デマも広い意味では流言に含まれるという解釈もあるとのことです。

朝鮮人虐殺を隠蔽・矮小化したい勢力が、朝鮮人虐殺の真相を明らかにしようとする市民の運動への攻撃を強めています。大震災と虐殺事件が発生してから50年となる1973年以降、9月1日に開催される追悼式典に歴代の都知事名での追悼文が必ず寄せられていましたが、2017年以降は小池都政の下でそれがなくなってしまっています。
平和友好祭では過去の歴史における日本の「加害」の事実をまなぶことを重要視しています。関東大震災の朝鮮人虐殺の事実を若い世代がまなぶことが必要です。8月24日(木)午後にフィールドワークを行いました。


まず、14時に両国の横網町公園に集合しました。
1922年に東京市が陸軍被服廠跡地を買収し、公園の造成を進めていたところに関東大震災が発生しました。まだ空き地だったために周辺から多くの人々が避難したものの、火災により3万8千人もの犠牲者が出た場所です。その後、この場所が1930年9月1日に横網公園として開園し、翌年には復興記念館が完成しました。
今回は在日本朝鮮青年同盟の仲間の案内で、朝鮮大学校の研究員の李豊海さんから説明を受けながらの学習となりました。今回の投稿内容についても、その多くを李豊海さんの説明・解説を参考にしています。




公園内の復興記念館のわきには、震災時の火災の高熱で溶けた鉄や焼け残った自動車のフレームが展示されています。


1973年9月29日に除幕式が行われた「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」は、朝鮮人虐殺の事実を記して日本人が建立した最初の追悼碑という意義があります。
関東大震災50年にあたり、日朝協会の渡辺佐平会長、演劇の演出家であり俳優の千田是也、仏教徒・平和運動家の壬生照順、そして東京都議会の全会派の代表により実行委員会が結成され、この追悼碑が建立されました。
しかし、碑文に虐殺を実行した主体が明記されなかったという限界もあります。とくに、軍隊と警察という官憲が虐殺行為の主体として明記されず、日本の国家責任を問うものにはなりませんでした。東京都との交渉過程で「官憲」の文字を入れることができなくなったとのことです。
以下がこの横網町公園の追悼碑の碑文です。

一九二三年九月発生した関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言飛語のため六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。私たちは、震災五十周年を迎え、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎になると信じます。思想、信条の相違を越えて、この碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、日本と朝鮮民族の永遠の親善の力となることを期待します。 一九七三年九月 関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会

この追悼碑建立の実行委員会に関わった俳優の千田是也は、関東震災の発生時は19歳で、千駄ヶ谷に住んでいました。震災発生翌日の9月2日夜、「朝鮮人集団が日本人を襲っている」という噂を聞きつけ、杖を手に街に飛び出した是也は、逆に朝鮮人に間違えられて竹やりやこん棒で武装した日本人に小突きまわされてしまいました。たまたま是也を知る人がいて解放されたものの、この経験が彼に大きな影響を与えました。是也はのちに「私も加害者になっていたかも知れない。その自戒を込めて、センダ・コレヤ、つまり千駄ヶ谷のコレヤン(Korean)という芸名を名乗ったのだ」と語っています。


外は暑いので、見学を兼ねて東京都慰霊堂の中で引き続き豊海さんのお話を聞きました。
1930年に落成した東京都慰霊堂には、1923年の関東大震災の犠牲者、そして1945年の東京大空襲の犠牲者のお骨が納められています。
大震災と戦争による空襲のどちらにおいても下町に集中して大きな被害が出た事実があります。
毎年、関東大震災が起きた9月1日と、東京大空襲の3月10日の年2回、慰霊の法要が行われています。


東京都復興記念館も見学しました。100年前の大震災の被害状況を示した写真を見ることができます。

その後、地下鉄と京成電鉄を乗り継ぎ、八広駅まで移動しました。
駅から歩いて2分ほどのところに事務所のある、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」(略称ほうせんか)に向かいました。



「ほうせんか」の事務所の庭には2009年9月に建立された「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼碑」があります。この碑の碑文は横網町講演の追悼碑とは違い、虐殺の主体、加害者が誰であったかをはっきり示しています。
以下が碑文の内容です。

一九二三年関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言飛語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された。東京の下町一帯でも、植民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知られぬまま尊い命を奪われた。この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの日を建立する。二〇〇九年九月

あわせて、追悼碑の傍にある解説版の文章も以下に紹介します。

1910年、日本は朝鮮(大韓帝国)を植民地にした。独立運動は続いたが、そのたび武力弾圧された。過酷な植民地政策の下で生活の困窮がすすみ、1920年代にはいると仕事や勉学の機会を求め、朝鮮から日本に渡る人が増えていた。
1923年9月1日 関東大震災の時、墨田区では本所地域を中心に大火災となり、荒川土手は避難する人であふれた。「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が攻めてくる」等の流言飛語がとび、旧四ツ木橋では軍隊が機関銃で韓国・朝鮮人を撃ち、民衆も殺害した。
60年近くたって荒川放水路開削の歴史を調べていた一小学校教員は、地元のお年寄り方から事件の話を聞いた。また当時、犠牲者に花を手向ける人もいたと聞いて、調査と追悼を呼びかけた。震災後の11月の新聞記事によると、憲兵警察が警戒する中、河川敷の犠牲者の遺体が少なくとも二度掘り起こされ、どこかに運び去られていた。犠牲者のその後の行方は、調べることができなかった。
韓国・朝鮮人であることを理由に殺害され、遺骨も墓もなく、真相も究明されず、公的責任も取られずに86年が過ぎた。この犠牲者を悼み、歴史を省み、民族の違いで排斥する心を戒めたい。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う、民間の多くの人々によってこの碑は建立された。
2009年9月 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会 グループほうせんか


これが荒川土手の上から見た「ほうせんか」の事務所です。追悼碑は左側の庭の奥にあります。


旧四ツ木橋があった場所で「ほうせんか」の西崎さんからお話をうかがいました。


地震の後に大火災が起きていた現在の墨田区方面からこの道を通って多くの人々が逃げたそうです。この道は地震による崩壊を免れた旧四ツ木橋に続いていました。その四ツ木橋を避難する人々を自警団が誰何して朝鮮人を探し出し、さらに荒川放水路沿いで軍隊が朝鮮人を機関銃で殺害した証言が多く残されています。


旧四ツ木橋の写真です。





河川敷に降り、虐殺された朝鮮人や、亀戸事件で殺害された社会主義者の遺体が埋められた場所でお話を聞きました。
虐殺が行われたのは旧四ツ木橋付近だけではありません。東京だけでなく関東一円でも記録が残されています。そして、日本の学校教育で使用されている歴史教科書では、朝鮮人虐殺について「自警団」が行った行為として記述されていますが、そこに警察や軍隊が関与していた事実を踏まえる必要があります。
中公新書の「民衆暴力-一揆・暴動・虐殺の日本近代」という本で、藤野裕子さんは以下のように述べています。
「国家の責任が重大であることは前提であるが、朝鮮人を殺す側に回った日本民衆については、どのように考えればよいのだろうか。国家によって操られた被害者と捉えるのは間違いだろう。実際に手を下した人びとは、まぎれもなく加害者である。重要なのは、(中略)どのようにして殺害に至ったのか、その論理を明らかにすることである」


現代書館から2016年に西崎さんがまとめた証言集が発刊されています。歴史修正主義に対する反撃であり、日本人が自らの加害の歴史と向き合うために必須の書です。

「ほうせんか」という団体名は「鳳仙花」という歌をもとにしています。

李政美さんが歌う「鳳仙花」が動画サイトにありました。

https://housenka.jimdofree.com/
以上が「ほうせんか」のホームページです。ぜひご覧ください。

西崎さんのお話を聞き、「語り継ぐ」という平和友好祭運動の課題に対する重要な示唆をいただいたように感じました。直接の当事者ではなくても歴史と真摯に向き合い、「後事の師」としなければなりません。
いま日本では歴史修正主義がさまざまな形態をとってその影響を強めつつあります。排外主義にもとづく「流言」「デマ」がSNSを通じて簡単に広められている現実があります。「戦争に反対する」という体裁を取りつつ、歴史修正主義と戦後平和運動の解体・清算に無自覚に加担している人々もいます。
平和友好祭でも、青年たちが差別や排外主義とたたかうために今後もフィールドワークや学習と交流の機会を持ちたいと思います。
  


Posted by 平和友好祭 at 12:20Comments(0)青年共闘運動国際連帯政治問題

2023年08月09日

反核平和の火リレーについて故宮崎安男さんのことば

今年は21都道府県で反核平和の火リレーが取り組まれています。78年前に長崎に原爆が投下された今日のこの日も、青年たちが平和の火を走り継ぎ、日本の核兵器禁止条約への署名と批准、そして核兵器廃絶を訴えています。
平和友好祭の「第1回ヒロシマの旅」で、当時、原水爆禁止広島県協議会で事務局長を務めていた故宮崎安男さん(2007年2月に逝去)が反核平和の火リレー運動の意義について青年たちに語った言葉を以下に紹介します。
朝鮮半島で生まれた宮崎さんは、5歳で山口県に引き上げました。郵便局、電話局で勤務し、全電通労組中央執行委員、全電通労組中国地本執行委員長を務めました。原水禁では1993年から代表委員を担いました。宮崎さんの反核運動の出発点は職場での被爆者支援だったそうです。被爆者ではない宮崎さんの言葉から、私たちも核兵器廃絶に向けたたたかいの力を得たいと思います。

「もっと暑がろう。もっと徹底的に暑がろうじゃないか。この暑い広島で4千度という地上の温度で溶けてしまった、焼かれてしまった、身体がボロボロになってしまった……。
その暑さをもっと自分に焦がし自分に焼き付けよう。そこで死んだ、そこで悶えた被爆者の気持ちを受け止めて行こうじゃないか。それが反核平和の火リレーではないのか。
被爆体験は被爆者でない限り決してわからない、大変な経験です。それだけに、体験しないものが原爆体験を自らのものとして受け継ぐ努力なしに、被爆体験は継承できません。追体験はできないけれども限りなく被爆者に近づく努力を通じて、はじめて核の本質が見えてくる。被爆者の苦しみがわかってくるのだと思います。
私は被爆ということに本当に立ち向かうことなしに、加害は見えてこないと思っています。被害と真正面に立ち向かうことなしに、加害の根深さ、人間が変わっていく怖さ、人間が行う犯罪の恐ろしさということを見ることはできないだろう。」



  


Posted by 平和友好祭 at 13:41Comments(0)青年共闘運動広島労働組合長崎