2016年05月17日
第23回被戦地オキナワ青年の旅
平和友好祭実行委員会の主催による「第23回被戦地オキナワ青年の旅」が5月12日(木)~16日(月)で開催され、25人の仲間が参加しました。
「基地の中の沖縄」の現実に触れ、過去の沖縄戦の実相を知り、沖縄の反基地のたたかいから多くをまなぶことができた「旅」となりました。
今回は全日程晴れが続きました。写真で「旅」の様子を紹介します。
◆5月12日(木)…1日目

まず那覇空港で集合後、バスで嘉数高台に向かいました。バスは今年も沖縄バスさんにお世話になりました。

嘉数高台の階段を昇ります。みんな若いので(参加者の平均年齢は28歳)、このくらいへっちゃらです。

展望台から海兵隊普天間飛行場を望みました。駐機場にはオスプレイが並んでいました。

「嘉数の塔」「京都の塔」の前にある旧日本軍の機関銃陣地です。
沖縄では、戦争に巻き込まれた住民や前線の兵士、これらの陣地構築のために朝鮮半島から連れてこられた人々の命を犠牲にして激戦が行われました。

バスで国頭村奥間まで移動し、ホテルにチェックイン。今回はまず、JALプライベートリゾートオクマに2泊しました。
1978年に今も隣接する奥間レスト・センターの敷地の一部の返還を受けて開業したホテルです。
チェックイン後、結団式を行いました。代表委員からあいさつを受けます。

結団式の後は夕食交流です。参加者それぞれからの自己紹介の後、「座り込めここへ」の歌唱指導を受けました。
那覇の日航ホテルや読谷村の日航アリビラは労働組合関係者もよく利用していますが、ここのホテルのスタッフの方にお聞きしたところでは、JALプライベートリゾートオクマで労働組合関係の団体を受け入れるのは初めてとのことでした。
◆5月13日(金)…2日目



2日目は朝8時にホテルを出発し、辺野古のキャンプ・シュワブのゲート前で行われる平和行進東コースの出発式へ。沖縄県内外からたくさんの仲間が参加していました。韓国から訪れた仲間たちもいました。日音協の先輩方も送り出しの演奏をされていました。


平和友好祭の「旅」の参加者は、この日は平和行進には参加せず、そのまま午前中はゲート前で座り込みに参加。一緒に座り込んでいた地元のみなさんに声をかけてもらって交流した参加者もいました。

座り込みに参加しているみなさんに、「旅」参加者も一人ひとり自己紹介しました。


辺野古に初めて来る仲間も多かったので、浜にも降りました。この日の海の色はとても綺麗でした。「こんなきれいな海に基地を作らせたらいけない」と私鉄の参加者が言っていました。

午後は高江へ移動。途中の慶佐次のヒルギ林の公園で一休み。



高江では、北部訓練場でのヘリパッド建設に反対してたたかう「住民の会」のみなさんからお話を聞きました。
北部訓練場は国有林でもあります(昔、琉球王室の所有する森だったそうです)。林野労組の仲間もいましたので、いろいろ考えるところもあったようです。

「住民の会」のみなさんに檄布をお渡ししました。




ホテルに帰ってからは自主学習の時間…
ビーチで泳いだ仲間、テニスをした仲間、お土産を買いに行った仲間、レンタカーで辺戸岬まで祖国復帰闘争をまなびに行った仲間、様々な過ごし方をしました。



単に遊びを目的にしたわけではなく、奥間レスト・センターという米軍施設の隣にあるということも含めてこのホテルでの宿泊を選択しました。
ビーチにはレスト・センターと外を隔てるフェンスなどないのですが、ホテルの宿泊客や一般の人は米軍のビーチには行けません。でも、米軍関係者は一般のビーチに出てくることができます。これって何かおかしくないですか?

夕食はホテルの近くの居酒屋さんでした。とてもおいしかったです。
◆5月14日(土)…3日目

この日は奥間を後にして首里まで一気に南下。まず、首里城の地下にある旧日本軍司令部壕跡を見学。

司令部では、軍人だけでなく、動員された多くの人々が軍の作業に携わることになりました。「慰安婦」を見たという証言も多く残されています。

その後、沖縄戦で野戦病院や住民の避難壕となったアブチラガマへ。ガマの指令管理者が変更になり、以前にはなかった高射砲や魚雷が展示されています。
ガイドをしてくださる「ゆうなの会」のみなさんは武器の展示に反対したそうです。

ガマに入ります。ガマの内部は現在は写真撮影禁止です。
洞窟探検のような感覚で入る人もいるとのことですが、多くの人がガマの中で亡くなったことを肝にめいじなければなりません。

ガマから出て、慰霊碑に黙とうをささげました。


昼食の後は「ひめゆりの塔」「ひめゆり平和祈念資料館」の見学へ。資料館の特別展示は学徒隊を引率した先生方についてでした。
多くの生徒を失いつつも自らは生き残った先生の痛苦の念が私たちの心に突き刺さります。
「あの場合は仕方なかったと、いくらいいわけをしてみても、それはいいわけにはならない。日本国家全体が犯した罪が、具体的には自分を通じてあらわれたのである」
ある生き残った先生の言葉です。
私たち自身の言葉として、戦争を繰り返さないことを誓わなければなりません。


沖縄戦で米軍に追い詰められた人々が最後にたどり着いた荒崎海岸へ。


残り2泊は沖縄市のホテルニューセンチュリーです。米軍関係者も出張でよく利用しています。
沖縄市は「基地の街」の現状や雰囲気に触れることができる街です。
夕食はタコスを食べ、その後、嘉手納基地のゲート前の旧Aサインバー「オーシャン」で楽しく交流しました。

最後は沖縄そばでしめました。
◆5月15日(日)…4日目


この日の午前中は平和行進南コースに参加。

ヒロジさんが行進団に熱い檄を飛ばしています。





右翼の執拗な嫌がらせをはねのけながら行進を貫徹しました。行進は2500人の参加とのことでした。

新都心公園で「いのちと暮らしを守る県民大会」に参加です。



沖縄選出の国会議員のあいさつです。社民党の照屋衆議院議員、生活の党の玉城衆議院議員、沖縄社会大衆党の糸数参議院議員です。

「勝つまでずっと諦めぬこと」


団結ガンバローと「沖縄を返せ」で県民大会と平和行進を締めくくりました。

みんな元気にがんばりました。

昼食はイオンモール沖縄ライカムで。米軍の泡瀬ゴルフ場の跡地にできた商業施設です。
こんなものができたら周辺の昔からの商店は商売あがったりですね。

夕方は沖縄市内のフィールドワークを行いました。沖縄市の歴史の資料館の見学や、基地ゲート前の視察を行いました。

夕食はステーキ屋さんです。基地の街の文化にも触れることができた「旅」でした。
◆5月16日(月)…5日目


ホテルをチェックアウトして「道の駅かでな」へ。空軍嘉手納基地を視察しました。



「道の駅かでな」2階のUPKITTYというレストランをお借りして解団式。5日間の「旅」を振り返りました。
この後、バスで那覇空港に戻り、解散となりました。
「旅」の詳細については、ニュース等でお返ししたいと思います。
参加したみなさん、送り出してくださった職場、労組、実行委員会のみなさん、ありがとうございました。
「基地の中の沖縄」の現実に触れ、過去の沖縄戦の実相を知り、沖縄の反基地のたたかいから多くをまなぶことができた「旅」となりました。
今回は全日程晴れが続きました。写真で「旅」の様子を紹介します。
◆5月12日(木)…1日目
まず那覇空港で集合後、バスで嘉数高台に向かいました。バスは今年も沖縄バスさんにお世話になりました。
嘉数高台の階段を昇ります。みんな若いので(参加者の平均年齢は28歳)、このくらいへっちゃらです。
展望台から海兵隊普天間飛行場を望みました。駐機場にはオスプレイが並んでいました。
「嘉数の塔」「京都の塔」の前にある旧日本軍の機関銃陣地です。
沖縄では、戦争に巻き込まれた住民や前線の兵士、これらの陣地構築のために朝鮮半島から連れてこられた人々の命を犠牲にして激戦が行われました。
バスで国頭村奥間まで移動し、ホテルにチェックイン。今回はまず、JALプライベートリゾートオクマに2泊しました。
1978年に今も隣接する奥間レスト・センターの敷地の一部の返還を受けて開業したホテルです。
チェックイン後、結団式を行いました。代表委員からあいさつを受けます。
結団式の後は夕食交流です。参加者それぞれからの自己紹介の後、「座り込めここへ」の歌唱指導を受けました。
那覇の日航ホテルや読谷村の日航アリビラは労働組合関係者もよく利用していますが、ここのホテルのスタッフの方にお聞きしたところでは、JALプライベートリゾートオクマで労働組合関係の団体を受け入れるのは初めてとのことでした。
◆5月13日(金)…2日目
2日目は朝8時にホテルを出発し、辺野古のキャンプ・シュワブのゲート前で行われる平和行進東コースの出発式へ。沖縄県内外からたくさんの仲間が参加していました。韓国から訪れた仲間たちもいました。日音協の先輩方も送り出しの演奏をされていました。
平和友好祭の「旅」の参加者は、この日は平和行進には参加せず、そのまま午前中はゲート前で座り込みに参加。一緒に座り込んでいた地元のみなさんに声をかけてもらって交流した参加者もいました。
座り込みに参加しているみなさんに、「旅」参加者も一人ひとり自己紹介しました。
辺野古に初めて来る仲間も多かったので、浜にも降りました。この日の海の色はとても綺麗でした。「こんなきれいな海に基地を作らせたらいけない」と私鉄の参加者が言っていました。
午後は高江へ移動。途中の慶佐次のヒルギ林の公園で一休み。
高江では、北部訓練場でのヘリパッド建設に反対してたたかう「住民の会」のみなさんからお話を聞きました。
北部訓練場は国有林でもあります(昔、琉球王室の所有する森だったそうです)。林野労組の仲間もいましたので、いろいろ考えるところもあったようです。
「住民の会」のみなさんに檄布をお渡ししました。
ホテルに帰ってからは自主学習の時間…
ビーチで泳いだ仲間、テニスをした仲間、お土産を買いに行った仲間、レンタカーで辺戸岬まで祖国復帰闘争をまなびに行った仲間、様々な過ごし方をしました。
単に遊びを目的にしたわけではなく、奥間レスト・センターという米軍施設の隣にあるということも含めてこのホテルでの宿泊を選択しました。
ビーチにはレスト・センターと外を隔てるフェンスなどないのですが、ホテルの宿泊客や一般の人は米軍のビーチには行けません。でも、米軍関係者は一般のビーチに出てくることができます。これって何かおかしくないですか?
夕食はホテルの近くの居酒屋さんでした。とてもおいしかったです。
◆5月14日(土)…3日目
この日は奥間を後にして首里まで一気に南下。まず、首里城の地下にある旧日本軍司令部壕跡を見学。
司令部では、軍人だけでなく、動員された多くの人々が軍の作業に携わることになりました。「慰安婦」を見たという証言も多く残されています。
その後、沖縄戦で野戦病院や住民の避難壕となったアブチラガマへ。ガマの指令管理者が変更になり、以前にはなかった高射砲や魚雷が展示されています。
ガイドをしてくださる「ゆうなの会」のみなさんは武器の展示に反対したそうです。
ガマに入ります。ガマの内部は現在は写真撮影禁止です。
洞窟探検のような感覚で入る人もいるとのことですが、多くの人がガマの中で亡くなったことを肝にめいじなければなりません。
ガマから出て、慰霊碑に黙とうをささげました。
昼食の後は「ひめゆりの塔」「ひめゆり平和祈念資料館」の見学へ。資料館の特別展示は学徒隊を引率した先生方についてでした。
多くの生徒を失いつつも自らは生き残った先生の痛苦の念が私たちの心に突き刺さります。
「あの場合は仕方なかったと、いくらいいわけをしてみても、それはいいわけにはならない。日本国家全体が犯した罪が、具体的には自分を通じてあらわれたのである」
ある生き残った先生の言葉です。
私たち自身の言葉として、戦争を繰り返さないことを誓わなければなりません。
沖縄戦で米軍に追い詰められた人々が最後にたどり着いた荒崎海岸へ。
残り2泊は沖縄市のホテルニューセンチュリーです。米軍関係者も出張でよく利用しています。
沖縄市は「基地の街」の現状や雰囲気に触れることができる街です。
夕食はタコスを食べ、その後、嘉手納基地のゲート前の旧Aサインバー「オーシャン」で楽しく交流しました。
最後は沖縄そばでしめました。
◆5月15日(日)…4日目
この日の午前中は平和行進南コースに参加。
ヒロジさんが行進団に熱い檄を飛ばしています。
右翼の執拗な嫌がらせをはねのけながら行進を貫徹しました。行進は2500人の参加とのことでした。
新都心公園で「いのちと暮らしを守る県民大会」に参加です。
沖縄選出の国会議員のあいさつです。社民党の照屋衆議院議員、生活の党の玉城衆議院議員、沖縄社会大衆党の糸数参議院議員です。
「勝つまでずっと諦めぬこと」
団結ガンバローと「沖縄を返せ」で県民大会と平和行進を締めくくりました。
みんな元気にがんばりました。
昼食はイオンモール沖縄ライカムで。米軍の泡瀬ゴルフ場の跡地にできた商業施設です。
こんなものができたら周辺の昔からの商店は商売あがったりですね。
夕方は沖縄市内のフィールドワークを行いました。沖縄市の歴史の資料館の見学や、基地ゲート前の視察を行いました。
夕食はステーキ屋さんです。基地の街の文化にも触れることができた「旅」でした。
◆5月16日(月)…5日目
ホテルをチェックアウトして「道の駅かでな」へ。空軍嘉手納基地を視察しました。
「道の駅かでな」2階のUPKITTYというレストランをお借りして解団式。5日間の「旅」を振り返りました。
この後、バスで那覇空港に戻り、解散となりました。
「旅」の詳細については、ニュース等でお返ししたいと思います。
参加したみなさん、送り出してくださった職場、労組、実行委員会のみなさん、ありがとうございました。
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。