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2023年08月29日

関東大震災における朝鮮人虐殺の実相をまなぶ

今年9月1日で、相模湾を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震とその後の社会的な混乱のなかで10万5千人の死者・行方不明者が発生した関東大震災の発生から100年を迎えます。
大地震の発生の直後から、被災地や周辺地域で「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が暴動を起こした」といった流言やデマが広がり、軍隊、警察、「自警団」によって6千人とも言われる朝鮮人が虐殺されました。中国人も700人以上が殺害され、福田村事件のように朝鮮人と間違われた日本人も虐殺の対象となりました。さらに「亀戸事件」「甘粕事件」のように労働運動の活動家、社会主義者や無政府主義者が殺害されました。
ちなみに、東京大学情報学環の橋元良明教授によると、「流言」とは(1)実態を持つある人物や組織、事象をめぐる、(2)パーソナルコミュニケーション=口コミやネットによる、(3)私的で、(4)責任の所在が明らかでない、(5)一過性の、(6)未確認に、広がっていく情報とのことです。「デマ」は、「デマゴギー」という言葉からも分かるように、誰かがウソだと分かっていて意図的に広げるものです。ただし、デマを本当だと信じて広める人もいるので、デマも広い意味では流言に含まれるという解釈もあるとのことです。

朝鮮人虐殺を隠蔽・矮小化したい勢力が、朝鮮人虐殺の真相を明らかにしようとする市民の運動への攻撃を強めています。大震災と虐殺事件が発生してから50年となる1973年以降、9月1日に開催される追悼式典に歴代の都知事名での追悼文が必ず寄せられていましたが、2017年以降は小池都政の下でそれがなくなってしまっています。
平和友好祭では過去の歴史における日本の「加害」の事実をまなぶことを重要視しています。関東大震災の朝鮮人虐殺の事実を若い世代がまなぶことが必要です。8月24日(木)午後にフィールドワークを行いました。

関東大震災における朝鮮人虐殺の実相をまなぶ
まず、14時に両国の横網町公園に集合しました。
1922年に東京市が陸軍被服廠跡地を買収し、公園の造成を進めていたところに関東大震災が発生しました。まだ空き地だったために周辺から多くの人々が避難したものの、火災により3万8千人もの犠牲者が出た場所です。その後、この場所が1930年9月1日に横網公園として開園し、翌年には復興記念館が完成しました。
今回は在日本朝鮮青年同盟の仲間の案内で、朝鮮大学校の研究員の李豊海さんから説明を受けながらの学習となりました。今回の投稿内容についても、その多くを李豊海さんの説明・解説を参考にしています。

関東大震災における朝鮮人虐殺の実相をまなぶ
関東大震災における朝鮮人虐殺の実相をまなぶ
関東大震災における朝鮮人虐殺の実相をまなぶ
公園内の復興記念館のわきには、震災時の火災の高熱で溶けた鉄や焼け残った自動車のフレームが展示されています。

関東大震災における朝鮮人虐殺の実相をまなぶ
1973年9月29日に除幕式が行われた「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」は、朝鮮人虐殺の事実を記して日本人が建立した最初の追悼碑という意義があります。
関東大震災50年にあたり、日朝協会の渡辺佐平会長、演劇の演出家であり俳優の千田是也、仏教徒・平和運動家の壬生照順、そして東京都議会の全会派の代表により実行委員会が結成され、この追悼碑が建立されました。
しかし、碑文に虐殺を実行した主体が明記されなかったという限界もあります。とくに、軍隊と警察という官憲が虐殺行為の主体として明記されず、日本の国家責任を問うものにはなりませんでした。東京都との交渉過程で「官憲」の文字を入れることができなくなったとのことです。
以下がこの横網町公園の追悼碑の碑文です。

一九二三年九月発生した関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言飛語のため六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。私たちは、震災五十周年を迎え、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎になると信じます。思想、信条の相違を越えて、この碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、日本と朝鮮民族の永遠の親善の力となることを期待します。 一九七三年九月 関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会

この追悼碑建立の実行委員会に関わった俳優の千田是也は、関東震災の発生時は19歳で、千駄ヶ谷に住んでいました。震災発生翌日の9月2日夜、「朝鮮人集団が日本人を襲っている」という噂を聞きつけ、杖を手に街に飛び出した是也は、逆に朝鮮人に間違えられて竹やりやこん棒で武装した日本人に小突きまわされてしまいました。たまたま是也を知る人がいて解放されたものの、この経験が彼に大きな影響を与えました。是也はのちに「私も加害者になっていたかも知れない。その自戒を込めて、センダ・コレヤ、つまり千駄ヶ谷のコレヤン(Korean)という芸名を名乗ったのだ」と語っています。

関東大震災における朝鮮人虐殺の実相をまなぶ
外は暑いので、見学を兼ねて東京都慰霊堂の中で引き続き豊海さんのお話を聞きました。
1930年に落成した東京都慰霊堂には、1923年の関東大震災の犠牲者、そして1945年の東京大空襲の犠牲者のお骨が納められています。
大震災と戦争による空襲のどちらにおいても下町に集中して大きな被害が出た事実があります。
毎年、関東大震災が起きた9月1日と、東京大空襲の3月10日の年2回、慰霊の法要が行われています。

関東大震災における朝鮮人虐殺の実相をまなぶ
東京都復興記念館も見学しました。100年前の大震災の被害状況を示した写真を見ることができます。

その後、地下鉄と京成電鉄を乗り継ぎ、八広駅まで移動しました。
駅から歩いて2分ほどのところに事務所のある、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」(略称ほうせんか)に向かいました。

関東大震災における朝鮮人虐殺の実相をまなぶ
関東大震災における朝鮮人虐殺の実相をまなぶ
「ほうせんか」の事務所の庭には2009年9月に建立された「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼碑」があります。この碑の碑文は横網町講演の追悼碑とは違い、虐殺の主体、加害者が誰であったかをはっきり示しています。
以下が碑文の内容です。

一九二三年関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言飛語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された。東京の下町一帯でも、植民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知られぬまま尊い命を奪われた。この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの日を建立する。二〇〇九年九月

あわせて、追悼碑の傍にある解説版の文章も以下に紹介します。

1910年、日本は朝鮮(大韓帝国)を植民地にした。独立運動は続いたが、そのたび武力弾圧された。過酷な植民地政策の下で生活の困窮がすすみ、1920年代にはいると仕事や勉学の機会を求め、朝鮮から日本に渡る人が増えていた。
1923年9月1日 関東大震災の時、墨田区では本所地域を中心に大火災となり、荒川土手は避難する人であふれた。「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が攻めてくる」等の流言飛語がとび、旧四ツ木橋では軍隊が機関銃で韓国・朝鮮人を撃ち、民衆も殺害した。
60年近くたって荒川放水路開削の歴史を調べていた一小学校教員は、地元のお年寄り方から事件の話を聞いた。また当時、犠牲者に花を手向ける人もいたと聞いて、調査と追悼を呼びかけた。震災後の11月の新聞記事によると、憲兵警察が警戒する中、河川敷の犠牲者の遺体が少なくとも二度掘り起こされ、どこかに運び去られていた。犠牲者のその後の行方は、調べることができなかった。
韓国・朝鮮人であることを理由に殺害され、遺骨も墓もなく、真相も究明されず、公的責任も取られずに86年が過ぎた。この犠牲者を悼み、歴史を省み、民族の違いで排斥する心を戒めたい。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う、民間の多くの人々によってこの碑は建立された。
2009年9月 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会 グループほうせんか

関東大震災における朝鮮人虐殺の実相をまなぶ
これが荒川土手の上から見た「ほうせんか」の事務所です。追悼碑は左側の庭の奥にあります。

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旧四ツ木橋があった場所で「ほうせんか」の西崎さんからお話をうかがいました。

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地震の後に大火災が起きていた現在の墨田区方面からこの道を通って多くの人々が逃げたそうです。この道は地震による崩壊を免れた旧四ツ木橋に続いていました。その四ツ木橋を避難する人々を自警団が誰何して朝鮮人を探し出し、さらに荒川放水路沿いで軍隊が朝鮮人を機関銃で殺害した証言が多く残されています。

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旧四ツ木橋の写真です。

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関東大震災における朝鮮人虐殺の実相をまなぶ
河川敷に降り、虐殺された朝鮮人や、亀戸事件で殺害された社会主義者の遺体が埋められた場所でお話を聞きました。
虐殺が行われたのは旧四ツ木橋付近だけではありません。東京だけでなく関東一円でも記録が残されています。そして、日本の学校教育で使用されている歴史教科書では、朝鮮人虐殺について「自警団」が行った行為として記述されていますが、そこに警察や軍隊が関与していた事実を踏まえる必要があります。
中公新書の「民衆暴力-一揆・暴動・虐殺の日本近代」という本で、藤野裕子さんは以下のように述べています。
「国家の責任が重大であることは前提であるが、朝鮮人を殺す側に回った日本民衆については、どのように考えればよいのだろうか。国家によって操られた被害者と捉えるのは間違いだろう。実際に手を下した人びとは、まぎれもなく加害者である。重要なのは、(中略)どのようにして殺害に至ったのか、その論理を明らかにすることである」

関東大震災における朝鮮人虐殺の実相をまなぶ
現代書館から2016年に西崎さんがまとめた証言集が発刊されています。歴史修正主義に対する反撃であり、日本人が自らの加害の歴史と向き合うために必須の書です。

「ほうせんか」という団体名は「鳳仙花」という歌をもとにしています。

李政美さんが歌う「鳳仙花」が動画サイトにありました。

https://housenka.jimdofree.com/
以上が「ほうせんか」のホームページです。ぜひご覧ください。

西崎さんのお話を聞き、「語り継ぐ」という平和友好祭運動の課題に対する重要な示唆をいただいたように感じました。直接の当事者ではなくても歴史と真摯に向き合い、「後事の師」としなければなりません。
いま日本では歴史修正主義がさまざまな形態をとってその影響を強めつつあります。排外主義にもとづく「流言」「デマ」がSNSを通じて簡単に広められている現実があります。「戦争に反対する」という体裁を取りつつ、歴史修正主義と戦後平和運動の解体・清算に無自覚に加担している人々もいます。
平和友好祭でも、青年たちが差別や排外主義とたたかうために今後もフィールドワークや学習と交流の機会を持ちたいと思います。


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