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2023年05月18日

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」を5月12日(金)~16日(火)に開催しました。北海道、岩手、秋田、茨城、兵庫、島根、広島、徳島から、自治労、林野労組、全農林、私鉄、全水道、社青同の19人の仲間が参加しました。

事務局は準備物に細かい忘れ物があったので、那覇空港到着後にゆいレールで「おもろまち」まで買い物にでかけました。せっかくなので、沖縄戦の際の激戦地だったシュガーローフ・ヒルに行ってみました。数年ぶりでした。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
「おもろまち」駅から少し坂を登ったところにあるこの丘がシュガーローフです。天久住宅地区の返還後の再開発で建てられたたくさんのビルの狭間にあるこの小さな丘の周辺では、沖縄戦の際に日米両軍が激しい戦闘を繰り広げました。米軍にとっては首里の日本軍司令部を包囲するためにこの一帯の制圧は不可欠でした。ゆいレールの「おもろまち」駅付近は戦前は軽便鉄道が走っていた路線にあたり、当時の写真を見ると現在の地形と一致していることが分かります。

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急な階段でシュガーローフの丘を登ります。途中の木陰で若いサラリーマンが昼休憩していました。お仕事お疲れ様です。

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丘に登り、那覇の市街地を臨みました。以前は沖縄戦の際に米軍が「ホースシュー」と呼んだ窪地の痕跡が判別できたのですが、今は市街地化が急速に進み、新しく建ったビルの合間に埋もれてしまっています。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
シュガーローフから見た首里城です。日本軍はシュガーローフを「安里52高地」と呼んでいました。周辺のいくつかの丘の陣地との間での相互支援、首里城からの砲兵の支援で米軍と熾烈な戦闘が繰り広げられました。首里城の日本軍の砲兵隊はシュガーローフ周辺の米軍に正確に砲弾を撃ち込んだそうです。ただし、5月中旬には日本軍の砲兵隊は弾薬を使い果たしつつあり、1日に発射できる砲弾の数が制限されていたとのことです。
「ガマフヤー」の具志堅隆松さんによれば、「おもろまち」は戦死した日本兵の遺骨の収集が行われないまま再開発が進められたそうです。華やかな新しい市街地のコンクリートの下には、多くの日本兵の遺骨が放置されたままになっています。

■さて、14時45分に那覇空港1階到着ロビーで19人の参加者が無事に集合完了した後、バスに乗ってまずは国道58号線を北上し、那覇軍港、浦添市にあるキャンプキンザー(牧港補給区)を車窓から眺めつつ、嘉数高台まで移動しました。第3海兵兵站群の司令部があるキャンプキンザーには、11棟の倉庫、13棟の高層住宅があります。ベトナム戦争の時代には「ミサイルからトイレットペーパーまで」補給した施設です。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
嘉数高台に到着後、丘に登り、展望台から海兵隊普天間飛行場を視察しました。2700メートルの滑走路がある飛行場です。周辺に住宅地、学校、市役所、病院などがあり、「世界一危険な基地」と呼ばれています。SACO合意にもとづく普天間基地の返還計画、辺野古移設=新基地建設の問題について確認しました。

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ちょうど、この日の訓練を終えたオスプレイが私たちのすぐ真上を通過して普天間基地へと戻るところでした。かなり低空を飛んでいます。

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展望台のすぐ横には、沖縄戦で生命を奪われた朝鮮半島出身者を弔う「青丘の塔」があります。「青丘」とは朝鮮半島のことです。さらにその奥にある「京都の塔」の由来についてもまなびました。
嘉数高台は沖縄戦の際に日本軍の主陣地帯の要でもありました。4月1日に読谷~嘉手納~北谷の海岸に上陸し、南下して首里の日本軍司令部を目指す米軍は、激しい突撃準備射撃をともないつつ戦車と歩兵の協働で嘉数高台とその背後にある嘉数集落の制圧を目指しました。日本軍は米軍の戦車を、4門の対戦車砲と兵士の肉弾攻撃で防ごうとしました。肉弾攻撃は10人で編成され、うち5人が20キロの爆薬を背負って戦車の履帯の下に身を投げ出して擱座させます。残り5人は突入を支援しました。履帯の下に飛び込む兵士もそれを支援の兵士もいずれも殲滅したという米軍の戦闘記録があるそうです。多数の兵士の犠牲が前提の日本軍の戦闘だったのです。
嘉数高台には第63師団隷下の「独立歩兵第13大隊」が配備され、戦闘の経過とともに「独立歩兵第23大隊」「独立歩兵第272大隊」「独立歩兵第273大隊」が投入されました。嘉数の戦闘では多くの京都府出身の兵士が生命を落としました。沖縄戦における京都出身の2500余柱の戦没者をまつるのが「京都の塔」です。「京都の塔」は嘉数の住民の大きな犠牲にも触れていることから、しばしば平和運動の題材にもなっています。沖縄戦の当時の嘉数集落の住民は、最初はテラガマ、チヂフチャーガマに避難していましたが、日米両軍の戦闘が始まる前に南部に避難した人と、嘉数に残った人がいました。しかし、いずれも戦闘に巻き込まれ、半数以上が亡くなりました。

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嘉数高台を後にして、普天間~石平~ライカムを通って沖縄市内へ。平和友好祭は「基地の街」と呼ばれる沖縄市のホテルニューセンチュリーで宿泊しています。「基地の街」で40年以上にわたって営業を続けているホテルということで、米軍関係者の利用もあるようです。私たちは到着後、ホテルの8階で結団式を行い、「10フィート運動」の映画を観ました。続いて、夕食を取りながら参加者から自己紹介を受けました。4泊5日の「旅」への参加のために、休暇を取るのがたいへんだった、と報告した仲間が多くいました。「なんで沖縄に行くのか」と職場で言われた仲間もいたそうです。日本の職場や社会は本当に不自由で窮屈ですね。

■2日目は5・15平和行進に参加しました。
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平和友好祭は読谷村役場から嘉手納町を経て北谷町役場まで行進する「中部基地コース」に参加しました。

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日本でいちばん人口の多い村である読谷村(23年4月時点で約4万1千人)は緑が多く、空が広く、明るく、とても解放感があります。現在の読谷村役場は以前は読谷補助飛行場があった場所です。基地のない村づくりが村ぐるみで進められています。

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陸軍のグリーンベレー部隊が所在しているトリイステーションのフェンスのすぐわきで行進を続けます。「平和な沖縄を返せ!」「辺野古新基地建設反対!」とシュプレヒコールを続けました。デモ行進やシュプレヒコールを平和行進で初めて経験した、という仲間が少なくありません。この意味でも、平和行進は大事な取り組みです。

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嘉手納町民広場で昼食休憩を取った後、国道58号線の嘉手納基地ぞいを行進しました。歩いても歩いても米軍基地のフェンスです。4千メートル級滑走路を2本も持つ嘉手納基地がいかに広大かを実感させられるコースでした。

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行進団は15時半に北谷町役場に到着しました。北谷町職労のみなさんに冷たいお茶や北谷町名産の甘いぜんざいをふるまっていただきました。疲れた体に甘さと水分が心地よく浸みわたりました。
中部コースの行進には1200人が参加したとの報告でした。到着集会には北谷町の町議会議員さんの過半数が参加していたとのことです。野国前町長もいらっしゃいました。代表で発言した町議会議員さんの報告では、米軍基地の汚染水が町民の健康を脅かしていることがよく分かりました。「町ぐるみ」で基地撤去をたたかう必要性と意義を強く感じました。

今年の平和行進でも恒例の妨害行為がありました。「出征兵士を送る歌」など戦時歌謡・軍国歌謡を大音量でまきちらしつつ、彼ら自身は自衛隊に入隊して国防の最前線に立つご様子は見られません。そういえば、事務局の大学時代の友人・先輩が何人か自衛隊で勤務しており、「いたずらに国防意識に燃えて入隊するような人は、隊内での集団生活の現実に慣れることができずにやめていく」といった話を聞いたことがあります。
街宣車から垂れ流されている戦時歌謡で言うと、「青年日本の歌」には難しい言葉や言い回しが多用されていますが、「ばかやろう」「おまえら帰れ」としか言わないような乏しい語彙力でその内容を理解できるのか、本当に心配です。「青年日本の歌」は別名「昭和維新の歌」と呼ばれ、極めて軍国主義的な内容です。しかし、「権門上に傲れども国を憂うる誠なし 財閥富を誇れども社稷を思う心なし」など、資本主義がもたらす民衆の貧困を背景に、当時の政治体制や当時の青年将校たちにとっての「君側の奸」に対する激しい怒りがうたわれています。青年の義憤や正義感も、間違った方向に組織されると戦争のできる国づくりに利用されてしまうということではないでしょうか。

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平和行進が北谷町役場に到着する前、コンビニで平和友好祭からの行進参加者が何人かで一服していたところ、「私も若い頃に平和友好祭運動をがんばっていた」「若い人たちに期待している」と、元自治労組合員の女性からカンパをいただきました。このカンパを受け取った仲間から後で報告を受け、本当に驚きました。お名前をお聞きしなかったとのことで、言葉では直接に感謝の伝えようがありません。これから、労働組合運動や平和運動を懸命にがんばることで、カンパをくださった方へのお返しとしなければなりません。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
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北谷町役場から沖縄市内に戻り、嘉手納基地第2ゲートの前にある沖縄市戦後文化資料展示館(ヒストリート)を見学しました。市史編纂室の方に展示のご案内をいただきました。1時間ほど沖縄市にとっての沖縄戦、現在の嘉手納基地内で行われた南西諸島方面の日本軍の降伏文書調印式、そして戦後のコザの街の歴史についてまなびました。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
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この日の夕食は恒例のステーキでした。美味しそうな牛ヒレにみんなで舌鼓を打ちました。若い調理師さんがめちゃイケメンで盛り上がっていました。みんなで平和行進を貫徹した後のステーキは格別です。200グラムのお肉では足りず、追加で注文した仲間もいました。若い胃袋は本当に無限大です。

■「オキナワの旅」の3日目は南部戦跡で沖縄戦の実相についてまなびました。
この日のガイドはいつもお世話になっている仲本節子さんです。まず、午前中はひめゆり平和祈念資料館に向かいました。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
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最初に伊原第3外科壕の前で仲本さんからお話を聞き、お花と黙とうを捧げました。伊原第3外科壕は6月18日の日本軍の解散命令の後、米軍の爆弾攻撃で多くの犠牲が出たところです。

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赤心之塔にもお花を差し上げました。ひめゆり学徒たちとともに伊原第3外科壕で犠牲になった大田さん一家を偲ぶ塔です。日本軍は首里から南部への撤退にあたり、伊原第3外科壕に避難していた住民を追い出しましたが、大田さんという一家は高齢者と小さな子どもたちがいたために壕内に残留しました。しかし、6月19日に米軍のガス弾が壕内に投げ込まれ、高齢者と3人の子どもが犠牲になりました。

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資料館では、元学徒隊員の宮良るりさんの証言ビデオを見ながら講話を聴きました。宮良さんの「兵隊は死ぬときにお母さんや家族の名前を呼んで死んでいった。学校では日本の兵隊は天皇陛下万歳と言って散っていくと教えられたが、誰も天皇陛下万歳とは言わなかった」という言葉が心に重くひびきました。ひめゆり平和祈念資料館での学習は、多くの人々が動員されているウクライナでの戦争のことを思い起こさせます。「軍隊は住民を守らない」という教訓を現代の世界や反戦平和の運動に生かすにはどうしたら良いのかが深刻に問われています。

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また、「オキナワの旅」実施にあたり全国の仲間から寄せられた資料館への寄付をお渡ししました。
2020年冬以降の「コロナ禍」下での入館者の減少で、入館料収入が激減する資料館を支援することを目的に、昨年も同様の呼びかけを行いました。昨年は「コロナ禍」で参加がかなわないという声が多かったため、「旅」に参加しない県実・労組への呼びかけ、「旅」参加者が代表してお渡しすることとしましたが、結論としては「旅」に参加者を出した県実・労組からの寄付がほとんどでした。私は、「ああ、多くの仲間たちが沖縄のこと、沖縄戦のことは忘れてしまったのだな」と思いました。しかし、今年はあらためて呼びかけを行い、11万9千円を資料館にお渡しすることができました。ご協力くださったみなさん、ありがとうございました。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
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今回は仲本さんの案内で、ひめゆり資料館から10分ほど歩いたところにある伊原第1外科壕跡にも行きました。ガマに少し降りたところにお花が供えられており、訪れた人がいることが分かりました。沖縄陸軍病院は南部に撤退した頃にはすでに病院としての機能は停止していたとのことです。6月18日の解散命令の後、米軍の掃討戦のなかで多くの学徒隊員が生命を奪われました。

昼食はひめゆり平和祈念資料館前の「優美堂」さんでいただきました。
22年、20年の「旅」のときには、「コロナ禍」の影響で優美堂のお客さんが本当に少なく、訪れた際に食事を団体でしているのは平和友好祭だけでした。お土産のコーナーも電気が消されていて、本当に心配になりました。今回は平和友好祭以外にもたくさんの団体の予約が入っており、注文する料理はなるべく統一してほしいと言われるほどでした。このまま何とか持ち直してほしいところです。

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昼食後はまず魂魄の塔を訪れました。その後、南城市まで移動し、アブチラガマで沖縄戦の追体験を行いました。アブチラガマは当初は陸軍の陣地でしたが、沖縄戦では沖縄陸軍病院糸数分室となり、戦闘で負傷した600人とも言われる負傷兵が運び込まれました。ひめゆり学徒隊員が看護活動に動員されました。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
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今回は新城啓八さんのガイドで、沖縄戦の際にガマで何があったかについてまなびました。

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アブチラガマでは、この20年の間にさまざまな整備が進んでいます。事務局が「オキナワの旅」の参加者として初めてアブチラガマを訪れたのはもう20年以上前になります。当時は駐車場と民家の裏にガマの入口がひっそりとあるだけでした。今は案内センターや入口前のもぎりの建物ができ、入口には手すりや階段が整備されています。内部には落石防止の金網が備えられ、ヘルメットの着用が義務付けられ、写真撮影は禁止になりました。インターネットではアブチラガマを「心霊スポット」として紹介するものもあり、修学旅行や労働組合でも事前の学習が不足していると戦争の追体験ではなく「洞窟探検」のような雰囲気になってしまっている様子が見られます。また、糸満市の「轟の壕」では落石があり、現在は内部での追体験が中止となっているとのことです。整備が進むことと、戦争の追体験・学習との間で考えなければならない課題があります。

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新城啓八さんは、お若いころに平和友好祭石垣地区実行委員会で実行委員長を務めていたとのことです。「平和はうたごえから」ということでうたごえ運動に熱心に関わっていたとのことでした。この日は平和友好祭運動の後輩たちのガイドということで、張り切ってかけつけたとおっしゃってくださいました。青年たちへの激励もいただきました。ありがとうございました。

続いて、沖縄戦で沖縄陸軍病院が置かれていた南風原町にある南風原文化センターで沖縄戦の映像と展示資料を見学しました。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
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これは、病院壕内の寝台の様子を再現したジオラマです。
展示では、南風原の人々が沖縄戦で多くの人々が亡くなったことについても説明がありました。軍隊がもし住民を守るというなら、陸軍病院のあった南風原の人々の半数が戦闘に巻き込まれて亡くなったことについて説明できません。同時に、文化センターの資料には「切り込みに行く日本兵がおにぎりをくれて、生き延びるように言われた」という証言も展示されていました。沖縄戦では、味方であるはずの日本兵によって多くの沖縄の人々が殺害され、食料強奪や壕の追い出しなどの形で戦場に放り出される事態が多発する一方、「生き延びろ」「死ぬな」と住民に言い残した兵士がいたという証言もあります。ひめゆり資料館でも、生徒たちと「自決」した教師がいた一方、「死んではダメだ」と伝えた先生もいたとのことでした。
いま、資本の合理化攻撃によって忙しくなる一方の職場では、多くの人が「他人を蹴落としてでも自分が生き延びることができたら…」という気持ちにさせられています。働く意欲、生きる意欲さえ奪われる仲間もいます。労働組合の役員や活動家が仲間たちに「生き延びろ」「死ぬな」と言えるかどうかが問われていると思います。

南風原文化センターでの学習を終え、ホテルに戻りました。南風原町から沖縄市まで高速道路を使うと30分弱で到着します。沖縄自動車道すごいです。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
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ホテルの会議室で、9歳のときに沖縄戦を体験した仲宗根藤子さんからお話をいただきました。平和への思いをたくさん語っていただきました。参加者からも感想や質問をお返ししました。仲宗根さんの体験は、『青年の声』5月1日付号に掲載されています。

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戦争が終わってから78年が経ちました。すでに「コロナ禍」の前から、沖縄戦の体験者から直接にお話を聞く機会が少なくなっていました。「オキナワの旅」の開催にあたり、青年たちのために沖縄戦の体験を話してくださる方がいないかと思っていたときに、Ⅰ女性会議の「おんなのしんぶん」の記事で仲宗根藤子さんのことを知りました。87歳の仲宗根さんは足が悪くされており、講演の会場までの移動に心配がありました。しかし、平和友好祭が利用しているホテルニューセンチュリーの社長が仲宗根さんのいとこということで、「それなら行かないといけないね」ということで講演を引き受けてくださいました。もと中学校の先生ということで、仲宗根さんの言葉は本当に力強く感じました。

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この日は、那覇市議会議員の多和田英子さん、Ⅰ女性会議沖縄県本部の前議長の狩俣信子さん(前沖縄県議会議員)が仲宗根さんをホテルまでお連れしてくださいました。狩俣さんからいただいたごあいさつは、私たちの南風原文化センターでの学習について、実例をもとに補強・補足してくださる内容でした。

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講演後の夕食では、この3日間を振り返り、それぞれの感想を交流しました。笑いあり、涙ありのステキな交流でした。

■「旅」の4日目は、ホテルをチェックアウトしてから嘉手納町の「道の駅かでな」に向かいました。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
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4千メートル級滑走路を2本持つ広大な空軍嘉手納基地を視察しました。F15戦闘機部隊や輸送機が配備されています。国内外から外来機が多数飛来する基地でもあります。さらに、嘉手納基地内には住宅、学校、ホテル、商業施設、ゴルフ場もあり、一つの町となっています。そして、地域の人々が常に騒音にさらされています。近隣の学校では、飛行機の墜落事故に備えて避難訓練が行われているそうです。

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「道の駅かでな」3階の資料室の展示がリニューアルされていました。戦前の嘉手納の街のジオラマがなくなっていました。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
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伊芸サービスエリアでトイレ休憩を取ってから、辺野古に向かいました。キャンプシュワブの座り込みのテント前では、平和友好祭からも1人ずつみなさんにごあいさつと決意表明しました。

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テントで鹿児島の平和運動センターの先輩からごあいさつをいただきました。

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平和友好祭もテントにいたみなさんと一緒に昼のトラックの基地内への進入阻止の座り込みに参加しました。みんなで「沖縄を返せ」や「ここへ座り込め」を歌いました。

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排除のために機動隊員がやってきました。

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排除が始まりました。この日の朝の座り込みは、平和運動センターの指示で平和行進に参加していた仲間たちがたくさん駆けつけ、工事用トラックの進入を阻止できたとのことでした。

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たくさんのトラックが工事用ゲートからキャンプシュワブに入って行きます。シュプレヒコールで抗議を続けました。

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午後は2班に分かれ、グラスボートで汀間漁港から大浦湾の埋め立て予定海域に向かいました。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
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事務局はバスの誘導があったので乗船しませんでしたが、この日は天気が良く、大浦湾の貴重な自然と新基地建設の現場の様子をしっかり確認できました。グラスボートの船長の西原さんのお話がとても分かりやすく、これからもたくさんの仲間たちに訪れてほしいところです。西原さんは「新基地建設に反対する私たちの運動が何を守ろうとしているのか知ってほしい」と話していました。

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乗船まで待機している方の班は瀬嵩集落内の「じゅごんの里」の事務所の庭でお弁当です。うりずんの優しい風がそよぐなか、昼下がりの楽しいおしゃべりがお弁当をいっそう美味しくさせます。

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静かな瀬嵩の集落の片隅で仲間たちとのんびり過ごす至福の時間でした。

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何人かは瀬嵩の共同売店で買い物をしました。おまんじゅうやアイスが本当に美味しいのです。

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集落内や海岸の散歩を楽しんだ仲間もいました。命の洗濯とはこのことですね。

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大浦湾での学習を終えました。西原さん、じゅごんの里のみなさん、ありがとうございました。

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6年前に元海兵隊員の米軍属にレイプ・殺害された女性のご遺体が遺棄されていた県道104号線沿いで、黙とうをささげました。米軍があることによる事件・事故は過去のことではありません。
そして、「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓もまた過去の物語にしてはいけません。いま、南西諸島での自衛隊の配備・強化が進められています。「旅」での交流で、ある参加者が、職場にいる元自衛隊員の仲間が「自衛隊では、おまえたちが守るのは住民ではない、と最初に教えられた」と話していたと報告していました。ところがいま、平和運動においてさえ、「専守防衛」に後退し個別的自衛権を実質上容認するような意見が聞かれるようになっています。しかし、私たちが沖縄で学習する内容は、それとはまったく逆の方向性にあります。これはイデオロギーではなく、沖縄の人々が体験した事実です。平和は軍隊によって守られ、作られるものではなく、労働者・民衆の国籍・国境・民族の枠ぐみを超えた国際的なたたかいによって実現されるものです。憲法9条はその象徴であり、「平和憲法の危機」は日本の平和運動の後退を示しているに過ぎません。戦争が起きたときに犠牲になるのは若い世代とその将来です。平和友好祭運動に課せられている課題は大きいものがあります。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
4日目の宿泊は、名護市にある喜瀬ビーチパレスです。平和友好祭としては久しぶりの宿泊です。沖縄を訪れる観光客が増えるなかで、1年前でも宿泊予約ができなくなってしまい、しばらくご無沙汰していました。ホテルに到着後、この日までお世話になった東京バス沖縄営業所のドライバーの翁長さんにみんなでごあいさつしました。翁長さんも「旅」の趣旨や目的を理解し、ともにまなんでくださいました。ありがとうございました。

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ホテルの前のビーチで楽しく過ごしました。夕方のビーチでみんなで元気にジャンプするのは青年の特権です。青年にしかできないことです。先輩から「俺は今も青年の気持ちでがんばっている」という言葉をお聞きすることがありますが、ビーチでジャンプできるかどうかぜひ試してみてほしいです。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
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「オキナワの旅」の最後の夜はビーチパーティーを楽しみました。

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少しだけ花火をしました。BGMはフジファブリックの「若者のすべて」というところでしょうか。

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アームレスリング大会が始まりました。「常に準備せよ」。日ごろから鍛えているかどうかが試されます。この後も深夜…明け方まで楽しい交流が続きました。

■最終日はホテルの会議室で美しい名護浦を眺めながら解団式を行いました。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
まず2人の参加者から感想を受け、団長の林野労組青年女性委員会の田中委員長から集約があり、ガンバローで締めくくりました。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
バスで那覇に向けて出発する前にビーチで集合写真を撮りました。うっかり平和友好祭のノボリを用意するのを忘れていました。でも、最後もみんなでジャンプしました。5日間の学習と交流を経て、19人が「仲間」になることができました。「しんどいこと」も含めて一緒に課題に取り組むことでこそ仲間になることができます。労働組合がそんな場であってほしいと思います。

「かわいい子には旅をさせよ」という言葉があります。4泊5日の「旅」を通じてみんな驚くほどたくましく成長しました。青年のまなぶ力と成長をいやというほど見せつけられたのが、事務局としての今回の「旅」での最大の成果でした。そして、いつになく多くの人たちに支えられた「旅」でもありました。その事実が、青年の学習と成長をいっそう引き出すことにつながったように感じます。来年以降も「旅」を継続するという結論が自然に導き出されたように思いました。
しかし、目の前の仕事に追われるなかで青年に「旅」をさせられない職場や労働組合が増えています。あるいは、未だに「青年に元気がない」「青年が保守化している」といった声を聞くことがあります。いや、青年は本当に元気です。「青年が元気である」ことを確認できない位置にいる人たちが、「青年は保守化している」といった無責任で表面的な評論をするのでしょう。かつての「革新」の保守化は本当に深刻です。労働組合が、反戦平和の運動が、青年の力を正しく発揮させる機会をなるべく多く持つこと以外に、職場や仲間を守り、平和を実現することはできません。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
バスで那覇空港に戻り、解散後は飛行機まで時間のある仲間は牧志公設市場で昼食を食べました。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
改築が終わり、新装オープンした牧志公設市場の様子です。のうれんプラザの致命的な失敗に比べると、比較的以前の雰囲気を良く残していると思いました。後は、ここで働く人々、ここを訪れる人々が日々の生産活動を通じて新たな歴史を刻み込んでいくだけです。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
ただ、日差しが強いので、もう一度アーケードをかけてほしいです。雨降りの日も困りそうです。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
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活気あるまちぐわーの懐かしい風景をこれからも残したいものです。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
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事務局は紙屋さんで事務用の封筒を購入しました。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
兵庫の仲間と事後学習で首里城の下にある旧日本軍司令部壕の第1坑道前に来ました。首里城にはたくさんの観光客が訪れていますが、ここを訪れる人は多くはありません。

「第29回被戦地オキナワ青年の旅」に19人が参加
東京に戻る飛行機から辺野古が見えました。埋め立て工事が進められています。新基地建設阻止のため、基地のない沖縄の実現のため、これからもみんなでがんばりましょう。


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