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2023年06月11日

神戸の三ノ宮駅に残る空襲の爪あと

第2次世界大戦が終わってから78年めの夏が目の前です。過去の戦争の記憶が遠ざかるにつれ、戦争のできる国づくりがますます進んでいます。何より、平和運動の側にこそこれから何ができるかが問われています。

6月2日から4日にかけて行われた平和友好祭の「第34回ヒロシマの旅」で、広島県選出の高校生平和大使のみなさんからお話を聞きました。10代の仲間たちにとっても、被爆者や戦争体験者からの体験の聞き取りや交流が平和な世界をめざす力になっていることを知りました。今も過去の戦争の体験をもとに青年たちに反戦平和の願いを伝えてくださるみなさんがいらっしゃいます。継承の機会をなるべく多く持つことが必要です。
「情勢」という言葉で労働組合が平和運動に取り組む「言い訳」「口実」を知りたがる役員の姿が見られます。役員のための平和運動ではなく、青年自身が、青年の将来のために反戦平和と核兵器廃絶を取り組む必要性をまなぶ機会を持ってほしいと感じます。

戦争体験者からお話を聞く機会が少なくなっていますが、現在でもふとしたところに過去の戦争の傷あと、爪あとが残っています。神戸ではわりとよく知られているかなとは思いますが、JR三ノ宮駅と阪急の神戸三宮駅にも戦争中の空襲時の痕跡を見つけることができます。

神戸の三ノ宮駅に残る空襲の爪あと
JR三ノ宮駅の西明石・姫路方面行きのホームの西端から神戸市役所方面を見ると、線路の下の橋脚構造が青いペンキで塗られています。

神戸の三ノ宮駅に残る空襲の爪あと
改札を出てホームを支える橋脚構造を歩道橋側からのぞき込むと…

神戸の三ノ宮駅に残る空襲の爪あと
神戸の三ノ宮駅に残る空襲の爪あと
空襲時に米軍機の機銃掃射で開いたたくさんの弾痕が見つかります。駅は軍事施設として狙われたのでしょう。それにしてもこんな威力の弾丸が生身の人間に当たったらひとたまりもないですね。

戦前は神戸の繁華街と言えば三宮ではなく、現在の神戸駅付近や新開地方面でした。ただ、国鉄三ノ宮駅も、南側にある神戸港、さらに住友銀行や日銀のある京橋方面の銀行街への玄関口として賑わいをみせていたそうです。
三宮は今は若者たちが集う街になっています。事務局も学生時代に三宮で何回ゲロンチョしたか分かりません。夏の夕方にパイ山で友人たちととりとめもないおしゃべりをいつまでも続けたのも楽しい思い出です。

神戸の三ノ宮駅に残る空襲の爪あと
これは、JR三ノ宮駅コンコースの柱です。現在は耐震補強工事のために分かりにくいのですが、戦前からの駅舎の柱が現在も使用されています。

神戸の三ノ宮駅に残る空襲の爪あと
アニメ映画「火垂るの墓」の冒頭で衰弱死した清太がよりかかっていたのも、国鉄三ノ宮駅構内の柱です。
実際に、戦争が終わった後の三ノ宮駅付近にはたくさんの戦災孤児たちが多く住み着いていたそうです。戦争の最大の犠牲者は子どもたちでした。

神戸の三ノ宮駅に残る空襲の爪あと
三ノ宮駅の戦争孤児たちの置かれた状況は、『「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史』という新書でも読めます。日本という国家や社会がいかに戦争で家族を失った子どもたちに無責任で、冷淡、冷酷だったかを思い知らされます。
この本の著者である中村光博さんは、ネット上でしばしば見られる、「火垂るの墓」の清太と節子の死を「自己責任」と捉える風潮に違和感を表明しています。

神戸の三ノ宮駅に残る空襲の爪あと
「火垂るの墓」の作中で、空襲で重傷を負った清太と節子の母が収容された御影国民学校は、JR三ノ宮駅からは少し離れていますが、現在も東灘区内に御影小学校として残っています。
ただし、アニメ作品で登場する「御影国民学校」の校舎は、隣の灘区の成徳小学校がモデルになっています。この成徳小学校は「火垂るの墓」の著者である野坂昭如さんの母校とのことです。
事務局でも何年か前に「火垂るの墓」のアニメ作品のDVDを購入しました。成徳小学校から見える神戸の焼跡のシーンに驚かされました。1995年1月の阪神淡路大震災の直後の被災地・神戸の光景とそのまま重なったからです。

神戸の三ノ宮駅に残る空襲の爪あと
東灘区にある御影公会堂です。現役で使用されています。

神戸の三ノ宮駅に残る空襲の爪あと
この御影公会堂も「火垂るの墓」の空襲後の神戸の光景に描かれています。

神戸の三ノ宮駅に残る空襲の爪あと
石屋川にある「火垂るの墓」の碑です。ネット上で無邪気に表明されている浅はかな「自己責任」論ではなく、政治家や軍部の戦争責任を問うことが求められています。

事務局はかつて神戸市民でしたが、「火垂るの墓」は大阪の話だとずっと思っていました。アニメ映画の登場人物が神戸弁を話していなかったからです。ちなみに、石屋川の東にある住吉川が、神戸弁を含む播磨方言と一般に「関西弁」として認知されることの多い摂津方言との境界だそうです。御影は神戸弁が話される地域の東端にあたります。ただし、近年はテレビなどの影響のためか神戸市内でも昔ながらの神戸弁を話せる人は少なくなっているようです。以前に大阪の年輩の方からも「みんなテレビに出る芸人のマネをして話しているが、大阪の言葉はもっと優しい言葉や」といったお話を聞いたことがあります。言うなれば今は「テレビ関西弁」の時代なのかも知れませんね。

神戸の三ノ宮駅に残る空襲の爪あと
現在の阪急神戸線の神戸三宮駅です。

神戸の三ノ宮駅に残る空襲の爪あと
「火垂るの墓」の冒頭にも、阪急三宮駅が映し出されていました。当時の建物は1995年の阪神淡路大震災の際に大破し、取り壊されました。現在はピカピカの新しい高層ビルになっていますが、以前の雰囲気はよく残していると思います。
ちなみに、阪神淡路大震災の後に阪急神戸線が全線復旧したのは、地震の発生から約半年後の6月12日でした。

神戸の三ノ宮駅に残る空襲の爪あと
神戸の三ノ宮駅に残る空襲の爪あと
阪急の神戸三宮駅のホームから屋根を見上げると、機銃や焼夷弾が貫通した穴を修理した跡が見つかります。空襲時の火災の熱で曲がった鉄骨も残っています。

みなさんも神戸に行く機会があったら、ぜひ訪れてみてください。



Posted by 平和友好祭 at 15:39│Comments(0)
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