2024年02月15日
第56回全国青年団結集会に330人の仲間が結集
第56回全国青年団結集会が2月3日から4日にかけて長野県千曲市で開催されました。30都道府県から330人の仲間が参加しました。産別としては、自治労(都市交、消防協含む)、私鉄総連、日教組、林野労組、国労、全水道、全農林、労金労組、ヘルスケア労協、JAM、電機連合、新聞労連、全労協全国一般の仲間たちの参加でした。

「コロナ禍」がウソのような「密」ぶり。青年労働者や女性労働者の交流の機会が奪われていた3年間は、日本労働運動にとって不要な損失だったと感じました。
締めくくりはみんなで元気にインターナショナル斉唱と団結ガンバロー。それぞれの職場・地域で青年部運動、女性部運動をがんばる力を得て、ひとまわりたくましくなって職場に戻りました。
「コロナ禍」がウソのような「密」ぶり。青年労働者や女性労働者の交流の機会が奪われていた3年間は、日本労働運動にとって不要な損失だったと感じました。
締めくくりはみんなで元気にインターナショナル斉唱と団結ガンバロー。それぞれの職場・地域で青年部運動、女性部運動をがんばる力を得て、ひとまわりたくましくなって職場に戻りました。
2024年01月29日
AFCアジアカップでパレスチナ代表がベスト16に進出!
現在、カタールでAFCアジアカップ2023が行われています。
パレスチナ代表がグループステージを1勝1分1敗で通過し、16カ国代表によるノックアウトステージに進出しました。

各試合のハイライトが動画サイトで公開されています。AFCのアカウントが投稿した動画は掲示板への貼り付けができないようです。
パレスチナ 1-4 イラン
パレスチナ 1-1 UAE
パレスチナ 3-0 香港
選手やサポーターが試合前にパレスチナのアンセムを歌う姿も感動的でした。
パレスチナ代表には、ガザ地区から参加したムハンマド・サラーハ選手、そしてイスラエルのクラブでプレーしている選手もいます。国際大会でパレスチナ代表がノックアウトステージに進出する活躍を見せていることが、戦火の下にいる人々をどれだけ勇気づけていることでしょうか。
事務局は先日、駐日パレスチナ代表部のヒシャム・ナサール参事官と同席する機会があり、直接にアジアカップにおけるグループステージ突破に祝意を伝えたかったのですが、電話の対応をしている間にお帰りになってしまいました。
事務局は動画サイトでのハイライトしか見ていないのですが、パレスチナ以外の試合も本当に面白い内容です。ハードワークとテクニックが同居する中東のサッカー、ソ連から引き継いだヨーロッパ・サッカーのにおいがそこはかとなく漂うタジキスタン、ウズベキスタン、キルギスなど中央アジア諸国、世代交代が進む韓国代表、粗削りなFP陣を優秀なGKが支える(どうやって育成したんだ)中国代表、グループステージは全敗ながら4得点をあげて今後ののびしろしか感じないベトナム代表など、見どころがたくさんありました。日本代表の試合だけに注目するのは本当にもったいないことです。

日本代表はベトナムとインドネシアに勝利、イラクに敗れて2勝1敗となり、グループステージを2位で通過となりました。ベトナム戦での2失点、イラク戦での敗北に関して、GKの鈴木彩艶選手にその責めを負わせる意見が多いようです。すべてのGKは失点に責任を感じるものですが、すべての失点はGKだけの責任ではありません。SNSでは鈴木選手を標的にした差別的な内容の投稿もあり、サッカーと人権における日本の後進国ぶりがきわめて腹立たしい形で表面化しています。
ちなみに事務局は日本代表をこれっっっっっっぽっっっっっっちも応援していませんが、かつて競技サッカーのGK経験者の端くれとして鈴木彩艶選手と前川黛也選手はめちゃくちゃ大好きです。本当に応援しています。
こんなゴールキック蹴りたいです。
パレスチナ代表がグループステージを1勝1分1敗で通過し、16カ国代表によるノックアウトステージに進出しました。
各試合のハイライトが動画サイトで公開されています。AFCのアカウントが投稿した動画は掲示板への貼り付けができないようです。
パレスチナ 1-4 イラン
パレスチナ 1-1 UAE
パレスチナ 3-0 香港
選手やサポーターが試合前にパレスチナのアンセムを歌う姿も感動的でした。
パレスチナ代表には、ガザ地区から参加したムハンマド・サラーハ選手、そしてイスラエルのクラブでプレーしている選手もいます。国際大会でパレスチナ代表がノックアウトステージに進出する活躍を見せていることが、戦火の下にいる人々をどれだけ勇気づけていることでしょうか。
事務局は先日、駐日パレスチナ代表部のヒシャム・ナサール参事官と同席する機会があり、直接にアジアカップにおけるグループステージ突破に祝意を伝えたかったのですが、電話の対応をしている間にお帰りになってしまいました。
事務局は動画サイトでのハイライトしか見ていないのですが、パレスチナ以外の試合も本当に面白い内容です。ハードワークとテクニックが同居する中東のサッカー、ソ連から引き継いだヨーロッパ・サッカーのにおいがそこはかとなく漂うタジキスタン、ウズベキスタン、キルギスなど中央アジア諸国、世代交代が進む韓国代表、粗削りなFP陣を優秀なGKが支える(どうやって育成したんだ)中国代表、グループステージは全敗ながら4得点をあげて今後ののびしろしか感じないベトナム代表など、見どころがたくさんありました。日本代表の試合だけに注目するのは本当にもったいないことです。
日本代表はベトナムとインドネシアに勝利、イラクに敗れて2勝1敗となり、グループステージを2位で通過となりました。ベトナム戦での2失点、イラク戦での敗北に関して、GKの鈴木彩艶選手にその責めを負わせる意見が多いようです。すべてのGKは失点に責任を感じるものですが、すべての失点はGKだけの責任ではありません。SNSでは鈴木選手を標的にした差別的な内容の投稿もあり、サッカーと人権における日本の後進国ぶりがきわめて腹立たしい形で表面化しています。
ちなみに事務局は日本代表をこれっっっっっっぽっっっっっっちも応援していませんが、かつて競技サッカーのGK経験者の端くれとして鈴木彩艶選手と前川黛也選手はめちゃくちゃ大好きです。本当に応援しています。
こんなゴールキック蹴りたいです。
2024年01月17日
阪神淡路大震災から29年
1月17日は阪神淡路大震災の発生から29年め。神戸市民だった事務局には忘れられない日です。
以下は震災発生当日の写真です。







この日の午前5時46分に事務局は中学時代の友人たちと神戸港にいました。変わり果てた街を歩き、最後は大学の友人が車で山麓バイパスを通って迎えに来てくれました。郊外にある友人の下宿にたどり着いたのは夜になってからでした。
友人の車を待つ間だったと思いますが、見知らぬ10数人と人たちと文字通り身を寄せ合って崩れそうなビルの陰にいたとき、大きな余震が起きました。その瞬間、事務局を含めその10数人がビルの陰からがれきだらけの道路にいっせいに飛び出しました。事務局も含めてみんなビルが崩れて下敷きになると思ったんですね。子どもの頃、学校の運動場の脇でプチっとつぶそうとしたアリンコとまったく同じ逃げ方でした。人間さまも虫けらもまったく同じ存在です。「死」への恐怖は一個の生物に本能的に備わっているものであることを感じました。「死」を美化することはできません。
西宮出身のあいみょんがソウルフラワーユニオンの「満月の夕べ」をカバーしています。
あいみょんは当時はおかあさんのお腹の中にいたとのこと。
あの日は満月だったんですね。事務局も夜空を見上げたはずですが、真っ暗な街しか印象に残っていません。







これらは後日の写真です。
神戸にはたくさんのボランティアの人びとが訪れました。
「被災者のために」「被災地のために」
しかし、地震の発生から日が経ち、住宅の確保、雇用の確保が問題になり始めたとき、彼らのほとんどが被災地からいなくなりました。政治闘争、経済闘争が「被災者のため」に必要であっても、彼らが「やりたいこと」ではなかったのでしょう。「ボランティアは政治に中立」という言葉を使った人もいました。要するに、政治的に「中立」を装って被災者が抱える問題から目を背けることがボランティアという行為の最大の政治性だったのだと思います。「被災者生活再建支援法」は被災者自身の奮闘で1998年に成立させたものです。
振り返って、2011年に発生した東日本大震災の後、本当に多くの人が脱原発の集会に集ったのは、その「多くの人」にとって「原発事故」「放射能汚染」が自分ごとになったからではないでしょうか。
「1月17日」は強いトラウマでもあり、同時に不思議な懐かしさを覚える日でもあります。震災をきっかけにいろんな出会いがあり、いろんな経験をしました。震災は事務局の人生を規定しています。

「ともに」という言葉は能登半島地震の被災地に向けられているそうです。
以下は震災発生当日の写真です。







この日の午前5時46分に事務局は中学時代の友人たちと神戸港にいました。変わり果てた街を歩き、最後は大学の友人が車で山麓バイパスを通って迎えに来てくれました。郊外にある友人の下宿にたどり着いたのは夜になってからでした。
友人の車を待つ間だったと思いますが、見知らぬ10数人と人たちと文字通り身を寄せ合って崩れそうなビルの陰にいたとき、大きな余震が起きました。その瞬間、事務局を含めその10数人がビルの陰からがれきだらけの道路にいっせいに飛び出しました。事務局も含めてみんなビルが崩れて下敷きになると思ったんですね。子どもの頃、学校の運動場の脇でプチっとつぶそうとしたアリンコとまったく同じ逃げ方でした。人間さまも虫けらもまったく同じ存在です。「死」への恐怖は一個の生物に本能的に備わっているものであることを感じました。「死」を美化することはできません。
西宮出身のあいみょんがソウルフラワーユニオンの「満月の夕べ」をカバーしています。
あいみょんは当時はおかあさんのお腹の中にいたとのこと。
あの日は満月だったんですね。事務局も夜空を見上げたはずですが、真っ暗な街しか印象に残っていません。







これらは後日の写真です。
神戸にはたくさんのボランティアの人びとが訪れました。
「被災者のために」「被災地のために」
しかし、地震の発生から日が経ち、住宅の確保、雇用の確保が問題になり始めたとき、彼らのほとんどが被災地からいなくなりました。政治闘争、経済闘争が「被災者のため」に必要であっても、彼らが「やりたいこと」ではなかったのでしょう。「ボランティアは政治に中立」という言葉を使った人もいました。要するに、政治的に「中立」を装って被災者が抱える問題から目を背けることがボランティアという行為の最大の政治性だったのだと思います。「被災者生活再建支援法」は被災者自身の奮闘で1998年に成立させたものです。
振り返って、2011年に発生した東日本大震災の後、本当に多くの人が脱原発の集会に集ったのは、その「多くの人」にとって「原発事故」「放射能汚染」が自分ごとになったからではないでしょうか。
「1月17日」は強いトラウマでもあり、同時に不思議な懐かしさを覚える日でもあります。震災をきっかけにいろんな出会いがあり、いろんな経験をしました。震災は事務局の人生を規定しています。
「ともに」という言葉は能登半島地震の被災地に向けられているそうです。
2023年12月31日
民青連総評議会で7年ぶりにレバノンへ
※これは2023年12月ではなく、2022年12月の報告です。
世界民主青年連盟の第20回総会は2019年12月にキプロスで開催されました。以下のリンクは当時の報告です。
その後は「新型コロナウイルス」をめぐるパンデミックの影響で民青連の中央委員会にあたる総評議会が開催されないままでした。地域委員会も同様です。2022年に入ると徐々に各国の加盟団体の動きが活発化し、「アジア・太平洋」以外は各地域委員会が持たれました。これを受けて、2022年10月末に民青連本部から12月16日~18日にかけてベイルートで2022年度の総評議会を開催するとの連絡がありました。
年末の諸任務を検討し、12月15日(木)夜に羽田空港を出発し、トルコのイスタンブール経由で12月16日(金)午前中にベイルートに到着するターキッシュエアラインズの便を見つけました。ターキッシュエアラインズには2017年秋にソチで開催された世界祭典の際にもお世話になりました。帰りは、12月19日(月)夜にベイルートを出発、イスタンブール経由で12月20日(火)夜に羽田空港に到着する便でした。「いろんな国」のスタンプが捺してあるためかアメリカ入国でだいたいモメていた事務局のパスポートも10月末で期限切れだったので、更新の手続きを済ませました。

事務局の初めてのレバノン渡航は2010年3月。1991年まで続いた内戦、2006年のイスラエルによる侵攻が終わり、街のあちらこちらで新しいビルやモスクの建設が進むなど、復興に向けた明るい雰囲気が印象的でした。

レバノン南部のスール市、イスラエルとの国境のすぐ手前にあるレストランで賑やかなパーティーも行われました。

ところが、2回めに訪れた2015年4月は、シリア内戦や「イスラム国」がレバノン国内に勢力を伸ばすなど、たいへん緊張した情勢でした。アイネヘルウェ難民キャンプを訪問している最中に銃撃戦が発生し、何人かが死んだという知らせを受けました。ショックから立ち直るのに少々の時間が必要でした。
これが7年前の報告です。
今回、つまり3回めのベイルート訪問は、7年前の体験の清算のような気持ちがありました。事前にレバノン民主青年連盟の同志に連絡し、総評議会の日程中にパレスチナ難民キャンプを訪問して子どもたちにサッカーボールをプレゼントしたいと相談したところ、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)の仲間を紹介してくれました。というわけで、池袋のKAMOショップで購入したワールドカップモデルのサッカーボール(4号球)4つを抱えて12月15日(木)夜に羽田空港を出発するターキッシュエアラインズに乗りました。今回は実に3年ぶりの海外での任務でもありました。

USドルとEUROへの両替は羽田空港で。1ドル139円でした。円安を強く実感させられるレートでした。1ドル=80円くらいのときにたくさん買っておけば良かったです。

ターキッシュエアラインズのチェックインカウンターは大混雑でした。イスタンブールからの乗り継ぎでヨーロッパや中東に向かう人が多いようでした。チェックインは業務委託で日本航空の社員さんが担当していました。

ついに出発です。機内で飲もうと思って売店で伊藤園のペットボトル入り「濃い茶」(600ml)を2本買いました。
まず、羽田からイスタンブールまで13時間半のフライトです。機内では日本語、トルコ語、ロシア語など、いろいろな言語での会話が聞こえました。機内食を食べながら映画を1本観てから狭いシートで眠りにつきました。目が覚めると飛行機は砂漠の上を飛んでいました。月光が砂漠を白く照らし出していました。砂漠の夜がこんなに明るいとは思ってもみませんでした。「月の砂漠」の歌を思い出しました。

砂漠の真ん中に異国の見慣れぬ街灯りが見えました。夢の中にいるような、とても不思議な気持ちでした。

イスタンブールでの乗り継ぎ時間はわずか1時間半。保安検査の通過に予想外の時間がかかりました。ペットボトル飲料は保安検査を通過できないとのことで、残っていた「濃い茶」を1本まるごとがぶ飲みしました。

ダッシュして乗り継ぎ便のゲートにギリギリで到着。カウンターのおねえさんに「お前は遅れたから乗れない」と言われたものの、ケンカしたおかげで何とかベイルート行きの便に乗れました。

機内から美しい朝焼けが見えました。



イスタンブールからベイルートまではキプロス島上空を通過します。ちょうど3年前、「コロナ禍」前の最後の海外での任務がキプロスでした。ついこの前のことのような感じでした。本当にいろいろあった3年間でした。

現地時間で12月16日午前中にベイルートのラフィク・ハリリ国際空港に着陸。ベイルート着の飛行機に乗るときは、進行方向に向かって左側=「A」の座席に座るとベイルートの高層ビル街や海岸を見下ろすことができます。

空港に出迎えが来ていません。東洋人のあんちゃんが一人でキョロキョロしていると、タクシーの運転手さんたちから「どこに行くのか」「俺の車に乗れ」と次々と声をかけられました。


携帯電話で連絡すると、レバノン共産党の仲間が迎えに来てくれました。車中でいろいろと話ができました。国会議員選挙では、共産党の候補としてレバノン南部の選挙区から立候補したそうです。レバノンでは日本に良いイメージがあり、「だから、僕も日本メーカーの車に乗っているんだよ」とのことでした。
また、彼は「レバノンでは今も日本赤軍のコーゾー・オカモトは英雄だ」といった話もしていました。1972年のリッダ闘争の翌年、参議院議員だった山口淑子さんがベイルートのパレスチナ難民のキャンプを訪れたとき、パレスチナの女性が山口さんに赤ん坊を差し出し、「この子をコーゾー・オカモトのようなのような勇敢な戦士に育ててほしい」と訴えたという話を思い出しました。

そんなこんなで、何とか会議および宿泊場所の「ミッドタウンホテル&スイーツ」に到着しました。すでに会議は始まっていました。「政治宣言」をめぐる議論は17日の深夜にまで及びました。とくにロシアによるウクライナ侵攻についてさまざまな意見が出ていました。ヨーロッパの青年団体ではウクライナ戦争をEU・NATOとロシアによる帝国主義間の勢力争いと見る意見が多かったように感じました。ロシアからはコムソモールの後継の2つの団体が参加しており、一方の団体はヨーロッパの仲間たちの意見におおむね賛同しつつ、もう一方の団体からは帝国主義間の勢力争いという見方ではこの間のウクライナ自体の政治状況が見えないという指摘がありました。
また、事務局はブラジル、エリトリア、スイスの仲間と2国間交流を行いました。ブラジルの仲間からはルラ大統領の再選をめぐる情勢、エリトリアの仲間からは祖国建設の努力、スイスの仲間からは青年たちの間での支持拡大の努力について、報告を受けました。







スリランカの仲間たちが政治犯の釈放を求める横断幕へのメッセージとサインの記入を呼びかけていました。




PCのマウスを日本に置いてきたので、どこかで売っていないかと思ってホテルの周辺を歩きまわりました。街はクリスマスの雰囲気でした。パレスチナやレバノンではイスラム教徒もイベントとしてのクリスマスを楽しんでいるそうです。

土産物でもないかと立ち寄ったおしゃれな雰囲気の食料品店で日本の食品が売っていました。お店の方がいろいろと熱心に説明してくれました。

ベイルートはお寿司屋さんがけっこうあります。いわゆる「カリフォルニアロール」のような感じのメニューが多いようです。食べたことがないので美味しいかどうかは分かりません。


ついにマウスを見つけました。安かったですが、使いやすさとしては微妙でした。

17日早朝は会議の開始までホテルの周辺に散歩に出かけました。

面白いデザインの集合住宅がありました。

街のあちこちにネコちゃんたちがたくさんいました。「なんかくれるの?」という感じで寄ってきます。

ホテルの玄関にサンタさんがいました。ベイルートはキリスト教徒とイスラム教徒が共存する街です。

使い込まれた立派なカーペットが干してありました。
気になったのは、街から国軍の兵士や武装警察の姿がなくなったかわりに、物乞いの姿を多く見かけるようになったことでした。通りを歩いていると、道端の高齢者や子どもからおカネをめぐむよう声をかけられました。深刻な経済破綻の現状を実感させられました。



お店では美味しそうなパンやピザが売られていました。

朝食用に一つ買ってみました。ゴマ味のペーストが挟まれていてとてもおいしかったです。しかし、実は事務局は11月に奥歯の治療に失敗し、出発直前から痛みがひどくなっていたため、出発前に買ったロキソニンで痛みをごまかしていました。このときも気を付けて咀嚼しないと奥歯に激痛が走りました。せっかくの美味しい食事がもったいなかったです。歯の健康は大事ですね。

これは18日朝にホテルでいただいた朝食です。カレー味のスープです。テーブルで一緒だったロシアの青年同盟の仲間が「これはキリスト教徒がクリスマスの時期に食べるスープなんだ」と説明してくれました(ロシア語ではスープは「食べる」ものなのです)。



18日午前中はレバノン共産党の事務所で役員から講演を受けました。レバノンの経済破綻について帝国主義の責任を追及していました。



事務所のビルの壁にはいろんなポスターが貼ってありました。ゲバラはやはり英雄なのですね。

続いて、ベイルート市内にあるパレスチナ難民キャンプの一つ、シャティーラキャンプを訪れました。こちらはシャティーラキャンプの南側の入口です。にぎやかなバザールになっています。



バザールはたくさんの人たちでとても活気にあふれていました。



バザールの脇にある、40年前に起きた「サブラ・シャティーラキャンプの虐殺」の慰霊碑がある広場で集会を持ちました。
民青連やレバノンの仲間たちからパレスチナ解放に向けた決意表明を受けました。

この男の子はシリアから避難してシャティーラキャンプで暮らしているそうです。


バスでシャティーラキャンプの別の入口まで移動しました。







キャンプ内の様子です。

7年前に訪れたアイネヘルウェでもそうでしたが、キャンプではたくさんの子どもたちの姿を見かけます。





続いて、シャティーラキャンプ内のPFLPの集会所でこの間のパレスチナ難民をめぐる情勢について報告を受けました。今回はDFLP(パレスチナ解放民主戦線)の兵士が警護についてくれました。PFLPの事務所をDFLPの兵士たちが警護している様子はなかなか興味深いですね。

この建物はキャンプ内で暮らす子どもたちのために国連が設立した学校だそうです。

ちょっとだけ子どもたちと交流できました。

ベイルートの街が夕闇に覆われます。
キャンプからレバノン民主青年連盟の事務所に移動し、夕食交流となりました。

みんなでスマホにかぶりついてサッカーのワールドカップ決勝、フランスvsアルゼンチンを観戦しました。盛り上がりました。
事務局はサッカーが大好きな一方、ワールドカップは好きではありませんでした。「国」対「国」という構図のなかで排外主義的な言動が聞かれることにウンザリさせられるからです。でも、世界中から仲間が集まって一緒にワールドカップの決勝を観るのは素敵な経験になったなと思いました。




夕食交流の後、いったんホテルに戻りました。ホテルの周辺のお店もワールドカップ一色、という雰囲気でした。レバノンの旧宗主国であるフランスではなく、アルゼンチン推しの人が圧倒的に多いようでした。試合終了したとたん、街のあちらこちらで歓声が沸き起こり、さらに銃声が轟いていました。喜びの表現方法にビックリさせられました。

表彰式の様子をホテルのロビーにあるテレビを通じて見守りました。

さて19日になりました。ここはレバノンの最高学府であるベイルート・アメリカン大学(AUB)付属病院です。事務局はコロナワクチン未接種だったため、この時点では日本への帰国前にPCR検査を受けて陰性証明を携行する必要がありました。ちなみに、未接種だったのは別に「反ワクチン」というわけではなく、副反応で苦しむのが嫌でサボっていただけです。
出発前にターキッシュエアラインズに問い合わせたところ、「イスタンブール空港内でPCR検査が受けられます」と言われていました。しかし、帰国時のイスタンブールでの乗り継ぎ時間は2時間半なので検査は無理。つまり、ベイルートにいる間に検査を済ませなければなりません。レバノンでパレスチナ難民の支援活動を続けている日本の市民団体の方に聞くと、「ベイルート市内は医療機関がたくさんあって、PCR検査が簡単に受けられる。結果もメールで届くから便利だよ」と言われていました。
ベイルート到着時に確認した限りでは、空港内に検査を受けられる施設はなさそうでした。その後、総評議会の期間中、レバノン民主青年連盟の同志たちに「PCR検査、PCR検査、PCR検査……」と言い続けたおかげで、やっと19日にホテルの近くのベイルート・アメリカン大学附属病院に連れて行ってもらうことになりました。
レバノン民青の同志が付き添ってくれたおかげで何とか受付を済ませることができました。患者登録してアカウントが割り振られました(またベイルートに来てこの病院にお世話になるのか分かりませんが…)。検査してくれた看護師さんには「発熱していないの? 体調が悪いわけでもないのに、なぜPCR検査を受けに来たの?」と言われました。結果はこの日の16時にウェブサイト上で確認できるとのことで、いったんホテルに戻りました。

この日は日本から持参したサッカーボールをパレスチナ難民キャンプの子どもたちにプレゼントするために、昨日に引き続いてシャティーラ・キャンプに行きました。PFLPの活動家のアリ君がバイクで迎えに来てくれました。上の写真はアリ君のバイクが調子が悪いので、そのへんにいた人たちがあれやこれやと言いながら直している様子です。アラブの人たちはとても親切です。
ホテルからキャンプまではアリ君のバイクの後ろに乗りました。ノーヘルのまま後部座席から落ちそうでヒヤヒヤしましたが、楽しい体験でした。上の動画はバイクではなくバスの車内から見たベイルートの街の様子です。


まずはキャンプ内のPFLPの事務所でごあいさつ。やっぱりポスターがたくさん貼ってありますが、事務局はアラブ語が分からないので何のポスターか分かりません。ところが、ベイルート市内にはときどきロシア語の表記があったり、ロシア語を話している人たちがいました。





あらためてキャンプ内を移動し、別のPFLPの事務所で子どもたちの到着を待ちました。

先日と同じPFLPの集会所で子どもたちにサッカーボールを渡すことができました。ワールドカップ・モデルのデザインです。レバノン民青の同志からは「わざわざ東京から持って来なくても、ベイルート市内のスポーツ店で1つ20ドルで買えたのに」と突っ込まれました。確かにそうかも。

少しだけですが、広場で一緒にサッカーボールを蹴りました。

白内障の少年がいました。日本のゲームキャラのトレーナーを着ていました。彼が治療を受けるのは難しいのでしょうか。「少しばかりサッカーボールを持ってきたからといって良い気になるなよ」と言われているようでした。結局は、私に何ができるのかを7年前とは違う形で突き付けられることになったように思います。

キャンプの別の場所でもやっぱり子どもたちがサッカーボールを蹴っていました。

小さなきょうだいが上から興味津々の様子で事務局を見下ろしていました。ベイルートでは東洋人を見かけることはあまりないのかも知れません。


キャンプのはずれの高層住宅にあるアリ君の自宅に案内してもらいました。アリ君は新婚ホヤホヤで、この3カ月後に結婚式を控えていました。新しいテレビをはじめ家具、きれいなカーペットなど、ほほえましい新婚生活を垣間見ることができました。アリ君のおつれあいがフルーツの盛り合わせを出してくれ、アリ君がオレンジの皮をむいて事務局に食べさせてくれました。2人の素朴でも温かい歓待を一生忘れることはないでしょう。そして、新しい門出を迎える2人のこれからに幸多からんことを願わずにはいられませんでした。

アリ君にバイクでホテルまで送ってもらいました。キャンプの外のスタンドでバイクに給油するアリ君です。
PANTAの「ライラのバラード」です。2015年にベイルートから帰った後に出会った歌です。またベイルートに来ることがあったら、キャンプで聴きたいと思っていました。それがかないました。

さて、ホテルでアメリカン大学附属病院からの検査結果の連絡を待ちますが、16時を過ぎてもウェブ上に表示されません。


レバノン民青の同志にお願いしてアメリカン大学付属病院まで連れて行ってもらい、直接に結果を確認することにしました。
陰性であることが受付で分かった後、陰性証明を書いてもらうのに病院内をあちらこちら移動し、最後は院長先生のサイン入りの書類をゲットできました。みなさんご協力ありがとうございました。



院長先生には「日本ではまだこんな書類が必要なのかよ」みたいに言われました。ベネズエラから来た同志もやはりPCR検査の結果が必要だったらしく、彼女はおそらく当初に乗るはずだった帰国の飛行機を逃したのではないかと思います。

無事にベイルート空港を出発。チェックインカウンターでは「PCR検査結果は持っている?」と聞かれただけで、実際に見せなくても乗せてくれました。上の写真は飛行機から見たイスタンブールの夜景です。このころにはロキソニンを使い果たし、解熱用に持っていたバファリンで歯痛をしのぐ状況でした。繰り返しになりますが、本当に歯の健康は大事ですね。
イスタンブールでの乗り継ぎの間に厚生労働省のサイト上で検疫のオンライン申告にチャレンジしましたが、うまくいきませんでした。結局、羽田空港では降機場所から遠く離れたターミナルの端でアメリカン大学付属病院で受け取った陰性証明を提示し、無事に帰国と相成りました。

3年ぶりに各国で奮闘する同志たちに再開できたレバノンでの総評議会でした。その後、2023年5月にキューバであらためて総評議会が開催されましたが、事務局は別任務があったため欠席しました。今年の暮れには第21回総会が開催されるはずでしたが、この報告を投稿する12月31日時点ではまだ招集はありません。「コロナ禍」が国際連帯活動にもたらした影響は大きかったと言えます。
そして、10月7日のハマスをはじめパレスチナの抵抗組織による蜂起以降、ガザ地区で激しい戦闘が続いています。戦禍はレバノンやシリアにも及んでいます。事務局が個人でできることの小ささを痛感させられています。反戦平和運動の波を大きく広げることが求められます。
昨年5月、イラク議会は自国民がイスラエルと接触することを禁止する法案を成立させました。イスラエルを訪問した国民には終身刑、政治的、経済的、文化的関係を確立した者には死刑が課せられるという厳しい内容です。そして先日、イラク首相が「主権への懸念」と「緊張の高まり」を理由にアメリカ軍とその同盟軍の駐留の終了に言及しています。アメリカはイラク戦争を通じて親米、親イスラエルの政治・社会体制をイラクに築くはずでした。しかし、現実にはそれとは違う方向に進んでいます。日本が誰とともに歩むのかを、私たちが考えなければなりません。
世界民主青年連盟の第20回総会は2019年12月にキプロスで開催されました。以下のリンクは当時の報告です。
2020/02/12
その後は「新型コロナウイルス」をめぐるパンデミックの影響で民青連の中央委員会にあたる総評議会が開催されないままでした。地域委員会も同様です。2022年に入ると徐々に各国の加盟団体の動きが活発化し、「アジア・太平洋」以外は各地域委員会が持たれました。これを受けて、2022年10月末に民青連本部から12月16日~18日にかけてベイルートで2022年度の総評議会を開催するとの連絡がありました。
年末の諸任務を検討し、12月15日(木)夜に羽田空港を出発し、トルコのイスタンブール経由で12月16日(金)午前中にベイルートに到着するターキッシュエアラインズの便を見つけました。ターキッシュエアラインズには2017年秋にソチで開催された世界祭典の際にもお世話になりました。帰りは、12月19日(月)夜にベイルートを出発、イスタンブール経由で12月20日(火)夜に羽田空港に到着する便でした。「いろんな国」のスタンプが捺してあるためかアメリカ入国でだいたいモメていた事務局のパスポートも10月末で期限切れだったので、更新の手続きを済ませました。

事務局の初めてのレバノン渡航は2010年3月。1991年まで続いた内戦、2006年のイスラエルによる侵攻が終わり、街のあちらこちらで新しいビルやモスクの建設が進むなど、復興に向けた明るい雰囲気が印象的でした。

レバノン南部のスール市、イスラエルとの国境のすぐ手前にあるレストランで賑やかなパーティーも行われました。
ところが、2回めに訪れた2015年4月は、シリア内戦や「イスラム国」がレバノン国内に勢力を伸ばすなど、たいへん緊張した情勢でした。アイネヘルウェ難民キャンプを訪問している最中に銃撃戦が発生し、何人かが死んだという知らせを受けました。ショックから立ち直るのに少々の時間が必要でした。
2015/06/21
今回、つまり3回めのベイルート訪問は、7年前の体験の清算のような気持ちがありました。事前にレバノン民主青年連盟の同志に連絡し、総評議会の日程中にパレスチナ難民キャンプを訪問して子どもたちにサッカーボールをプレゼントしたいと相談したところ、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)の仲間を紹介してくれました。というわけで、池袋のKAMOショップで購入したワールドカップモデルのサッカーボール(4号球)4つを抱えて12月15日(木)夜に羽田空港を出発するターキッシュエアラインズに乗りました。今回は実に3年ぶりの海外での任務でもありました。
USドルとEUROへの両替は羽田空港で。1ドル139円でした。円安を強く実感させられるレートでした。1ドル=80円くらいのときにたくさん買っておけば良かったです。
ターキッシュエアラインズのチェックインカウンターは大混雑でした。イスタンブールからの乗り継ぎでヨーロッパや中東に向かう人が多いようでした。チェックインは業務委託で日本航空の社員さんが担当していました。
ついに出発です。機内で飲もうと思って売店で伊藤園のペットボトル入り「濃い茶」(600ml)を2本買いました。
まず、羽田からイスタンブールまで13時間半のフライトです。機内では日本語、トルコ語、ロシア語など、いろいろな言語での会話が聞こえました。機内食を食べながら映画を1本観てから狭いシートで眠りにつきました。目が覚めると飛行機は砂漠の上を飛んでいました。月光が砂漠を白く照らし出していました。砂漠の夜がこんなに明るいとは思ってもみませんでした。「月の砂漠」の歌を思い出しました。
砂漠の真ん中に異国の見慣れぬ街灯りが見えました。夢の中にいるような、とても不思議な気持ちでした。
イスタンブールでの乗り継ぎ時間はわずか1時間半。保安検査の通過に予想外の時間がかかりました。ペットボトル飲料は保安検査を通過できないとのことで、残っていた「濃い茶」を1本まるごとがぶ飲みしました。
ダッシュして乗り継ぎ便のゲートにギリギリで到着。カウンターのおねえさんに「お前は遅れたから乗れない」と言われたものの、ケンカしたおかげで何とかベイルート行きの便に乗れました。
機内から美しい朝焼けが見えました。
イスタンブールからベイルートまではキプロス島上空を通過します。ちょうど3年前、「コロナ禍」前の最後の海外での任務がキプロスでした。ついこの前のことのような感じでした。本当にいろいろあった3年間でした。
現地時間で12月16日午前中にベイルートのラフィク・ハリリ国際空港に着陸。ベイルート着の飛行機に乗るときは、進行方向に向かって左側=「A」の座席に座るとベイルートの高層ビル街や海岸を見下ろすことができます。
空港に出迎えが来ていません。東洋人のあんちゃんが一人でキョロキョロしていると、タクシーの運転手さんたちから「どこに行くのか」「俺の車に乗れ」と次々と声をかけられました。
携帯電話で連絡すると、レバノン共産党の仲間が迎えに来てくれました。車中でいろいろと話ができました。国会議員選挙では、共産党の候補としてレバノン南部の選挙区から立候補したそうです。レバノンでは日本に良いイメージがあり、「だから、僕も日本メーカーの車に乗っているんだよ」とのことでした。
また、彼は「レバノンでは今も日本赤軍のコーゾー・オカモトは英雄だ」といった話もしていました。1972年のリッダ闘争の翌年、参議院議員だった山口淑子さんがベイルートのパレスチナ難民のキャンプを訪れたとき、パレスチナの女性が山口さんに赤ん坊を差し出し、「この子をコーゾー・オカモトのようなのような勇敢な戦士に育ててほしい」と訴えたという話を思い出しました。
そんなこんなで、何とか会議および宿泊場所の「ミッドタウンホテル&スイーツ」に到着しました。すでに会議は始まっていました。「政治宣言」をめぐる議論は17日の深夜にまで及びました。とくにロシアによるウクライナ侵攻についてさまざまな意見が出ていました。ヨーロッパの青年団体ではウクライナ戦争をEU・NATOとロシアによる帝国主義間の勢力争いと見る意見が多かったように感じました。ロシアからはコムソモールの後継の2つの団体が参加しており、一方の団体はヨーロッパの仲間たちの意見におおむね賛同しつつ、もう一方の団体からは帝国主義間の勢力争いという見方ではこの間のウクライナ自体の政治状況が見えないという指摘がありました。
また、事務局はブラジル、エリトリア、スイスの仲間と2国間交流を行いました。ブラジルの仲間からはルラ大統領の再選をめぐる情勢、エリトリアの仲間からは祖国建設の努力、スイスの仲間からは青年たちの間での支持拡大の努力について、報告を受けました。
スリランカの仲間たちが政治犯の釈放を求める横断幕へのメッセージとサインの記入を呼びかけていました。
PCのマウスを日本に置いてきたので、どこかで売っていないかと思ってホテルの周辺を歩きまわりました。街はクリスマスの雰囲気でした。パレスチナやレバノンではイスラム教徒もイベントとしてのクリスマスを楽しんでいるそうです。
土産物でもないかと立ち寄ったおしゃれな雰囲気の食料品店で日本の食品が売っていました。お店の方がいろいろと熱心に説明してくれました。
ベイルートはお寿司屋さんがけっこうあります。いわゆる「カリフォルニアロール」のような感じのメニューが多いようです。食べたことがないので美味しいかどうかは分かりません。
ついにマウスを見つけました。安かったですが、使いやすさとしては微妙でした。
17日早朝は会議の開始までホテルの周辺に散歩に出かけました。
面白いデザインの集合住宅がありました。
街のあちこちにネコちゃんたちがたくさんいました。「なんかくれるの?」という感じで寄ってきます。
ホテルの玄関にサンタさんがいました。ベイルートはキリスト教徒とイスラム教徒が共存する街です。
使い込まれた立派なカーペットが干してありました。
気になったのは、街から国軍の兵士や武装警察の姿がなくなったかわりに、物乞いの姿を多く見かけるようになったことでした。通りを歩いていると、道端の高齢者や子どもからおカネをめぐむよう声をかけられました。深刻な経済破綻の現状を実感させられました。
お店では美味しそうなパンやピザが売られていました。
朝食用に一つ買ってみました。ゴマ味のペーストが挟まれていてとてもおいしかったです。しかし、実は事務局は11月に奥歯の治療に失敗し、出発直前から痛みがひどくなっていたため、出発前に買ったロキソニンで痛みをごまかしていました。このときも気を付けて咀嚼しないと奥歯に激痛が走りました。せっかくの美味しい食事がもったいなかったです。歯の健康は大事ですね。
これは18日朝にホテルでいただいた朝食です。カレー味のスープです。テーブルで一緒だったロシアの青年同盟の仲間が「これはキリスト教徒がクリスマスの時期に食べるスープなんだ」と説明してくれました(ロシア語ではスープは「食べる」ものなのです)。
18日午前中はレバノン共産党の事務所で役員から講演を受けました。レバノンの経済破綻について帝国主義の責任を追及していました。
事務所のビルの壁にはいろんなポスターが貼ってありました。ゲバラはやはり英雄なのですね。
続いて、ベイルート市内にあるパレスチナ難民キャンプの一つ、シャティーラキャンプを訪れました。こちらはシャティーラキャンプの南側の入口です。にぎやかなバザールになっています。
バザールはたくさんの人たちでとても活気にあふれていました。
バザールの脇にある、40年前に起きた「サブラ・シャティーラキャンプの虐殺」の慰霊碑がある広場で集会を持ちました。
民青連やレバノンの仲間たちからパレスチナ解放に向けた決意表明を受けました。
この男の子はシリアから避難してシャティーラキャンプで暮らしているそうです。
バスでシャティーラキャンプの別の入口まで移動しました。
キャンプ内の様子です。
7年前に訪れたアイネヘルウェでもそうでしたが、キャンプではたくさんの子どもたちの姿を見かけます。
続いて、シャティーラキャンプ内のPFLPの集会所でこの間のパレスチナ難民をめぐる情勢について報告を受けました。今回はDFLP(パレスチナ解放民主戦線)の兵士が警護についてくれました。PFLPの事務所をDFLPの兵士たちが警護している様子はなかなか興味深いですね。
この建物はキャンプ内で暮らす子どもたちのために国連が設立した学校だそうです。
ちょっとだけ子どもたちと交流できました。
ベイルートの街が夕闇に覆われます。
キャンプからレバノン民主青年連盟の事務所に移動し、夕食交流となりました。
みんなでスマホにかぶりついてサッカーのワールドカップ決勝、フランスvsアルゼンチンを観戦しました。盛り上がりました。
事務局はサッカーが大好きな一方、ワールドカップは好きではありませんでした。「国」対「国」という構図のなかで排外主義的な言動が聞かれることにウンザリさせられるからです。でも、世界中から仲間が集まって一緒にワールドカップの決勝を観るのは素敵な経験になったなと思いました。
夕食交流の後、いったんホテルに戻りました。ホテルの周辺のお店もワールドカップ一色、という雰囲気でした。レバノンの旧宗主国であるフランスではなく、アルゼンチン推しの人が圧倒的に多いようでした。試合終了したとたん、街のあちらこちらで歓声が沸き起こり、さらに銃声が轟いていました。喜びの表現方法にビックリさせられました。
表彰式の様子をホテルのロビーにあるテレビを通じて見守りました。
さて19日になりました。ここはレバノンの最高学府であるベイルート・アメリカン大学(AUB)付属病院です。事務局はコロナワクチン未接種だったため、この時点では日本への帰国前にPCR検査を受けて陰性証明を携行する必要がありました。ちなみに、未接種だったのは別に「反ワクチン」というわけではなく、副反応で苦しむのが嫌でサボっていただけです。
出発前にターキッシュエアラインズに問い合わせたところ、「イスタンブール空港内でPCR検査が受けられます」と言われていました。しかし、帰国時のイスタンブールでの乗り継ぎ時間は2時間半なので検査は無理。つまり、ベイルートにいる間に検査を済ませなければなりません。レバノンでパレスチナ難民の支援活動を続けている日本の市民団体の方に聞くと、「ベイルート市内は医療機関がたくさんあって、PCR検査が簡単に受けられる。結果もメールで届くから便利だよ」と言われていました。
ベイルート到着時に確認した限りでは、空港内に検査を受けられる施設はなさそうでした。その後、総評議会の期間中、レバノン民主青年連盟の同志たちに「PCR検査、PCR検査、PCR検査……」と言い続けたおかげで、やっと19日にホテルの近くのベイルート・アメリカン大学附属病院に連れて行ってもらうことになりました。
レバノン民青の同志が付き添ってくれたおかげで何とか受付を済ませることができました。患者登録してアカウントが割り振られました(またベイルートに来てこの病院にお世話になるのか分かりませんが…)。検査してくれた看護師さんには「発熱していないの? 体調が悪いわけでもないのに、なぜPCR検査を受けに来たの?」と言われました。結果はこの日の16時にウェブサイト上で確認できるとのことで、いったんホテルに戻りました。
この日は日本から持参したサッカーボールをパレスチナ難民キャンプの子どもたちにプレゼントするために、昨日に引き続いてシャティーラ・キャンプに行きました。PFLPの活動家のアリ君がバイクで迎えに来てくれました。上の写真はアリ君のバイクが調子が悪いので、そのへんにいた人たちがあれやこれやと言いながら直している様子です。アラブの人たちはとても親切です。
ホテルからキャンプまではアリ君のバイクの後ろに乗りました。ノーヘルのまま後部座席から落ちそうでヒヤヒヤしましたが、楽しい体験でした。上の動画はバイクではなくバスの車内から見たベイルートの街の様子です。
まずはキャンプ内のPFLPの事務所でごあいさつ。やっぱりポスターがたくさん貼ってありますが、事務局はアラブ語が分からないので何のポスターか分かりません。ところが、ベイルート市内にはときどきロシア語の表記があったり、ロシア語を話している人たちがいました。
あらためてキャンプ内を移動し、別のPFLPの事務所で子どもたちの到着を待ちました。
先日と同じPFLPの集会所で子どもたちにサッカーボールを渡すことができました。ワールドカップ・モデルのデザインです。レバノン民青の同志からは「わざわざ東京から持って来なくても、ベイルート市内のスポーツ店で1つ20ドルで買えたのに」と突っ込まれました。確かにそうかも。
少しだけですが、広場で一緒にサッカーボールを蹴りました。
白内障の少年がいました。日本のゲームキャラのトレーナーを着ていました。彼が治療を受けるのは難しいのでしょうか。「少しばかりサッカーボールを持ってきたからといって良い気になるなよ」と言われているようでした。結局は、私に何ができるのかを7年前とは違う形で突き付けられることになったように思います。
キャンプの別の場所でもやっぱり子どもたちがサッカーボールを蹴っていました。
小さなきょうだいが上から興味津々の様子で事務局を見下ろしていました。ベイルートでは東洋人を見かけることはあまりないのかも知れません。
キャンプのはずれの高層住宅にあるアリ君の自宅に案内してもらいました。アリ君は新婚ホヤホヤで、この3カ月後に結婚式を控えていました。新しいテレビをはじめ家具、きれいなカーペットなど、ほほえましい新婚生活を垣間見ることができました。アリ君のおつれあいがフルーツの盛り合わせを出してくれ、アリ君がオレンジの皮をむいて事務局に食べさせてくれました。2人の素朴でも温かい歓待を一生忘れることはないでしょう。そして、新しい門出を迎える2人のこれからに幸多からんことを願わずにはいられませんでした。
アリ君にバイクでホテルまで送ってもらいました。キャンプの外のスタンドでバイクに給油するアリ君です。
PANTAの「ライラのバラード」です。2015年にベイルートから帰った後に出会った歌です。またベイルートに来ることがあったら、キャンプで聴きたいと思っていました。それがかないました。
さて、ホテルでアメリカン大学附属病院からの検査結果の連絡を待ちますが、16時を過ぎてもウェブ上に表示されません。
レバノン民青の同志にお願いしてアメリカン大学付属病院まで連れて行ってもらい、直接に結果を確認することにしました。
陰性であることが受付で分かった後、陰性証明を書いてもらうのに病院内をあちらこちら移動し、最後は院長先生のサイン入りの書類をゲットできました。みなさんご協力ありがとうございました。
院長先生には「日本ではまだこんな書類が必要なのかよ」みたいに言われました。ベネズエラから来た同志もやはりPCR検査の結果が必要だったらしく、彼女はおそらく当初に乗るはずだった帰国の飛行機を逃したのではないかと思います。
無事にベイルート空港を出発。チェックインカウンターでは「PCR検査結果は持っている?」と聞かれただけで、実際に見せなくても乗せてくれました。上の写真は飛行機から見たイスタンブールの夜景です。このころにはロキソニンを使い果たし、解熱用に持っていたバファリンで歯痛をしのぐ状況でした。繰り返しになりますが、本当に歯の健康は大事ですね。
イスタンブールでの乗り継ぎの間に厚生労働省のサイト上で検疫のオンライン申告にチャレンジしましたが、うまくいきませんでした。結局、羽田空港では降機場所から遠く離れたターミナルの端でアメリカン大学付属病院で受け取った陰性証明を提示し、無事に帰国と相成りました。
3年ぶりに各国で奮闘する同志たちに再開できたレバノンでの総評議会でした。その後、2023年5月にキューバであらためて総評議会が開催されましたが、事務局は別任務があったため欠席しました。今年の暮れには第21回総会が開催されるはずでしたが、この報告を投稿する12月31日時点ではまだ招集はありません。「コロナ禍」が国際連帯活動にもたらした影響は大きかったと言えます。
そして、10月7日のハマスをはじめパレスチナの抵抗組織による蜂起以降、ガザ地区で激しい戦闘が続いています。戦禍はレバノンやシリアにも及んでいます。事務局が個人でできることの小ささを痛感させられています。反戦平和運動の波を大きく広げることが求められます。
昨年5月、イラク議会は自国民がイスラエルと接触することを禁止する法案を成立させました。イスラエルを訪問した国民には終身刑、政治的、経済的、文化的関係を確立した者には死刑が課せられるという厳しい内容です。そして先日、イラク首相が「主権への懸念」と「緊張の高まり」を理由にアメリカ軍とその同盟軍の駐留の終了に言及しています。アメリカはイラク戦争を通じて親米、親イスラエルの政治・社会体制をイラクに築くはずでした。しかし、現実にはそれとは違う方向に進んでいます。日本が誰とともに歩むのかを、私たちが考えなければなりません。
2023年12月27日
シャフタル・ドネツィクvsアビスパ福岡を観戦
12月18日(月)夜に国立競技場で行われたシャフタール・ドネツィクvsアビスパ福岡の親善試合を観戦しました。シャフタール・ドネツィクは、ディナモ・キエフとならぶウクライナ・サッカーの(そしてかつてはソ連サッカーの)名門クラブ。2014年以降、ドネツク州の大部分にウクライナ政府による統治が及ばないなか、現在はポーランドやキーウ(キエフ)で活動を継続しているとのことです。
アビスパ福岡も今年のルヴァン杯決勝で浦和レッズを下してみごとに優勝。この日の国立競技場はメインスタンド、バックスタンドともに良いお値段だったので、事務局はシャフタール側のゴール裏席を購入し、シャフタールに声援を送りました。

試合はシャフタールが先制した後、アビスパが立て続けに2ゴールして逆転。後半にシャフタールが同点に追いついてそのままドロー。寒いなかでの好ゲームで、見ごたえがありました。
シャフタールはかなり低いラインから組み立てて前線へとつなぐサッカーで、対するアビスパはカウンターを織り交ぜながら攻防を繰り広げていました。観客動員は1万8千人でしたが、もっとたくさんの人に楽しんでほしいゲームでした。
この日はチャリティ・マッチということでキックオフ前にいろいろとセレモニーがあり、その際に駐日ウクライナ大使のお名前がセルギー・コルスンスキーと紹介されていました。ウクライナ語では「セルギー」ではなく「セルヒー」のような気がします。「コルスンスキー」という名字のカタカナ表記についても軟音を反映させるべきか迷うところです。
そういえば、「キエフ」という都市名について、2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻の開始以来、ウクライナ語の発音を反映している(とされる)「キーウ」という呼び方に置き換えられています。「キーウ」という呼び方はもとは尊敬する中澤英彦先生による提案ということで個人的には何の異論もありませんが、なかなか慣れないものですね。
アビスパ福岡も今年のルヴァン杯決勝で浦和レッズを下してみごとに優勝。この日の国立競技場はメインスタンド、バックスタンドともに良いお値段だったので、事務局はシャフタール側のゴール裏席を購入し、シャフタールに声援を送りました。
試合はシャフタールが先制した後、アビスパが立て続けに2ゴールして逆転。後半にシャフタールが同点に追いついてそのままドロー。寒いなかでの好ゲームで、見ごたえがありました。
シャフタールはかなり低いラインから組み立てて前線へとつなぐサッカーで、対するアビスパはカウンターを織り交ぜながら攻防を繰り広げていました。観客動員は1万8千人でしたが、もっとたくさんの人に楽しんでほしいゲームでした。
この日はチャリティ・マッチということでキックオフ前にいろいろとセレモニーがあり、その際に駐日ウクライナ大使のお名前がセルギー・コルスンスキーと紹介されていました。ウクライナ語では「セルギー」ではなく「セルヒー」のような気がします。「コルスンスキー」という名字のカタカナ表記についても軟音を反映させるべきか迷うところです。
そういえば、「キエフ」という都市名について、2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻の開始以来、ウクライナ語の発音を反映している(とされる)「キーウ」という呼び方に置き換えられています。「キーウ」という呼び方はもとは尊敬する中澤英彦先生による提案ということで個人的には何の異論もありませんが、なかなか慣れないものですね。
2023年12月25日
クリスマス休戦
第1次世界大戦が1914年夏に勃発し、その年のクリスマスにイギリス軍とドイツ軍の兵士たちの間で「クリスマス休戦(英語ではChristmas truce)」と呼ばれる自主的、自然発生的な停戦状態が出現しました。
両軍の兵士たちによるサッカーの試合も行われたそうです。
「SEKAI NO OWARI」の「DragonNight」という曲がこのクリスマス休戦をモチーフにしていると言われています。まあ、LOVE & PEACEというところでしょうか。
ところで、休戦には関係ないですが、サンタさんが実は共産主義者だったという衝撃的なコントを発見しました。これは一見するとソ連のパロディですが、実は資本主義への皮肉もまた込められていますよね。
https://news.yahoo.co.jp/articles/37d3b8a2bf886b385946d8dd2099e9a6f1d7a6ab
今年も渋谷ではクリスマス粉砕デモが行われたそうです。
https://twitter.com/Mari21Sofi/status/1738748918333415539
SNS上にはウクライナの前線で「カチューシャ」を一緒に歌うロシアとウクライナの兵士たちという動画もありました。これが本当に起きたできごとなら良いですよね。
パレスチナには「今年のクリスマスを祝わない」というクリスチャンもいるそうです。
日本にいる私たちがLOVE & PEACEにとどまらないためにも、停戦を訴えるだけでなく、日本とイスラエルの軍事協力を止めさせ、パレスチナに対する加害者となることを拒まなければなりません。
両軍の兵士たちによるサッカーの試合も行われたそうです。
「SEKAI NO OWARI」の「DragonNight」という曲がこのクリスマス休戦をモチーフにしていると言われています。まあ、LOVE & PEACEというところでしょうか。
ところで、休戦には関係ないですが、サンタさんが実は共産主義者だったという衝撃的なコントを発見しました。これは一見するとソ連のパロディですが、実は資本主義への皮肉もまた込められていますよね。
https://news.yahoo.co.jp/articles/37d3b8a2bf886b385946d8dd2099e9a6f1d7a6ab
今年も渋谷ではクリスマス粉砕デモが行われたそうです。
https://twitter.com/Mari21Sofi/status/1738748918333415539
SNS上にはウクライナの前線で「カチューシャ」を一緒に歌うロシアとウクライナの兵士たちという動画もありました。これが本当に起きたできごとなら良いですよね。
パレスチナには「今年のクリスマスを祝わない」というクリスチャンもいるそうです。
日本にいる私たちがLOVE & PEACEにとどまらないためにも、停戦を訴えるだけでなく、日本とイスラエルの軍事協力を止めさせ、パレスチナに対する加害者となることを拒まなければなりません。
2023年11月29日
11月29日は国際パレスチナ連帯デー
11月29日は国際パレスチナ連帯デーです。世界各地で集会やデモが行われています。東京では、夕方に新宿中央公園から新宿区役所前までのデモ行進が行われました。1200人が参加しました。



たくさんの仲間たちが新宿中央公園に詰めかけていました。ガザ地区の仲間からのメッセージが紹介されていました。

停戦が続くことを訴えています。

デモ行進に出発しました。

東京の空にこんなにたくさんのパレスチナの旗が翻る日が来るとは思ってもみませんでした。

靖国通り方面に向けて行進が続きました。

必死のシュプレヒコールが響き渡ります。

新宿の高層ビル街を抜け、靖国通りから新宿区役所までデモ行進を行いました。
たくさんの仲間たちが新宿中央公園に詰めかけていました。ガザ地区の仲間からのメッセージが紹介されていました。
停戦が続くことを訴えています。
デモ行進に出発しました。
東京の空にこんなにたくさんのパレスチナの旗が翻る日が来るとは思ってもみませんでした。
靖国通り方面に向けて行進が続きました。
必死のシュプレヒコールが響き渡ります。
新宿の高層ビル街を抜け、靖国通りから新宿区役所までデモ行進を行いました。
2023年11月24日
県民平和大集会に1万人が参加
「全国連帯!沖縄から発信しよう!県民平和大集会~対話による信頼こそ平和への道」が11月23日午後に那覇市の奥武山公園陸上競技場で開催され、1万人が参加しました。事務局も仲間たち、先輩たちと一緒に参加しました。

那覇空港に向かう飛行機からキャンプ・シュワブが見えました。埋め立てられた海が痛々しいです。

何としても大浦湾を守らなければなりません。

勝連半島のホワイトビーチが見えました。米軍、自衛隊ともに艦船は停泊していないようでした。

那覇空港からゆいレールに乗って奥武山公園陸上競技場へ。集会に先立ち、12時から音楽コンサートが開催されました。上の写真は島唄ポップスのYUIKAさんです。

唄三線を披露した桑江優稀乃さん。「お医者さんの卵」という紹介がありました。

栄口青年会による力強いエイサーの演舞です。唐船どーいで締めくくられた後、大きな歓声がわき上がっていました。


会場周辺のテントでは展示や物販が行われていました。

伊江島の仲間たちの旗です。以前は平和友好祭の「被戦地オキナワ青年の旅」で伊江島を訪れていました。「また伊江島に行きたい」という声が多いのです。

キッチンカーが何台か出ていました。どれも美味しそうです。

事務局はカレーを食べました。大満足の味でした。


メイン集会が始まりました。まず、「沖縄を再び戦場にさせない県民の会」の瑞慶覧長敏共同代表によるあいさつです。

玉城デニー知事によるあいさつが続きました。「政府は沖縄の不条理に向き合おうとしていない。その不条理が存在する限り、私たち沖縄県民はひるむことなく平和のための声をあげよう」と呼びかけがありました。

暑いなかで会場にはたくさんの人たちが詰めかけていました。集会は、伊波洋一参議院議員、沖縄県議会の次呂久成崇議員のあいさつ、オール沖縄会議の高里鈴代共同代表のあいさつと続きます。

「第2の基地県」である神奈川から、全国基地爆音訴訟原告団連絡協議会の金子豊貴男さんが発言しました。金子さんは平和友好祭運動の大先輩でもあります。



各地からの報告では、与那国、石垣、宮古、うるま市、沖縄市、名護市、奄美、西之表からの発言とメッセージの紹介がありました。

みんなで作ったスイミーバイが披露されました。思いっきり逆光でハレ切りができなかったので、ゴーストが写りこんでしまっています。


みんなで「戦争を知らない子どもたち」を歌いました。みんな笑顔で、とても盛り上がりました。若い人たちはこの歌を知っているのかな? 事務局は「戦争を知らない子どもたち」のさらに子どもの世代なので、2番まではそらで歌えます。3番は忘れていました。今の10~20代の仲間たちは、「戦争を知らない子どもたち」の孫なんですね。

閉会あいさつは具志堅隆松さんから。以前、平和友好祭の「被戦地オキナワ青年の旅」でも講演をいただいたことがありました。

スイミーバイを囲んでみんなで「ガンバロー!」



夜はぱれっと市民劇場で全国参加者交流会が行われました。沖縄からのあいさつ(写真は沖縄平和運動センターの上里議長)、全国の仲間たちの報告、台湾、韓国、アメリカからのメッセージと続きました。沖縄のたたかいを全国に広げようと決意し合いました。
那覇空港に向かう飛行機からキャンプ・シュワブが見えました。埋め立てられた海が痛々しいです。
何としても大浦湾を守らなければなりません。
勝連半島のホワイトビーチが見えました。米軍、自衛隊ともに艦船は停泊していないようでした。
那覇空港からゆいレールに乗って奥武山公園陸上競技場へ。集会に先立ち、12時から音楽コンサートが開催されました。上の写真は島唄ポップスのYUIKAさんです。
唄三線を披露した桑江優稀乃さん。「お医者さんの卵」という紹介がありました。
栄口青年会による力強いエイサーの演舞です。唐船どーいで締めくくられた後、大きな歓声がわき上がっていました。
会場周辺のテントでは展示や物販が行われていました。
伊江島の仲間たちの旗です。以前は平和友好祭の「被戦地オキナワ青年の旅」で伊江島を訪れていました。「また伊江島に行きたい」という声が多いのです。
キッチンカーが何台か出ていました。どれも美味しそうです。
事務局はカレーを食べました。大満足の味でした。
メイン集会が始まりました。まず、「沖縄を再び戦場にさせない県民の会」の瑞慶覧長敏共同代表によるあいさつです。
玉城デニー知事によるあいさつが続きました。「政府は沖縄の不条理に向き合おうとしていない。その不条理が存在する限り、私たち沖縄県民はひるむことなく平和のための声をあげよう」と呼びかけがありました。
暑いなかで会場にはたくさんの人たちが詰めかけていました。集会は、伊波洋一参議院議員、沖縄県議会の次呂久成崇議員のあいさつ、オール沖縄会議の高里鈴代共同代表のあいさつと続きます。
「第2の基地県」である神奈川から、全国基地爆音訴訟原告団連絡協議会の金子豊貴男さんが発言しました。金子さんは平和友好祭運動の大先輩でもあります。
各地からの報告では、与那国、石垣、宮古、うるま市、沖縄市、名護市、奄美、西之表からの発言とメッセージの紹介がありました。
みんなで作ったスイミーバイが披露されました。思いっきり逆光でハレ切りができなかったので、ゴーストが写りこんでしまっています。
みんなで「戦争を知らない子どもたち」を歌いました。みんな笑顔で、とても盛り上がりました。若い人たちはこの歌を知っているのかな? 事務局は「戦争を知らない子どもたち」のさらに子どもの世代なので、2番まではそらで歌えます。3番は忘れていました。今の10~20代の仲間たちは、「戦争を知らない子どもたち」の孫なんですね。
閉会あいさつは具志堅隆松さんから。以前、平和友好祭の「被戦地オキナワ青年の旅」でも講演をいただいたことがありました。
スイミーバイを囲んでみんなで「ガンバロー!」
夜はぱれっと市民劇場で全国参加者交流会が行われました。沖縄からのあいさつ(写真は沖縄平和運動センターの上里議長)、全国の仲間たちの報告、台湾、韓国、アメリカからのメッセージと続きました。沖縄のたたかいを全国に広げようと決意し合いました。
2023年11月17日
11月23日は県民平和大集会(奥武山公園陸上競技場)に参加を
11月23日に那覇市の奥武山公園の陸上競技場で「県民平和大集会」が開催されます。主催者である「沖縄を再び戦場にさせない県民の会」からは県の内外に向けて1万人規模の結集が呼びかけられており、玉城デニー知事と照屋義実副知事も参加する予定とのことです。
以下が「県民の会」のホームページと呼びかけ文です。多くの仲間の結集を実現しましょう。
「県民の会」のホームページ
https://kenminnokai.okinawa/
沖縄県民及び全国の皆さま
連日新聞テレビで報道されていますように、沖縄が再び戦場にされかねない動きが強まっています。政府はここ数年「中国脅威」論を強調し、昨年(2022年)の暮れには「安保関連3文書」を閣議決定。その上で「台湾有事」「南西諸島有事」に備えるためとして、最大の軍事強化を図ることを宣言しています。与那国、石垣、宮古の島々に限らず、沖縄島や奄美、馬毛島に至るまで自衛隊基地が相次いで建設され、ミサイルや弾薬が持ち込まれています。さらには日本から直接中国本土に届く長射程のミサイル開発に乗り出すと言っています。
そのための費用・軍事費を向こう5年間で43兆円と積算しています。とんでもない軍拡であり、かつてない軍事緊張が走っています。このままでは本当に戦争が起きかねません。
政府は、ひたひたと迫る戦争の足音に恐怖する県民感情に配慮するどころか、政権の中枢にいる自民党の麻生副総裁は「戦う覚悟を持て」と迫ってきました。辺野古問題で最高裁判所は、9月4日、埋め立て変更申請を不承認とする玉城県政の訴えを、県側に一切弁論の機会を与えず退けました。このように中央から沖縄に無理難題が押し付けられてくる重苦しい状況下で、昨年12月以来、県内多くの市民団体が一堂に会して、沖縄を再び戦場にさせてはならないと、戦争に反対する全県組織を立上げるために会合を重ねてきました。
そして去る7月25日、ついに『沖縄を再び戦場にさせない県民の会』を、60を超える市民団体で発足させました。会は、対話による信頼関係の醸成こそ現下の緊張する東アジア情勢を改善する唯一の道であることを訴えて活動していくことを目標にしています。政治信条を越えて、老若男女が一体となって、再びの沖縄戦を起こさせないために取り組んでいきます。
つきましては、11月23日(木・祝)には、県立奥武山陸上競技場にて大規模な集会を開催する予定です。12時から音楽コンサートを開催し、14時から16時に平和大集会となり、最後に集会アピール行動で行い、17時に閉会となります。なお、19時からは、全国交流集会をパレット市民劇場(県庁近く)にて行い、沖縄と全国各地からのリレー報告を行います。
万人を超える大集会を成功させ、無謀を極める政府の戦争政策に絶対反対である県民の思いを政府に、全国に発信していきましょう。どうぞ県民の皆さま、『沖縄を再び戦場にさせない県民の会』にご理解をいただき、そして集会へご参加くださいますようお願いいたします。
そして、全国の皆様にも賛同いただき、ご参加くださいますようご案内申し上げます。
以下がチラシのJPGデータです。サムネイルになっているので、クリックしてごらんください。


以下が奥武山公園の地図です。こちらもサムネイルになっています。大集会の会場となる陸上競技場はゆいレールの壷川駅が最寄りとなります。

以下が「県民の会」のホームページと呼びかけ文です。多くの仲間の結集を実現しましょう。
「県民の会」のホームページ
https://kenminnokai.okinawa/
沖縄県民及び全国の皆さま
連日新聞テレビで報道されていますように、沖縄が再び戦場にされかねない動きが強まっています。政府はここ数年「中国脅威」論を強調し、昨年(2022年)の暮れには「安保関連3文書」を閣議決定。その上で「台湾有事」「南西諸島有事」に備えるためとして、最大の軍事強化を図ることを宣言しています。与那国、石垣、宮古の島々に限らず、沖縄島や奄美、馬毛島に至るまで自衛隊基地が相次いで建設され、ミサイルや弾薬が持ち込まれています。さらには日本から直接中国本土に届く長射程のミサイル開発に乗り出すと言っています。
そのための費用・軍事費を向こう5年間で43兆円と積算しています。とんでもない軍拡であり、かつてない軍事緊張が走っています。このままでは本当に戦争が起きかねません。
政府は、ひたひたと迫る戦争の足音に恐怖する県民感情に配慮するどころか、政権の中枢にいる自民党の麻生副総裁は「戦う覚悟を持て」と迫ってきました。辺野古問題で最高裁判所は、9月4日、埋め立て変更申請を不承認とする玉城県政の訴えを、県側に一切弁論の機会を与えず退けました。このように中央から沖縄に無理難題が押し付けられてくる重苦しい状況下で、昨年12月以来、県内多くの市民団体が一堂に会して、沖縄を再び戦場にさせてはならないと、戦争に反対する全県組織を立上げるために会合を重ねてきました。
そして去る7月25日、ついに『沖縄を再び戦場にさせない県民の会』を、60を超える市民団体で発足させました。会は、対話による信頼関係の醸成こそ現下の緊張する東アジア情勢を改善する唯一の道であることを訴えて活動していくことを目標にしています。政治信条を越えて、老若男女が一体となって、再びの沖縄戦を起こさせないために取り組んでいきます。
つきましては、11月23日(木・祝)には、県立奥武山陸上競技場にて大規模な集会を開催する予定です。12時から音楽コンサートを開催し、14時から16時に平和大集会となり、最後に集会アピール行動で行い、17時に閉会となります。なお、19時からは、全国交流集会をパレット市民劇場(県庁近く)にて行い、沖縄と全国各地からのリレー報告を行います。
万人を超える大集会を成功させ、無謀を極める政府の戦争政策に絶対反対である県民の思いを政府に、全国に発信していきましょう。どうぞ県民の皆さま、『沖縄を再び戦場にさせない県民の会』にご理解をいただき、そして集会へご参加くださいますようお願いいたします。
そして、全国の皆様にも賛同いただき、ご参加くださいますようご案内申し上げます。
以下がチラシのJPGデータです。サムネイルになっているので、クリックしてごらんください。


以下が奥武山公園の地図です。こちらもサムネイルになっています。大集会の会場となる陸上競技場はゆいレールの壷川駅が最寄りとなります。

2023年10月29日
コムソモール結成105周年
今日は1918年10月29日にソ連で「共産主義青年同盟(略称:コムソモール=コムニスチーチェスキー・サユース・マラジョージ)」が結成されて105周年になります。当時のロシア各地に結成されつつあった青少年の小さな集まりがレーニンの妻、ナジェージダ・クループスカヤのイニシアチブ下で全国組織としてのコムソモールとピオネールに再編されました。コムソモールはロシア革命下で急速に発展し、レーニンの「青年同盟の任務」の演説で有名な1920年の第3回大会時には、50万人のコムソモール員を抱えるまでになっていました。1926年には「ウラジーミル・レーニン名称全連邦共産主義青年同盟」に改称し、社会主義建設に大きな役割を果たしました。1980年代前半には4000万人を超す青年を組織していました。


これは1990年8月にハバロフスク市郊外のピオネールスキー・ラーゲリで子どもたちの指導にあたっていたコムソモール員の写真です。
現在は、かつてのソ連邦共産党の後継組織にそれぞれ青年組織、少年組織があります。ただし、ベラルーシの青年団は与党下で社会主義とは無関係の組織になり、ウクライナでは2015年以降は政府によって共産党が活動停止に追い込まれ、傘下の青年同盟も弾圧下にあります。

2005年にベネズエラで開催された第16回世界青年学生祭典の開会集会にてモルドバのコムソモールの仲間たち

2011年11月にポルトガルで開催された世界民青連総会で発言するロシア共産党の青年同盟の仲間たち

2013年12月にエクアドルで開催された第18回世界青年学生祭典の開会集会にてウクライナのコムソモールの仲間たち。彼らは今どうしているのか。

うーん、これはどこだったか、ロシアの2つの青年同盟の仲間とネパール青年連盟、スリランカ社会主義青年連盟の仲間たちの写真です。

2019年12月にキプロスで開催された世界民青連の総会で発言するロシアの仲間。彼は反プーチン政権の立場で活動を続けています。彼とは会議の際に何度か宿泊部屋が同室になり、映画について熱心に語り合った思い出があります。彼は事務局がヘタクソなロシア語で話しかけるのが気に食わないらしく、いつも英語での交流です。

2022年2月以降、ウクライナの青年同盟のリーダーがСБУによる逮捕下にあり、民青連がヨーロッパの仲間たちを先頭に奪還闘争を呼びかけています。
そういえば、事務局が世界民青連の会議でローマに行った際、夕食交流会でウクライナの青年同盟の仲間が「Bella Ciao」という歌をロシア語で歌ってくれたのを思い出しました。
反ファシストのたたかいに向かう青年の決意を私たちも共有したいと思います。

そして、世界の青年たちは今も、これからもパレスチナとともにあります(22年12月シャティーラキャンプにて)。


これは1990年8月にハバロフスク市郊外のピオネールスキー・ラーゲリで子どもたちの指導にあたっていたコムソモール員の写真です。
現在は、かつてのソ連邦共産党の後継組織にそれぞれ青年組織、少年組織があります。ただし、ベラルーシの青年団は与党下で社会主義とは無関係の組織になり、ウクライナでは2015年以降は政府によって共産党が活動停止に追い込まれ、傘下の青年同盟も弾圧下にあります。
2005年にベネズエラで開催された第16回世界青年学生祭典の開会集会にてモルドバのコムソモールの仲間たち

2011年11月にポルトガルで開催された世界民青連総会で発言するロシア共産党の青年同盟の仲間たち
2013年12月にエクアドルで開催された第18回世界青年学生祭典の開会集会にてウクライナのコムソモールの仲間たち。彼らは今どうしているのか。

うーん、これはどこだったか、ロシアの2つの青年同盟の仲間とネパール青年連盟、スリランカ社会主義青年連盟の仲間たちの写真です。
2019年12月にキプロスで開催された世界民青連の総会で発言するロシアの仲間。彼は反プーチン政権の立場で活動を続けています。彼とは会議の際に何度か宿泊部屋が同室になり、映画について熱心に語り合った思い出があります。彼は事務局がヘタクソなロシア語で話しかけるのが気に食わないらしく、いつも英語での交流です。

2022年2月以降、ウクライナの青年同盟のリーダーがСБУによる逮捕下にあり、民青連がヨーロッパの仲間たちを先頭に奪還闘争を呼びかけています。
そういえば、事務局が世界民青連の会議でローマに行った際、夕食交流会でウクライナの青年同盟の仲間が「Bella Ciao」という歌をロシア語で歌ってくれたのを思い出しました。
反ファシストのたたかいに向かう青年の決意を私たちも共有したいと思います。
そして、世界の青年たちは今も、これからもパレスチナとともにあります(22年12月シャティーラキャンプにて)。
2023年10月27日
反核平和の火リレーが横須賀に到着
神奈川県実行委員会が取り組む反核平和の火リレーが10月27日に横須賀に到着しました。
沖縄に次ぐ「第2の基地県」と呼ばれている神奈川のリレー運動では、米軍基地撤去も重要な課題として位置付けられています。事務局は例年、最終日の到着集会に参加するのとあわせて横須賀基地前を通る最終区間だけ走っています。しかし、今年は目先の任務でドタバタしており、横須賀市役所での到着集会にギリギリで間に合いました。

横須賀市役所への要請行動に続き、市職労、水道労組、教組など地区実の仲間からの報告と決意表明が行われています。

「基地の街」横須賀で暮らし、働く仲間たちからパレスチナ情勢への言及もあり、意識の高さを感じさせられました。

県実行委員会と横須賀地区実行委員会の仲間たちによる集合写真です。実行委員長を先頭によくがんばりました。来年もみんなでまたがんばろう!という決意が聞かれました。
今年度は、北海道、岩手、宮城、山形、茨城、埼玉、神奈川、東京、長野、富山、兵庫、鳥取、島根、広島、山口、香川、徳島、高知、長崎、佐賀、鹿児島の仲間たちが平和の火を走り継ぎました。「反核平和の火の夕べ」など学習の機会の減少という課題はあるものの、青年たちが平和運動に参加する重要な機会です。この運動を大切にして、より多くの仲間に拡げる努力をみんなで進めたいと思います。

さて、軍ヲタの事務局は、本当なら早めに横須賀に来て軍港めぐりのクルーズ船に乗船したかったのですが、今回はその時間がありませんでした。悔しいので、ヴェルニー公園から海上自衛隊の「もがみ」型FFM2番艦の「くまの」を撮影しました。昨年3月に就役し、掃海隊群に所属しています。全長133メートルなのですが、ずいぶん大きく見えました。10月15日には横須賀基地の一般開放があったそうです。最近はこういう情報もきちんとチェックしていないので、見逃すことが多いのが現実です。
沖縄に次ぐ「第2の基地県」と呼ばれている神奈川のリレー運動では、米軍基地撤去も重要な課題として位置付けられています。事務局は例年、最終日の到着集会に参加するのとあわせて横須賀基地前を通る最終区間だけ走っています。しかし、今年は目先の任務でドタバタしており、横須賀市役所での到着集会にギリギリで間に合いました。
横須賀市役所への要請行動に続き、市職労、水道労組、教組など地区実の仲間からの報告と決意表明が行われています。
「基地の街」横須賀で暮らし、働く仲間たちからパレスチナ情勢への言及もあり、意識の高さを感じさせられました。
県実行委員会と横須賀地区実行委員会の仲間たちによる集合写真です。実行委員長を先頭によくがんばりました。来年もみんなでまたがんばろう!という決意が聞かれました。
今年度は、北海道、岩手、宮城、山形、茨城、埼玉、神奈川、東京、長野、富山、兵庫、鳥取、島根、広島、山口、香川、徳島、高知、長崎、佐賀、鹿児島の仲間たちが平和の火を走り継ぎました。「反核平和の火の夕べ」など学習の機会の減少という課題はあるものの、青年たちが平和運動に参加する重要な機会です。この運動を大切にして、より多くの仲間に拡げる努力をみんなで進めたいと思います。
さて、軍ヲタの事務局は、本当なら早めに横須賀に来て軍港めぐりのクルーズ船に乗船したかったのですが、今回はその時間がありませんでした。悔しいので、ヴェルニー公園から海上自衛隊の「もがみ」型FFM2番艦の「くまの」を撮影しました。昨年3月に就役し、掃海隊群に所属しています。全長133メートルなのですが、ずいぶん大きく見えました。10月15日には横須賀基地の一般開放があったそうです。最近はこういう情報もきちんとチェックしていないので、見逃すことが多いのが現実です。
2023年10月14日
イスラエル大使館前でガザへの攻撃反対を訴える
イスラエル軍がパレスチナのガザ地区を空爆し、来週にも地上侵攻を実施しようとしています。10月13日(金)午後に、東京・麹町のイスラエル大使館前でパレスチナ人やムスリムたちによる、ガザへの攻撃反対、パレスチナ解放を訴えるデモが行われました。

東京にもたくさんのムスリムが暮らしています。私たちの隣人です。

痛烈な皮肉が書かれてあります。

一つひとつのメッセージに向き合うことが求められています。

手の甲のパレスチナの旗を見せてくれました。

「ガザに自由を」。真剣なまなざしです。


悲しくも力強いシュプレヒコールが響き渡っていました。心を強く揺さぶられました。


本当にたくさんの人たちが集まっていました。

子どもたちも生きるためにはたたかわないといけないのです。

若者たちもそうです。日本の青年が彼らと同じ地平に立てるかが問われています。

14日、15日、16日にも大使館前や新宿駅などで行動が予定されているようです。たくさんの仲間たちが参加することを望みます。
事務局は昨年暮れにレバノンのシャティーラキャンプを訪れました。近日中に報告をアップしたいと思っています。
東京にもたくさんのムスリムが暮らしています。私たちの隣人です。
痛烈な皮肉が書かれてあります。
一つひとつのメッセージに向き合うことが求められています。
手の甲のパレスチナの旗を見せてくれました。
「ガザに自由を」。真剣なまなざしです。
悲しくも力強いシュプレヒコールが響き渡っていました。心を強く揺さぶられました。
本当にたくさんの人たちが集まっていました。
子どもたちも生きるためにはたたかわないといけないのです。
若者たちもそうです。日本の青年が彼らと同じ地平に立てるかが問われています。
14日、15日、16日にも大使館前や新宿駅などで行動が予定されているようです。たくさんの仲間たちが参加することを望みます。
事務局は昨年暮れにレバノンのシャティーラキャンプを訪れました。近日中に報告をアップしたいと思っています。
2023年09月20日
「ワタシのミライ」に8千人が参加
9月18日に代々木公園で「ワタシのミライ イベント&パレード」が開催されました。気温が35℃近くまで上がる暑さのなか、8千人が参加しました。スローガンは「再エネ100パーセントと公正な社会を目指して」です。
トークイベントやライブは午前11時から始まっていたのですが、複数の目先の事務作業に追われていた事務局は結局、午後からの参加となりました。



各ブースやステージで展示やパネルディスカッション、パフォーマンスが行われていました。「気候・人権」のミニステージの若い人たちのステージが興味深かったです。いろんなスタイルでいろんな主張が発信されているのを見て、これからの社会運動はこういう形でも行われるのだと感じました。
事務局は「FoE Japan」の福島の報告集と、NPO法人市民電力連絡会の「市民発電所台帳」など、脱原発関連の資料をいくつか購入しました。
それと、スリランカのクレープが売られていたので買ってみました。ココナツとチョコレートソースが甘くてステキでした。

ステージに立つ日音協の松本さんと坂口さん。いつもステキなうたごえです。

労働組合からも集会に仲間たちが参加していました。これは国労のみなさんです。

事務局がいつもお世話になっているⅠ女性会議のみなさんです。


そろそろパレードの準備が始まりました。渋谷方面と表参道方面の2コースです。

こちらは表参道方面に向かうパレードです。女川原発反対の取り組みを進めている宮城の仲間たちが先頭に立っていました。

めちゃくちゃ逆光ですね。余計に暑さが増す感じがしますね。


私鉄総連と日教組のみなさんです。

関東地連を中心に参加した自治労のみなさんの隊列です。

デモ隊が表参道を進みます。事務局は日ごろは原宿とか表参道にとんと縁のない生活をしているので、通りの賑わいにビックリです。

暑さに負けずに元気にシュプレヒコールを繰り返していた自治労東京都本部のみなさんです。

無事にパレードを貫徹しました。締めくくりのガンバロー。
平和友好祭でも原発のない社会の実現に向けた取り組みをますます頑張りましょう。
トークイベントやライブは午前11時から始まっていたのですが、複数の目先の事務作業に追われていた事務局は結局、午後からの参加となりました。
各ブースやステージで展示やパネルディスカッション、パフォーマンスが行われていました。「気候・人権」のミニステージの若い人たちのステージが興味深かったです。いろんなスタイルでいろんな主張が発信されているのを見て、これからの社会運動はこういう形でも行われるのだと感じました。
事務局は「FoE Japan」の福島の報告集と、NPO法人市民電力連絡会の「市民発電所台帳」など、脱原発関連の資料をいくつか購入しました。
それと、スリランカのクレープが売られていたので買ってみました。ココナツとチョコレートソースが甘くてステキでした。
ステージに立つ日音協の松本さんと坂口さん。いつもステキなうたごえです。
労働組合からも集会に仲間たちが参加していました。これは国労のみなさんです。
事務局がいつもお世話になっているⅠ女性会議のみなさんです。
そろそろパレードの準備が始まりました。渋谷方面と表参道方面の2コースです。
こちらは表参道方面に向かうパレードです。女川原発反対の取り組みを進めている宮城の仲間たちが先頭に立っていました。
めちゃくちゃ逆光ですね。余計に暑さが増す感じがしますね。
私鉄総連と日教組のみなさんです。
関東地連を中心に参加した自治労のみなさんの隊列です。
デモ隊が表参道を進みます。事務局は日ごろは原宿とか表参道にとんと縁のない生活をしているので、通りの賑わいにビックリです。
暑さに負けずに元気にシュプレヒコールを繰り返していた自治労東京都本部のみなさんです。
無事にパレードを貫徹しました。締めくくりのガンバロー。
平和友好祭でも原発のない社会の実現に向けた取り組みをますます頑張りましょう。
2023年09月15日
第61回鹿児島県祭典に参加しました
この夏も、各県・ブロック・地区で平和友好祭典が開催されています。事務局が現時点で把握しているのは以下の日程です。このほかにも祭典の準備が進められている県や地区があります。
岩手...10月14日
宮城(仙台地区)...8月19日
山形...9月1日~2日
埼玉...8月6日
関東ブロック...7月9日
神奈川…9月24日
新潟...8月26日~27日
長野...9月2日
富山…9月30日
兵庫...10月14日
広島...9月2日~3日
香川...9月30日
徳島...9月16日
鹿児島...9月2日~3日
事務局は8月は埼玉県祭典に参加し、さらに9月2日~3日に開催された第61回鹿児島県祭典に講師でお招きをいただきました。実は任務で鹿児島に行くのは初めてです。この間の平和運動の課題を踏まえて資料を準備して祭典に臨みました。

9月2日朝の飛行機で鹿児島に向かいました。離陸後、上空から夏の終わりの富士山がよく見えました。
事務局は飛行機に乗るときは機内のオーディオ番組で落語を聴くか、笑点の動画を見るのが好きです。今回はねずっちのなぞかけを楽しみました。労働組合にも、大会や執行委員会でなぞかけのような見事な答弁を披露する役員がときどきいますよね。

1時間半ほどのフライトで無事に鹿児島空港に到着。着陸直前に見えた鹿児島空港周辺には茶畑が目立ちました。鹿児島は静岡に次ぐお茶所とのことです。
鹿児島空港からは鹿児島中央駅前までバスに乗って移動しました。車窓から南国の夏の風景を楽しみました。BGMは渡辺美里の「サマータイムブルース」です。

空港バスが到着する鹿児島中央駅前のバスターミナルに鹿児島市職の仲間が迎えに来てくれました。仲間の車に乗り換え、桜島を横目に見ながら薩摩半島を南に一路、指宿市方面に向かいました。



第61回鹿児島県祭典の開会集会は、13:30から指宿市の山川ホールで行われました。まず野崎実行委員長のあいさつ、指宿地区実行委員会の仲間の歓迎あいさつ、かけつけてくださった来賓のみなさんのあいさつ、そして丁寧な基調提案を受けました。馬毛島での基地建設、奄美での自衛隊強化、川内原発の再稼働など、鹿児島の仲間たちは地域での反戦平和をめぐる課題を多く抱えています。

基調提案に続いて事務局が1時間強の講演を行いました。タイトルは「誰が「平和を守る」のか」としました。この間の反戦平和をめぐる情勢を踏まえて、「平和を守るのは国境、国籍、民族の枠組みを超えた国際的な民衆のたたかいなのか、それとも軍事力による抑止なのか」を問いました。
今回はまず、事務局が子ども時代に聴かされていた祖父母の戦前、戦中、戦後の満州での体験についてお話ししました。過去の戦争における民衆の被害の体験が、戦後日本の反戦平和意識の礎となりました。その反戦平和意識は同時にアジアの人々への加害の認識の欠如という課題が指摘され続けています。しかし、いまや加害の歴史どころか被害の記憶さえも忘れ去られつつあります。それは、日本の平和運動の専守防衛論=個別的自衛権の容認への後退という事態をもたらしています。戦争体験の意識的な継承は重要な課題です。
そして、青年たちが戦争体験に直接に触れる機会がなくなった時代の反戦平和運動の根拠は何かを模索しなければなりません。

講演の後は、反核平和の火リレーに向けて実行委員会で取り組んだ広島での採火式の報告がありました。旧日本陸軍の毒ガス製造工場があった大久野島にも行き、フィールドワークに取り組んだとのことです。過去の戦争における加害の事実を知る貴重な学習になったはずです。さらに、教組の仲間から沖縄闘争をめぐる情勢や取り組みの報告を受けました。

2部集会は「かいもん山麓ふれあい公園」に場所を移して行われました。
山川ホールからあらためて車で移動です。向こうに開聞岳が見えてきました。本当に美しい山ですね。

薩摩半島の最南端に近付きました。景色が本当に雄大です。左手に海が見えてきました。そして海の向こうには大隅半島が見えます。佐多岬の向こうには種子島と屋久島、さらにその先には吐噶喇列島、そして奄美群島、沖縄、宮古、八重山、ついには与那国島まで琉球弧が続きます。

JRの駅の最南端となる「西大山駅」が近くにあるようです。事務局はとくに鉄ヲタではないのですが、実際に来てみると感慨深いものですね。



「かいもん山麓ふれあい公園」では、実行委員会の仲間たちが2部集会の準備を進めていました。

開聞岳のふもとにある美しい公園です。

やがて夕闇が迫るころ、名司会にみちびかれて2部集会が始まりました。まず、実行委員会の仲間が「エルベの誓い」を読み上げました。

1部集会のみで日帰りの仲間がいたので、2部集会の参加者は50人ほどでしょうか。

広島の平和の火をトーチに灯した反核平和の火リレーのランナーが会場に到着し、14地区ある実行委員会の代表に平和の火を引き継ぎました。

各地区実行委員会の代表が「反帝連帯・平和・友情」の火文字に点火しました。

夜空を焦がさんばかりの力強い火文字の勢いに、仲間たちからウワーっと大きな歓声が上がりました。やはり祭典には火が欠かせません。祭りには火の儀式が必要なのです。


2部集会はまだまだ続きます。反戦平和、反原発のクイズ大会で盛り上がりました。クイズ大会の賞品は学習用の各種パンフレットです。コンプをめざしてみんなで難問、珍問に取り組みました。

夕闇の下で仲間たちの楽しい時間が過ぎていきました。

エルベの火が青年たちを見守ります。78年前の米ソ両軍の兵士たちの平和の誓いを、現代の日本に暮らす私たちも引き継いでいます。全国各地でまたこの火が燃え上がる日をめざして、学習と交流を一人でも多くの仲間たちに広げたいものです。

事務局が子どもの頃に過ごしたピオネールキャンプの夜を思い出しました。


2部集会の後は夕食交流会でした。食事や会場の準備で指宿地区実行委員会の仲間たちが大活躍でした。お肉ややきそばが本当においしかったです。

2部集会で灯したエルベの火のまわりでも仲間たちが交流を続けていました。こうしてきずなが深まっていきます。


星が降るような見事な夜空に、くるまざで交流する仲間たちの笑い声がいつまでも響き続けていました。とても幸せな時間です。

そして新しい朝がやってきました。シャワーを浴びてさっぱりしてから、少しだけ公園内を散歩しました。

早朝から昨夜の2部集会の後片付けが始まっていました。お疲れ様です。

開聞岳を見上げると、傘をかぶっていました。大島地区実行委員会の仲間たちが朝5時に出発して7合目まで登ったそうです。素晴らしい!

同じ分散会の大島地区実行委員会の仲間が素敵なポロシャツを着ていました。事務局もいつか奄美に行ってみたいものです。


事務局が参加した分散会では、南種子町職の保健師の仲間が熱心に発言していました。先日の事務局の資料に掲載していた各都道府県別の被爆者健康手帳の所持数などの資料について言及してくれました。この仲間は、看護学生だった頃、高齢者から意識的に戦争体験について聞いていたそうです。「なんでそんなことを聞きたいの」という高齢者は一人もいなかったとのことです。看護学校で自分が教える側にまわったとき、同じように学生たちに「戦争体験者がいたら話を聞いてみよう」と呼びかけているそうです。
他の仲間たちも、「普段の職場では平和問題について話す機会はなかなかない」と言いつつ、反戦平和運動の強化に向けたそれぞれの思いやぶつかりを報告してくれました。ただ、みんながいちばん活発に発言したのは職場の問題でした。県職労の仲間が、超勤の上限の設定と不払い労働、新規採用者をはじめ青年層の離職の問題について熱心に報告していました。職場の課題と反戦平和の課題とが結び付くと、労働運動がもっと楽しくなるはずです。


全体集会では、各分散会からの報告と、実行委員長による集約を受けました。残念ながら、機材の不調でインターナショナルは歌えませんでした。

締めくくりにみんなで団結ガンバロー。無事に2日間の学習と交流が終わりました。

仲間たちがそれぞれ帰路につきます。2日間の祭典で確かなまなびを得て職場へと戻る南種子町職の2人の仲間の後ろ姿の頼もしさ、美しさに心が震えました。仲間たちのお役に立てるようにこれからもがんばろうと決意を固めました。



帰りは鹿児島市職の仲間に鹿児島空港まで送ってもらいました。まだまだ夏の空に見えても、少し日が傾くと少しだけ秋の気配が感じられました。
美しい鹿児島の風景、そして頼もしい仲間たちとの2日間の交流に元気をもらいました。近年はキャンプ形式での祭典を取り組める県実行委員会が少なくなっています。しかし、そこで得られるまなびの大きさは何物にも代えがたいものだと再確認できました。みんなでまた「祭典」を取り組めるようにしたいと思いました。
岩手...10月14日
宮城(仙台地区)...8月19日
山形...9月1日~2日
埼玉...8月6日
関東ブロック...7月9日
神奈川…9月24日
新潟...8月26日~27日
長野...9月2日
富山…9月30日
兵庫...10月14日
広島...9月2日~3日
香川...9月30日
徳島...9月16日
鹿児島...9月2日~3日
事務局は8月は埼玉県祭典に参加し、さらに9月2日~3日に開催された第61回鹿児島県祭典に講師でお招きをいただきました。実は任務で鹿児島に行くのは初めてです。この間の平和運動の課題を踏まえて資料を準備して祭典に臨みました。

9月2日朝の飛行機で鹿児島に向かいました。離陸後、上空から夏の終わりの富士山がよく見えました。
事務局は飛行機に乗るときは機内のオーディオ番組で落語を聴くか、笑点の動画を見るのが好きです。今回はねずっちのなぞかけを楽しみました。労働組合にも、大会や執行委員会でなぞかけのような見事な答弁を披露する役員がときどきいますよね。

1時間半ほどのフライトで無事に鹿児島空港に到着。着陸直前に見えた鹿児島空港周辺には茶畑が目立ちました。鹿児島は静岡に次ぐお茶所とのことです。
鹿児島空港からは鹿児島中央駅前までバスに乗って移動しました。車窓から南国の夏の風景を楽しみました。BGMは渡辺美里の「サマータイムブルース」です。
空港バスが到着する鹿児島中央駅前のバスターミナルに鹿児島市職の仲間が迎えに来てくれました。仲間の車に乗り換え、桜島を横目に見ながら薩摩半島を南に一路、指宿市方面に向かいました。
第61回鹿児島県祭典の開会集会は、13:30から指宿市の山川ホールで行われました。まず野崎実行委員長のあいさつ、指宿地区実行委員会の仲間の歓迎あいさつ、かけつけてくださった来賓のみなさんのあいさつ、そして丁寧な基調提案を受けました。馬毛島での基地建設、奄美での自衛隊強化、川内原発の再稼働など、鹿児島の仲間たちは地域での反戦平和をめぐる課題を多く抱えています。
基調提案に続いて事務局が1時間強の講演を行いました。タイトルは「誰が「平和を守る」のか」としました。この間の反戦平和をめぐる情勢を踏まえて、「平和を守るのは国境、国籍、民族の枠組みを超えた国際的な民衆のたたかいなのか、それとも軍事力による抑止なのか」を問いました。
今回はまず、事務局が子ども時代に聴かされていた祖父母の戦前、戦中、戦後の満州での体験についてお話ししました。過去の戦争における民衆の被害の体験が、戦後日本の反戦平和意識の礎となりました。その反戦平和意識は同時にアジアの人々への加害の認識の欠如という課題が指摘され続けています。しかし、いまや加害の歴史どころか被害の記憶さえも忘れ去られつつあります。それは、日本の平和運動の専守防衛論=個別的自衛権の容認への後退という事態をもたらしています。戦争体験の意識的な継承は重要な課題です。
そして、青年たちが戦争体験に直接に触れる機会がなくなった時代の反戦平和運動の根拠は何かを模索しなければなりません。
講演の後は、反核平和の火リレーに向けて実行委員会で取り組んだ広島での採火式の報告がありました。旧日本陸軍の毒ガス製造工場があった大久野島にも行き、フィールドワークに取り組んだとのことです。過去の戦争における加害の事実を知る貴重な学習になったはずです。さらに、教組の仲間から沖縄闘争をめぐる情勢や取り組みの報告を受けました。
2部集会は「かいもん山麓ふれあい公園」に場所を移して行われました。
山川ホールからあらためて車で移動です。向こうに開聞岳が見えてきました。本当に美しい山ですね。
薩摩半島の最南端に近付きました。景色が本当に雄大です。左手に海が見えてきました。そして海の向こうには大隅半島が見えます。佐多岬の向こうには種子島と屋久島、さらにその先には吐噶喇列島、そして奄美群島、沖縄、宮古、八重山、ついには与那国島まで琉球弧が続きます。
JRの駅の最南端となる「西大山駅」が近くにあるようです。事務局はとくに鉄ヲタではないのですが、実際に来てみると感慨深いものですね。
「かいもん山麓ふれあい公園」では、実行委員会の仲間たちが2部集会の準備を進めていました。
開聞岳のふもとにある美しい公園です。
やがて夕闇が迫るころ、名司会にみちびかれて2部集会が始まりました。まず、実行委員会の仲間が「エルベの誓い」を読み上げました。
1部集会のみで日帰りの仲間がいたので、2部集会の参加者は50人ほどでしょうか。
広島の平和の火をトーチに灯した反核平和の火リレーのランナーが会場に到着し、14地区ある実行委員会の代表に平和の火を引き継ぎました。
各地区実行委員会の代表が「反帝連帯・平和・友情」の火文字に点火しました。
夜空を焦がさんばかりの力強い火文字の勢いに、仲間たちからウワーっと大きな歓声が上がりました。やはり祭典には火が欠かせません。祭りには火の儀式が必要なのです。
2部集会はまだまだ続きます。反戦平和、反原発のクイズ大会で盛り上がりました。クイズ大会の賞品は学習用の各種パンフレットです。コンプをめざしてみんなで難問、珍問に取り組みました。
夕闇の下で仲間たちの楽しい時間が過ぎていきました。
エルベの火が青年たちを見守ります。78年前の米ソ両軍の兵士たちの平和の誓いを、現代の日本に暮らす私たちも引き継いでいます。全国各地でまたこの火が燃え上がる日をめざして、学習と交流を一人でも多くの仲間たちに広げたいものです。
事務局が子どもの頃に過ごしたピオネールキャンプの夜を思い出しました。
2部集会の後は夕食交流会でした。食事や会場の準備で指宿地区実行委員会の仲間たちが大活躍でした。お肉ややきそばが本当においしかったです。
2部集会で灯したエルベの火のまわりでも仲間たちが交流を続けていました。こうしてきずなが深まっていきます。
星が降るような見事な夜空に、くるまざで交流する仲間たちの笑い声がいつまでも響き続けていました。とても幸せな時間です。
そして新しい朝がやってきました。シャワーを浴びてさっぱりしてから、少しだけ公園内を散歩しました。
早朝から昨夜の2部集会の後片付けが始まっていました。お疲れ様です。
開聞岳を見上げると、傘をかぶっていました。大島地区実行委員会の仲間たちが朝5時に出発して7合目まで登ったそうです。素晴らしい!
同じ分散会の大島地区実行委員会の仲間が素敵なポロシャツを着ていました。事務局もいつか奄美に行ってみたいものです。
事務局が参加した分散会では、南種子町職の保健師の仲間が熱心に発言していました。先日の事務局の資料に掲載していた各都道府県別の被爆者健康手帳の所持数などの資料について言及してくれました。この仲間は、看護学生だった頃、高齢者から意識的に戦争体験について聞いていたそうです。「なんでそんなことを聞きたいの」という高齢者は一人もいなかったとのことです。看護学校で自分が教える側にまわったとき、同じように学生たちに「戦争体験者がいたら話を聞いてみよう」と呼びかけているそうです。
他の仲間たちも、「普段の職場では平和問題について話す機会はなかなかない」と言いつつ、反戦平和運動の強化に向けたそれぞれの思いやぶつかりを報告してくれました。ただ、みんながいちばん活発に発言したのは職場の問題でした。県職労の仲間が、超勤の上限の設定と不払い労働、新規採用者をはじめ青年層の離職の問題について熱心に報告していました。職場の課題と反戦平和の課題とが結び付くと、労働運動がもっと楽しくなるはずです。
全体集会では、各分散会からの報告と、実行委員長による集約を受けました。残念ながら、機材の不調でインターナショナルは歌えませんでした。
締めくくりにみんなで団結ガンバロー。無事に2日間の学習と交流が終わりました。
仲間たちがそれぞれ帰路につきます。2日間の祭典で確かなまなびを得て職場へと戻る南種子町職の2人の仲間の後ろ姿の頼もしさ、美しさに心が震えました。仲間たちのお役に立てるようにこれからもがんばろうと決意を固めました。
帰りは鹿児島市職の仲間に鹿児島空港まで送ってもらいました。まだまだ夏の空に見えても、少し日が傾くと少しだけ秋の気配が感じられました。
美しい鹿児島の風景、そして頼もしい仲間たちとの2日間の交流に元気をもらいました。近年はキャンプ形式での祭典を取り組める県実行委員会が少なくなっています。しかし、そこで得られるまなびの大きさは何物にも代えがたいものだと再確認できました。みんなでまた「祭典」を取り組めるようにしたいと思いました。
2023年08月30日
差別主義団体の集会への「利用制限」を求める共同声明の紹介
排外主義者による横網町公園の「朝鮮人犠牲者追悼碑」前での9月1日の「集会」の開催にあたり、開催を認めないよう「利用制限」を東京都に訴える共同声明が発表されました。以下にその声明を紹介します。
■東京都は「慰霊の公園」での死者への冒涜を阻止してください
-朝鮮人犠牲者追悼碑前でのヘイト集会に「利用制限」適用を
今年は1923年9月1日に起きた関東大震災から100年です。この震災は、約10万5000人の死者・行方不明者を出すという歴史に残る大惨事になりました。
震災直後には、「朝鮮人が放火をしている」「井戸に毒を入れている」といった流言を信じた民衆と軍隊が朝鮮人を虐殺しました。警察もまた流言を拡散しました。
内閣府中央防災会議の専門調査会報告「1923関東大震災【第2編】」は、これについて「自然災害がこれほどの規模で人為的な殺傷行為を誘発した例は日本の災害史上、他に確認できず、大規模災害時に発生した最悪の事態として、今後の防災活動においても念頭に置く必要がある」と指摘し、その背景に民族差別があったことを指摘しています。つまりこの事件は、日本近現代史上最悪のヘイトクライムだったのです。
震災後、東京市は震災の死者を悼む場として横網町公園を開園しました。この公園は、戦後は東京大空襲の死者をも悼む場となりました。同公園のホームページが「慰霊と継承の公園」と定義しているとおり、中央にある慰霊堂の周辺に、いくつもの追悼・鎮魂のモニュメントが置かれています。その中には、虐殺された朝鮮人を悼む「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」もあります。
震災100年となる今年の9月1日は、横網町公園にとって例年にも増して特別な日です。慰霊堂では都主催の法要が行われ、関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑の前では、午前には日本の市民が主体となった朝鮮人犠牲者追悼式典が、午後には在日朝鮮人主体の同胞追悼会が行なわれます。
ところが今年、差別主義団体「そよ風」が、同日の夕方4時半から「真実はここにある! 関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊祭」と称する集会を、しかも朝鮮人犠牲者追悼碑の前で行うことを宣言しました。私たちは、これは許しがたい最悪の死者への冒涜であり、行動そのものが民族差別であると考えます。
彼らは2017年以降、毎年9月1日に、この追悼碑から30メートルほど離れた場所で「関東大震災石原町犠牲者慰霊祭」と称する集会を開いています。そこでは、朝鮮人が暴動・放火・強姦を行ったという当時の流言を「事実だ」とする虚偽の主張を唱え、「犯人は不逞朝鮮人」「自衛行動や制圧行動(虐殺のこと)は正当な行為」といった発言を繰り返し、ときには巨大な拡声器を外に向け、こうした発言を公園内に響かせたりしてきました。
この集会には、ヒトラーを崇拝するネオナチ活動家、現場責任者として関与したデモの参加者の発言が朝鮮人の殺害を煽動したなどとして東京都によって繰り返しヘイトスピーチと認定されているレイシスト活動家、ヘイト街宣によって裁判所から対象周辺での街宣禁止の仮処分を受けた人物たちが参加してきました。
「そよ風」は、在特会(在日特権を許さない市民の会)に近い団体として2009年に結成されました。そのブログには、朝鮮人に対する露骨な差別表現が散見されます。
東京都は、2020年に、「そよ風」の横網町公園での集会の言動をヘイトスピーチとして認定しています。この認定には、東京都が「適切な措置」をとるべきという人権審査会の「意見」も盛り込まれました。
関東大震災時に「不逞朝鮮人」が暴動・放火・強姦を行ったのだ、自警団の虐殺は「正当な行為」だったのだと主張する団体が、朝鮮人の殺害を煽動するような人々も集めて、「朝鮮人を慰霊する」と嘯いて集会を開く。しかも「慰霊の日」である9月1日に、「慰霊の公園」の中で、さらに彼ら自身が撤去を要求している朝鮮人犠牲者追悼碑の前で――。
これはヘイトクライムの犠牲となった死者たちに対する、あからさまな嘲笑であり、冒涜です。集会自体が「東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現を目指す条例」(オリンピック条例)が定めるヘイトスピーチ=「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」に相当すると、私たちは考えます。「言動」とは「言葉と行い」を指すからです。
同条例では、ヘイトスピーチが行われる蓋然性が高く、それに起因して施設の安全な管理に支障をきたす蓋然性が高い場合に、施設の「利用制限」ができると定めています。
「慰霊の公園」で公然と死者を冒涜すること自体が、横網町公園の「慰霊」という機能に支障をきたし、慰霊のために公園を訪れる人々に対する精神的暴力となります。私たちは、施設管理者たる東京都建設局公園緑地部が「利用制限」の判断を下すべき時だと考えます。少なくとも、条例に基づいて人権審査会に諮問し、その意見を聴取すべきです。
東京都は、「慰霊の公園」での死者への嘲笑と冒涜を許さないでください。
ヘイトクライムの犠牲者を悼む場でのヘイトスピーチ集会を認めないでください。
2023年8月29日
呼びかけ人
加藤直樹(ノンフィクション作家)
坂手洋二(劇作家、演出家)
中沢けい(小説家、法政大学教授)
賛同人
青木有加(弁護士)
明戸隆浩(社会学者)
有田芳生(ジャーナリスト)
飯山由貴(美術家・多摩美術大学非常勤講師)
池田賢太(弁護士・札幌弁護士会)
石坂浩一(立教大学兼任講師)
伊藤朝日太郎(弁護士)
内田雅敏(弁護士)
内海愛子(恵泉女学園大学名誉教授)
岡本厚(前岩波書店社長)
小野沢あかね(立教大学教授)
魁生由美子(愛媛大学教授)
郭基煥(大学教員)
加藤圭木(一橋大学大学院社会学研究科准教授)
金井真紀(文筆家・イラストレーター)
上瀧浩子(弁護士)
河かおる(滋賀県立大学教員)
木村元彦(ノンフィクションライター)
木村友祐(小説家)
金富子(東京外国語大学名誉教授)
清末愛砂(室蘭工業大学大学院教授)
金竜介(弁護士)
具良鈺(弁護士)
小林ふみ子(法政大学教授)
空野佳弘(弁護士)
辛淑玉(のりこえネット共同代表)
高貝亮(弁護士)
高橋哲哉(哲学者)
田中宏(一橋大名誉教授)
田中正敬(専修大学教授)
張界満(弁護士)
寺中誠(東京経済大学教員)
寺脇研(映画評論家)
戸塚悦朗(弁護士)
殿平善彦(一乗寺住職)
外村大(東京大学教員)
仲岡しゅん(弁護士)
樋口直人(社会学者)
穂積剛(弁護士)
浜田桂子(絵本作家)
原田學植(弁護士)
藤井誠二(ノンフィクションライター)
藤野裕子(早稲田大学教授)
二木啓孝(ジャーナリスト)
前川喜平(現代教育行政研究会代表)
松谷信司(「キリスト新聞」編集長)
森川文人(弁護士)
宮下萌(弁護士)
町山広美(放送作家)
師岡康子(弁護士)
前田朗(東京造形大学名誉教授)
前田和男(ノンフィクション作家)
山口二郎(法政大学教授)
山崎雅弘(戦史・紛争史研究家)
吉井正明(兵庫県弁護士会)
若森資朗(のりこえネット共同代表) (56人、アイウエオ順・敬称略)
声明は以上です。
東京都に「利用制限」を求める意味について、ある方のSNSでの分析を以下に紹介します。
極右「そよ風」は朝鮮人虐殺の存在は認めつつ「6000人は多すぎる、二百数十人だ」と称して「真実の慰霊祭」を「朝鮮人犠牲者慰霊碑」の前で行うと公言。実に狡猾。
ただし「そよ風」の本当の意図は、①「そよ風」慰霊祭に対し実力阻止行動がなされること。②そして東京都が「喧嘩両成敗」の判断を下し、朝鮮人犠牲者慰霊碑前での異例集会を一切禁止すること。つまり②の呼び水として、①を目論んでいる。
だから「そよ風」のシナリオに決して乗ってはいけない。挑発に乗って、実力阻止に向かってはいけない。
以上の指摘は的を得ていると思います。それにしても、極右団体による「自作自演」が心配です。
9月1日からは「福田村事件」の映画が公開されます。多くの人が映画館に足を運ぶことを期待します。
■東京都は「慰霊の公園」での死者への冒涜を阻止してください
-朝鮮人犠牲者追悼碑前でのヘイト集会に「利用制限」適用を
今年は1923年9月1日に起きた関東大震災から100年です。この震災は、約10万5000人の死者・行方不明者を出すという歴史に残る大惨事になりました。
震災直後には、「朝鮮人が放火をしている」「井戸に毒を入れている」といった流言を信じた民衆と軍隊が朝鮮人を虐殺しました。警察もまた流言を拡散しました。
内閣府中央防災会議の専門調査会報告「1923関東大震災【第2編】」は、これについて「自然災害がこれほどの規模で人為的な殺傷行為を誘発した例は日本の災害史上、他に確認できず、大規模災害時に発生した最悪の事態として、今後の防災活動においても念頭に置く必要がある」と指摘し、その背景に民族差別があったことを指摘しています。つまりこの事件は、日本近現代史上最悪のヘイトクライムだったのです。
震災後、東京市は震災の死者を悼む場として横網町公園を開園しました。この公園は、戦後は東京大空襲の死者をも悼む場となりました。同公園のホームページが「慰霊と継承の公園」と定義しているとおり、中央にある慰霊堂の周辺に、いくつもの追悼・鎮魂のモニュメントが置かれています。その中には、虐殺された朝鮮人を悼む「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」もあります。
震災100年となる今年の9月1日は、横網町公園にとって例年にも増して特別な日です。慰霊堂では都主催の法要が行われ、関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑の前では、午前には日本の市民が主体となった朝鮮人犠牲者追悼式典が、午後には在日朝鮮人主体の同胞追悼会が行なわれます。
ところが今年、差別主義団体「そよ風」が、同日の夕方4時半から「真実はここにある! 関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊祭」と称する集会を、しかも朝鮮人犠牲者追悼碑の前で行うことを宣言しました。私たちは、これは許しがたい最悪の死者への冒涜であり、行動そのものが民族差別であると考えます。
彼らは2017年以降、毎年9月1日に、この追悼碑から30メートルほど離れた場所で「関東大震災石原町犠牲者慰霊祭」と称する集会を開いています。そこでは、朝鮮人が暴動・放火・強姦を行ったという当時の流言を「事実だ」とする虚偽の主張を唱え、「犯人は不逞朝鮮人」「自衛行動や制圧行動(虐殺のこと)は正当な行為」といった発言を繰り返し、ときには巨大な拡声器を外に向け、こうした発言を公園内に響かせたりしてきました。
この集会には、ヒトラーを崇拝するネオナチ活動家、現場責任者として関与したデモの参加者の発言が朝鮮人の殺害を煽動したなどとして東京都によって繰り返しヘイトスピーチと認定されているレイシスト活動家、ヘイト街宣によって裁判所から対象周辺での街宣禁止の仮処分を受けた人物たちが参加してきました。
「そよ風」は、在特会(在日特権を許さない市民の会)に近い団体として2009年に結成されました。そのブログには、朝鮮人に対する露骨な差別表現が散見されます。
東京都は、2020年に、「そよ風」の横網町公園での集会の言動をヘイトスピーチとして認定しています。この認定には、東京都が「適切な措置」をとるべきという人権審査会の「意見」も盛り込まれました。
関東大震災時に「不逞朝鮮人」が暴動・放火・強姦を行ったのだ、自警団の虐殺は「正当な行為」だったのだと主張する団体が、朝鮮人の殺害を煽動するような人々も集めて、「朝鮮人を慰霊する」と嘯いて集会を開く。しかも「慰霊の日」である9月1日に、「慰霊の公園」の中で、さらに彼ら自身が撤去を要求している朝鮮人犠牲者追悼碑の前で――。
これはヘイトクライムの犠牲となった死者たちに対する、あからさまな嘲笑であり、冒涜です。集会自体が「東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現を目指す条例」(オリンピック条例)が定めるヘイトスピーチ=「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」に相当すると、私たちは考えます。「言動」とは「言葉と行い」を指すからです。
同条例では、ヘイトスピーチが行われる蓋然性が高く、それに起因して施設の安全な管理に支障をきたす蓋然性が高い場合に、施設の「利用制限」ができると定めています。
「慰霊の公園」で公然と死者を冒涜すること自体が、横網町公園の「慰霊」という機能に支障をきたし、慰霊のために公園を訪れる人々に対する精神的暴力となります。私たちは、施設管理者たる東京都建設局公園緑地部が「利用制限」の判断を下すべき時だと考えます。少なくとも、条例に基づいて人権審査会に諮問し、その意見を聴取すべきです。
東京都は、「慰霊の公園」での死者への嘲笑と冒涜を許さないでください。
ヘイトクライムの犠牲者を悼む場でのヘイトスピーチ集会を認めないでください。
2023年8月29日
呼びかけ人
加藤直樹(ノンフィクション作家)
坂手洋二(劇作家、演出家)
中沢けい(小説家、法政大学教授)
賛同人
青木有加(弁護士)
明戸隆浩(社会学者)
有田芳生(ジャーナリスト)
飯山由貴(美術家・多摩美術大学非常勤講師)
池田賢太(弁護士・札幌弁護士会)
石坂浩一(立教大学兼任講師)
伊藤朝日太郎(弁護士)
内田雅敏(弁護士)
内海愛子(恵泉女学園大学名誉教授)
岡本厚(前岩波書店社長)
小野沢あかね(立教大学教授)
魁生由美子(愛媛大学教授)
郭基煥(大学教員)
加藤圭木(一橋大学大学院社会学研究科准教授)
金井真紀(文筆家・イラストレーター)
上瀧浩子(弁護士)
河かおる(滋賀県立大学教員)
木村元彦(ノンフィクションライター)
木村友祐(小説家)
金富子(東京外国語大学名誉教授)
清末愛砂(室蘭工業大学大学院教授)
金竜介(弁護士)
具良鈺(弁護士)
小林ふみ子(法政大学教授)
空野佳弘(弁護士)
辛淑玉(のりこえネット共同代表)
高貝亮(弁護士)
高橋哲哉(哲学者)
田中宏(一橋大名誉教授)
田中正敬(専修大学教授)
張界満(弁護士)
寺中誠(東京経済大学教員)
寺脇研(映画評論家)
戸塚悦朗(弁護士)
殿平善彦(一乗寺住職)
外村大(東京大学教員)
仲岡しゅん(弁護士)
樋口直人(社会学者)
穂積剛(弁護士)
浜田桂子(絵本作家)
原田學植(弁護士)
藤井誠二(ノンフィクションライター)
藤野裕子(早稲田大学教授)
二木啓孝(ジャーナリスト)
前川喜平(現代教育行政研究会代表)
松谷信司(「キリスト新聞」編集長)
森川文人(弁護士)
宮下萌(弁護士)
町山広美(放送作家)
師岡康子(弁護士)
前田朗(東京造形大学名誉教授)
前田和男(ノンフィクション作家)
山口二郎(法政大学教授)
山崎雅弘(戦史・紛争史研究家)
吉井正明(兵庫県弁護士会)
若森資朗(のりこえネット共同代表) (56人、アイウエオ順・敬称略)
声明は以上です。
東京都に「利用制限」を求める意味について、ある方のSNSでの分析を以下に紹介します。
極右「そよ風」は朝鮮人虐殺の存在は認めつつ「6000人は多すぎる、二百数十人だ」と称して「真実の慰霊祭」を「朝鮮人犠牲者慰霊碑」の前で行うと公言。実に狡猾。
ただし「そよ風」の本当の意図は、①「そよ風」慰霊祭に対し実力阻止行動がなされること。②そして東京都が「喧嘩両成敗」の判断を下し、朝鮮人犠牲者慰霊碑前での異例集会を一切禁止すること。つまり②の呼び水として、①を目論んでいる。
だから「そよ風」のシナリオに決して乗ってはいけない。挑発に乗って、実力阻止に向かってはいけない。
以上の指摘は的を得ていると思います。それにしても、極右団体による「自作自演」が心配です。
9月1日からは「福田村事件」の映画が公開されます。多くの人が映画館に足を運ぶことを期待します。
2023年08月29日
関東大震災における朝鮮人虐殺の実相をまなぶ
今年9月1日で、相模湾を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震とその後の社会的な混乱のなかで10万5千人の死者・行方不明者が発生した関東大震災の発生から100年を迎えます。
大地震の発生の直後から、被災地や周辺地域で「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が暴動を起こした」といった流言やデマが広がり、軍隊、警察、「自警団」によって6千人とも言われる朝鮮人が虐殺されました。中国人も700人以上が殺害され、福田村事件のように朝鮮人と間違われた日本人も虐殺の対象となりました。さらに「亀戸事件」「甘粕事件」のように労働運動の活動家、社会主義者や無政府主義者が殺害されました。
ちなみに、東京大学情報学環の橋元良明教授によると、「流言」とは(1)実態を持つある人物や組織、事象をめぐる、(2)パーソナルコミュニケーション=口コミやネットによる、(3)私的で、(4)責任の所在が明らかでない、(5)一過性の、(6)未確認に、広がっていく情報とのことです。「デマ」は、「デマゴギー」という言葉からも分かるように、誰かがウソだと分かっていて意図的に広げるものです。ただし、デマを本当だと信じて広める人もいるので、デマも広い意味では流言に含まれるという解釈もあるとのことです。
朝鮮人虐殺を隠蔽・矮小化したい勢力が、朝鮮人虐殺の真相を明らかにしようとする市民の運動への攻撃を強めています。大震災と虐殺事件が発生してから50年となる1973年以降、9月1日に開催される追悼式典に歴代の都知事名での追悼文が必ず寄せられていましたが、2017年以降は小池都政の下でそれがなくなってしまっています。
平和友好祭では過去の歴史における日本の「加害」の事実をまなぶことを重要視しています。関東大震災の朝鮮人虐殺の事実を若い世代がまなぶことが必要です。8月24日(木)午後にフィールドワークを行いました。

まず、14時に両国の横網町公園に集合しました。
1922年に東京市が陸軍被服廠跡地を買収し、公園の造成を進めていたところに関東大震災が発生しました。まだ空き地だったために周辺から多くの人々が避難したものの、火災により3万8千人もの犠牲者が出た場所です。その後、この場所が1930年9月1日に横網公園として開園し、翌年には復興記念館が完成しました。
今回は在日本朝鮮青年同盟の仲間の案内で、朝鮮大学校の研究員の李豊海さんから説明を受けながらの学習となりました。今回の投稿内容についても、その多くを李豊海さんの説明・解説を参考にしています。



公園内の復興記念館のわきには、震災時の火災の高熱で溶けた鉄や焼け残った自動車のフレームが展示されています。

1973年9月29日に除幕式が行われた「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」は、朝鮮人虐殺の事実を記して日本人が建立した最初の追悼碑という意義があります。
関東大震災50年にあたり、日朝協会の渡辺佐平会長、演劇の演出家であり俳優の千田是也、仏教徒・平和運動家の壬生照順、そして東京都議会の全会派の代表により実行委員会が結成され、この追悼碑が建立されました。
しかし、碑文に虐殺を実行した主体が明記されなかったという限界もあります。とくに、軍隊と警察という官憲が虐殺行為の主体として明記されず、日本の国家責任を問うものにはなりませんでした。東京都との交渉過程で「官憲」の文字を入れることができなくなったとのことです。
以下がこの横網町公園の追悼碑の碑文です。
一九二三年九月発生した関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言飛語のため六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。私たちは、震災五十周年を迎え、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎になると信じます。思想、信条の相違を越えて、この碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、日本と朝鮮民族の永遠の親善の力となることを期待します。 一九七三年九月 関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会
この追悼碑建立の実行委員会に関わった俳優の千田是也は、関東震災の発生時は19歳で、千駄ヶ谷に住んでいました。震災発生翌日の9月2日夜、「朝鮮人集団が日本人を襲っている」という噂を聞きつけ、杖を手に街に飛び出した是也は、逆に朝鮮人に間違えられて竹やりやこん棒で武装した日本人に小突きまわされてしまいました。たまたま是也を知る人がいて解放されたものの、この経験が彼に大きな影響を与えました。是也はのちに「私も加害者になっていたかも知れない。その自戒を込めて、センダ・コレヤ、つまり千駄ヶ谷のコレヤン(Korean)という芸名を名乗ったのだ」と語っています。

外は暑いので、見学を兼ねて東京都慰霊堂の中で引き続き豊海さんのお話を聞きました。
1930年に落成した東京都慰霊堂には、1923年の関東大震災の犠牲者、そして1945年の東京大空襲の犠牲者のお骨が納められています。
大震災と戦争による空襲のどちらにおいても下町に集中して大きな被害が出た事実があります。
毎年、関東大震災が起きた9月1日と、東京大空襲の3月10日の年2回、慰霊の法要が行われています。

東京都復興記念館も見学しました。100年前の大震災の被害状況を示した写真を見ることができます。
その後、地下鉄と京成電鉄を乗り継ぎ、八広駅まで移動しました。
駅から歩いて2分ほどのところに事務所のある、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」(略称ほうせんか)に向かいました。


「ほうせんか」の事務所の庭には2009年9月に建立された「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼碑」があります。この碑の碑文は横網町講演の追悼碑とは違い、虐殺の主体、加害者が誰であったかをはっきり示しています。
以下が碑文の内容です。
一九二三年関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言飛語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された。東京の下町一帯でも、植民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知られぬまま尊い命を奪われた。この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの日を建立する。二〇〇九年九月
あわせて、追悼碑の傍にある解説版の文章も以下に紹介します。
1910年、日本は朝鮮(大韓帝国)を植民地にした。独立運動は続いたが、そのたび武力弾圧された。過酷な植民地政策の下で生活の困窮がすすみ、1920年代にはいると仕事や勉学の機会を求め、朝鮮から日本に渡る人が増えていた。
1923年9月1日 関東大震災の時、墨田区では本所地域を中心に大火災となり、荒川土手は避難する人であふれた。「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が攻めてくる」等の流言飛語がとび、旧四ツ木橋では軍隊が機関銃で韓国・朝鮮人を撃ち、民衆も殺害した。
60年近くたって荒川放水路開削の歴史を調べていた一小学校教員は、地元のお年寄り方から事件の話を聞いた。また当時、犠牲者に花を手向ける人もいたと聞いて、調査と追悼を呼びかけた。震災後の11月の新聞記事によると、憲兵警察が警戒する中、河川敷の犠牲者の遺体が少なくとも二度掘り起こされ、どこかに運び去られていた。犠牲者のその後の行方は、調べることができなかった。
韓国・朝鮮人であることを理由に殺害され、遺骨も墓もなく、真相も究明されず、公的責任も取られずに86年が過ぎた。この犠牲者を悼み、歴史を省み、民族の違いで排斥する心を戒めたい。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う、民間の多くの人々によってこの碑は建立された。
2009年9月 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会 グループほうせんか

これが荒川土手の上から見た「ほうせんか」の事務所です。追悼碑は左側の庭の奥にあります。

旧四ツ木橋があった場所で「ほうせんか」の西崎さんからお話をうかがいました。

地震の後に大火災が起きていた現在の墨田区方面からこの道を通って多くの人々が逃げたそうです。この道は地震による崩壊を免れた旧四ツ木橋に続いていました。その四ツ木橋を避難する人々を自警団が誰何して朝鮮人を探し出し、さらに荒川放水路沿いで軍隊が朝鮮人を機関銃で殺害した証言が多く残されています。

旧四ツ木橋の写真です。




河川敷に降り、虐殺された朝鮮人や、亀戸事件で殺害された社会主義者の遺体が埋められた場所でお話を聞きました。
虐殺が行われたのは旧四ツ木橋付近だけではありません。東京だけでなく関東一円でも記録が残されています。そして、日本の学校教育で使用されている歴史教科書では、朝鮮人虐殺について「自警団」が行った行為として記述されていますが、そこに警察や軍隊が関与していた事実を踏まえる必要があります。
中公新書の「民衆暴力-一揆・暴動・虐殺の日本近代」という本で、藤野裕子さんは以下のように述べています。
「国家の責任が重大であることは前提であるが、朝鮮人を殺す側に回った日本民衆については、どのように考えればよいのだろうか。国家によって操られた被害者と捉えるのは間違いだろう。実際に手を下した人びとは、まぎれもなく加害者である。重要なのは、(中略)どのようにして殺害に至ったのか、その論理を明らかにすることである」

現代書館から2016年に西崎さんがまとめた証言集が発刊されています。歴史修正主義に対する反撃であり、日本人が自らの加害の歴史と向き合うために必須の書です。
「ほうせんか」という団体名は「鳳仙花」という歌をもとにしています。
李政美さんが歌う「鳳仙花」が動画サイトにありました。
https://housenka.jimdofree.com/
以上が「ほうせんか」のホームページです。ぜひご覧ください。
西崎さんのお話を聞き、「語り継ぐ」という平和友好祭運動の課題に対する重要な示唆をいただいたように感じました。直接の当事者ではなくても歴史と真摯に向き合い、「後事の師」としなければなりません。
いま日本では歴史修正主義がさまざまな形態をとってその影響を強めつつあります。排外主義にもとづく「流言」「デマ」がSNSを通じて簡単に広められている現実があります。「戦争に反対する」という体裁を取りつつ、歴史修正主義と戦後平和運動の解体・清算に無自覚に加担している人々もいます。
平和友好祭でも、青年たちが差別や排外主義とたたかうために今後もフィールドワークや学習と交流の機会を持ちたいと思います。
大地震の発生の直後から、被災地や周辺地域で「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が暴動を起こした」といった流言やデマが広がり、軍隊、警察、「自警団」によって6千人とも言われる朝鮮人が虐殺されました。中国人も700人以上が殺害され、福田村事件のように朝鮮人と間違われた日本人も虐殺の対象となりました。さらに「亀戸事件」「甘粕事件」のように労働運動の活動家、社会主義者や無政府主義者が殺害されました。
ちなみに、東京大学情報学環の橋元良明教授によると、「流言」とは(1)実態を持つある人物や組織、事象をめぐる、(2)パーソナルコミュニケーション=口コミやネットによる、(3)私的で、(4)責任の所在が明らかでない、(5)一過性の、(6)未確認に、広がっていく情報とのことです。「デマ」は、「デマゴギー」という言葉からも分かるように、誰かがウソだと分かっていて意図的に広げるものです。ただし、デマを本当だと信じて広める人もいるので、デマも広い意味では流言に含まれるという解釈もあるとのことです。
朝鮮人虐殺を隠蔽・矮小化したい勢力が、朝鮮人虐殺の真相を明らかにしようとする市民の運動への攻撃を強めています。大震災と虐殺事件が発生してから50年となる1973年以降、9月1日に開催される追悼式典に歴代の都知事名での追悼文が必ず寄せられていましたが、2017年以降は小池都政の下でそれがなくなってしまっています。
平和友好祭では過去の歴史における日本の「加害」の事実をまなぶことを重要視しています。関東大震災の朝鮮人虐殺の事実を若い世代がまなぶことが必要です。8月24日(木)午後にフィールドワークを行いました。
まず、14時に両国の横網町公園に集合しました。
1922年に東京市が陸軍被服廠跡地を買収し、公園の造成を進めていたところに関東大震災が発生しました。まだ空き地だったために周辺から多くの人々が避難したものの、火災により3万8千人もの犠牲者が出た場所です。その後、この場所が1930年9月1日に横網公園として開園し、翌年には復興記念館が完成しました。
今回は在日本朝鮮青年同盟の仲間の案内で、朝鮮大学校の研究員の李豊海さんから説明を受けながらの学習となりました。今回の投稿内容についても、その多くを李豊海さんの説明・解説を参考にしています。
公園内の復興記念館のわきには、震災時の火災の高熱で溶けた鉄や焼け残った自動車のフレームが展示されています。
1973年9月29日に除幕式が行われた「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」は、朝鮮人虐殺の事実を記して日本人が建立した最初の追悼碑という意義があります。
関東大震災50年にあたり、日朝協会の渡辺佐平会長、演劇の演出家であり俳優の千田是也、仏教徒・平和運動家の壬生照順、そして東京都議会の全会派の代表により実行委員会が結成され、この追悼碑が建立されました。
しかし、碑文に虐殺を実行した主体が明記されなかったという限界もあります。とくに、軍隊と警察という官憲が虐殺行為の主体として明記されず、日本の国家責任を問うものにはなりませんでした。東京都との交渉過程で「官憲」の文字を入れることができなくなったとのことです。
以下がこの横網町公園の追悼碑の碑文です。
一九二三年九月発生した関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言飛語のため六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。私たちは、震災五十周年を迎え、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎になると信じます。思想、信条の相違を越えて、この碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、日本と朝鮮民族の永遠の親善の力となることを期待します。 一九七三年九月 関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会
この追悼碑建立の実行委員会に関わった俳優の千田是也は、関東震災の発生時は19歳で、千駄ヶ谷に住んでいました。震災発生翌日の9月2日夜、「朝鮮人集団が日本人を襲っている」という噂を聞きつけ、杖を手に街に飛び出した是也は、逆に朝鮮人に間違えられて竹やりやこん棒で武装した日本人に小突きまわされてしまいました。たまたま是也を知る人がいて解放されたものの、この経験が彼に大きな影響を与えました。是也はのちに「私も加害者になっていたかも知れない。その自戒を込めて、センダ・コレヤ、つまり千駄ヶ谷のコレヤン(Korean)という芸名を名乗ったのだ」と語っています。
外は暑いので、見学を兼ねて東京都慰霊堂の中で引き続き豊海さんのお話を聞きました。
1930年に落成した東京都慰霊堂には、1923年の関東大震災の犠牲者、そして1945年の東京大空襲の犠牲者のお骨が納められています。
大震災と戦争による空襲のどちらにおいても下町に集中して大きな被害が出た事実があります。
毎年、関東大震災が起きた9月1日と、東京大空襲の3月10日の年2回、慰霊の法要が行われています。
東京都復興記念館も見学しました。100年前の大震災の被害状況を示した写真を見ることができます。
その後、地下鉄と京成電鉄を乗り継ぎ、八広駅まで移動しました。
駅から歩いて2分ほどのところに事務所のある、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」(略称ほうせんか)に向かいました。
「ほうせんか」の事務所の庭には2009年9月に建立された「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼碑」があります。この碑の碑文は横網町講演の追悼碑とは違い、虐殺の主体、加害者が誰であったかをはっきり示しています。
以下が碑文の内容です。
一九二三年関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言飛語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された。東京の下町一帯でも、植民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知られぬまま尊い命を奪われた。この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの日を建立する。二〇〇九年九月
あわせて、追悼碑の傍にある解説版の文章も以下に紹介します。
1910年、日本は朝鮮(大韓帝国)を植民地にした。独立運動は続いたが、そのたび武力弾圧された。過酷な植民地政策の下で生活の困窮がすすみ、1920年代にはいると仕事や勉学の機会を求め、朝鮮から日本に渡る人が増えていた。
1923年9月1日 関東大震災の時、墨田区では本所地域を中心に大火災となり、荒川土手は避難する人であふれた。「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が攻めてくる」等の流言飛語がとび、旧四ツ木橋では軍隊が機関銃で韓国・朝鮮人を撃ち、民衆も殺害した。
60年近くたって荒川放水路開削の歴史を調べていた一小学校教員は、地元のお年寄り方から事件の話を聞いた。また当時、犠牲者に花を手向ける人もいたと聞いて、調査と追悼を呼びかけた。震災後の11月の新聞記事によると、憲兵警察が警戒する中、河川敷の犠牲者の遺体が少なくとも二度掘り起こされ、どこかに運び去られていた。犠牲者のその後の行方は、調べることができなかった。
韓国・朝鮮人であることを理由に殺害され、遺骨も墓もなく、真相も究明されず、公的責任も取られずに86年が過ぎた。この犠牲者を悼み、歴史を省み、民族の違いで排斥する心を戒めたい。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う、民間の多くの人々によってこの碑は建立された。
2009年9月 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会 グループほうせんか
これが荒川土手の上から見た「ほうせんか」の事務所です。追悼碑は左側の庭の奥にあります。
旧四ツ木橋があった場所で「ほうせんか」の西崎さんからお話をうかがいました。
地震の後に大火災が起きていた現在の墨田区方面からこの道を通って多くの人々が逃げたそうです。この道は地震による崩壊を免れた旧四ツ木橋に続いていました。その四ツ木橋を避難する人々を自警団が誰何して朝鮮人を探し出し、さらに荒川放水路沿いで軍隊が朝鮮人を機関銃で殺害した証言が多く残されています。

旧四ツ木橋の写真です。
河川敷に降り、虐殺された朝鮮人や、亀戸事件で殺害された社会主義者の遺体が埋められた場所でお話を聞きました。
虐殺が行われたのは旧四ツ木橋付近だけではありません。東京だけでなく関東一円でも記録が残されています。そして、日本の学校教育で使用されている歴史教科書では、朝鮮人虐殺について「自警団」が行った行為として記述されていますが、そこに警察や軍隊が関与していた事実を踏まえる必要があります。
中公新書の「民衆暴力-一揆・暴動・虐殺の日本近代」という本で、藤野裕子さんは以下のように述べています。
「国家の責任が重大であることは前提であるが、朝鮮人を殺す側に回った日本民衆については、どのように考えればよいのだろうか。国家によって操られた被害者と捉えるのは間違いだろう。実際に手を下した人びとは、まぎれもなく加害者である。重要なのは、(中略)どのようにして殺害に至ったのか、その論理を明らかにすることである」

現代書館から2016年に西崎さんがまとめた証言集が発刊されています。歴史修正主義に対する反撃であり、日本人が自らの加害の歴史と向き合うために必須の書です。
「ほうせんか」という団体名は「鳳仙花」という歌をもとにしています。
李政美さんが歌う「鳳仙花」が動画サイトにありました。
https://housenka.jimdofree.com/
以上が「ほうせんか」のホームページです。ぜひご覧ください。
西崎さんのお話を聞き、「語り継ぐ」という平和友好祭運動の課題に対する重要な示唆をいただいたように感じました。直接の当事者ではなくても歴史と真摯に向き合い、「後事の師」としなければなりません。
いま日本では歴史修正主義がさまざまな形態をとってその影響を強めつつあります。排外主義にもとづく「流言」「デマ」がSNSを通じて簡単に広められている現実があります。「戦争に反対する」という体裁を取りつつ、歴史修正主義と戦後平和運動の解体・清算に無自覚に加担している人々もいます。
平和友好祭でも、青年たちが差別や排外主義とたたかうために今後もフィールドワークや学習と交流の機会を持ちたいと思います。
2023年08月09日
反核平和の火リレーについて故宮崎安男さんのことば
今年は21都道府県で反核平和の火リレーが取り組まれています。78年前に長崎に原爆が投下された今日のこの日も、青年たちが平和の火を走り継ぎ、日本の核兵器禁止条約への署名と批准、そして核兵器廃絶を訴えています。
平和友好祭の「第1回ヒロシマの旅」で、当時、原水爆禁止広島県協議会で事務局長を務めていた故宮崎安男さん(2007年2月に逝去)が反核平和の火リレー運動の意義について青年たちに語った言葉を以下に紹介します。
朝鮮半島で生まれた宮崎さんは、5歳で山口県に引き上げました。郵便局、電話局で勤務し、全電通労組中央執行委員、全電通労組中国地本執行委員長を務めました。原水禁では1993年から代表委員を担いました。宮崎さんの反核運動の出発点は職場での被爆者支援だったそうです。被爆者ではない宮崎さんの言葉から、私たちも核兵器廃絶に向けたたたかいの力を得たいと思います。
「もっと暑がろう。もっと徹底的に暑がろうじゃないか。この暑い広島で4千度という地上の温度で溶けてしまった、焼かれてしまった、身体がボロボロになってしまった……。
その暑さをもっと自分に焦がし自分に焼き付けよう。そこで死んだ、そこで悶えた被爆者の気持ちを受け止めて行こうじゃないか。それが反核平和の火リレーではないのか。
被爆体験は被爆者でない限り決してわからない、大変な経験です。それだけに、体験しないものが原爆体験を自らのものとして受け継ぐ努力なしに、被爆体験は継承できません。追体験はできないけれども限りなく被爆者に近づく努力を通じて、はじめて核の本質が見えてくる。被爆者の苦しみがわかってくるのだと思います。
私は被爆ということに本当に立ち向かうことなしに、加害は見えてこないと思っています。被害と真正面に立ち向かうことなしに、加害の根深さ、人間が変わっていく怖さ、人間が行う犯罪の恐ろしさということを見ることはできないだろう。」


平和友好祭の「第1回ヒロシマの旅」で、当時、原水爆禁止広島県協議会で事務局長を務めていた故宮崎安男さん(2007年2月に逝去)が反核平和の火リレー運動の意義について青年たちに語った言葉を以下に紹介します。
朝鮮半島で生まれた宮崎さんは、5歳で山口県に引き上げました。郵便局、電話局で勤務し、全電通労組中央執行委員、全電通労組中国地本執行委員長を務めました。原水禁では1993年から代表委員を担いました。宮崎さんの反核運動の出発点は職場での被爆者支援だったそうです。被爆者ではない宮崎さんの言葉から、私たちも核兵器廃絶に向けたたたかいの力を得たいと思います。
「もっと暑がろう。もっと徹底的に暑がろうじゃないか。この暑い広島で4千度という地上の温度で溶けてしまった、焼かれてしまった、身体がボロボロになってしまった……。
その暑さをもっと自分に焦がし自分に焼き付けよう。そこで死んだ、そこで悶えた被爆者の気持ちを受け止めて行こうじゃないか。それが反核平和の火リレーではないのか。
被爆体験は被爆者でない限り決してわからない、大変な経験です。それだけに、体験しないものが原爆体験を自らのものとして受け継ぐ努力なしに、被爆体験は継承できません。追体験はできないけれども限りなく被爆者に近づく努力を通じて、はじめて核の本質が見えてくる。被爆者の苦しみがわかってくるのだと思います。
私は被爆ということに本当に立ち向かうことなしに、加害は見えてこないと思っています。被害と真正面に立ち向かうことなしに、加害の根深さ、人間が変わっていく怖さ、人間が行う犯罪の恐ろしさということを見ることはできないだろう。」

2023年07月08日
追悼・PANTAさん(頭脳警察)
頭脳警察のPANTAさんが7月7日に亡くなりました。商業紙でも「日本語ロックの草創期のアーティスト」などと紹介されています。「世界革命戦争宣言」「赤軍兵士の詩」「銃をとれ」など、大衆闘争の挫折から武装闘争が試行・志向された時代を反映した初期の楽曲がとても印象的です。
また、事務局にとってはパレスチナに寄せる共感や連帯をうたった歌が印象的です。とくに、「ライラのバラード」がとても思い出深い曲です。2015年4月にレバノンのアイネヘルウェ難民キャンプを訪れた後、この曲に出会いました。昨年12月に7年ぶりにベイルートに行ったとき、やはりこの曲を聴きました。
でも、今日は別の曲をいくつか紹介し、PANTAさんへの哀悼の意を表します。
「オリオン頌歌」です。頌歌(しょうか)とは「ほめたたえて歌う歌のこと」だそうです。
「最終指令自爆せよ」
「さようなら世界夫人よ」
「プラハからの手紙」
「銃をとれ」
「歓喜の歌」
ほかにもたくさんの胸に迫る曲があります。「ライラのバラード」は、昨年12月のベイルートの報告をアップできたら、そのときに紹介したいと思います。
また、事務局にとってはパレスチナに寄せる共感や連帯をうたった歌が印象的です。とくに、「ライラのバラード」がとても思い出深い曲です。2015年4月にレバノンのアイネヘルウェ難民キャンプを訪れた後、この曲に出会いました。昨年12月に7年ぶりにベイルートに行ったとき、やはりこの曲を聴きました。
でも、今日は別の曲をいくつか紹介し、PANTAさんへの哀悼の意を表します。
「オリオン頌歌」です。頌歌(しょうか)とは「ほめたたえて歌う歌のこと」だそうです。
「最終指令自爆せよ」
「さようなら世界夫人よ」
「プラハからの手紙」
「銃をとれ」
「歓喜の歌」
ほかにもたくさんの胸に迫る曲があります。「ライラのバラード」は、昨年12月のベイルートの報告をアップできたら、そのときに紹介したいと思います。
2023年07月03日
広島の反核平和の火リレーが出発
7月3日に広島県反核平和の火リレーが出発しました。
広島と長崎への原爆投下から78年、1982年に反核平和の火リレーが始まってから41年めの取り組みです。


広島では7月21日までの取り組みとなります。
各都道府県の取り組みは以下の予定です。
(今後の準備状況によって変更の可能性があります。岩手と宮城はすでに実施済みです)
北海道 7月18日~8月6日
岩手 6月9日~11日
宮城 6月5日~10日
山形 各地区実行委員会ごとの取り組み
茨城 7月20日~8月2日
埼玉 8月17日~25日
神奈川 10月23日~27日
東京 10月14日
長野 7月11日~8月4日
富山 8月1日~4日
兵庫 7月28日~8月8日
鳥取 7月31日~8月4日
島根 8月2日~9日
広島 7月2日~7月21日
山口 7月31日~8月10日
香川 9月13日~14日
徳島 8月8日~10日
高知 8月2日~4日
佐賀 7月19日
長崎 7月19日~27日
鹿児島 7月19日~8月9日
広島と長崎への原爆投下から78年、1982年に反核平和の火リレーが始まってから41年めの取り組みです。
広島では7月21日までの取り組みとなります。
各都道府県の取り組みは以下の予定です。
(今後の準備状況によって変更の可能性があります。岩手と宮城はすでに実施済みです)
北海道 7月18日~8月6日
岩手 6月9日~11日
宮城 6月5日~10日
山形 各地区実行委員会ごとの取り組み
茨城 7月20日~8月2日
埼玉 8月17日~25日
神奈川 10月23日~27日
東京 10月14日
長野 7月11日~8月4日
富山 8月1日~4日
兵庫 7月28日~8月8日
鳥取 7月31日~8月4日
島根 8月2日~9日
広島 7月2日~7月21日
山口 7月31日~8月10日
香川 9月13日~14日
徳島 8月8日~10日
高知 8月2日~4日
佐賀 7月19日
長崎 7月19日~27日
鹿児島 7月19日~8月9日
2023年06月23日
「慰霊の日」にあたり琉球新報と沖縄タイムスの社説
「慰霊の日」にあたり、琉球新報と沖縄タイムスの社説を紹介します。両紙の立場・見解の違いがよく分かります。
今日の式典で、岸田首相は先月の広島に続いて、沖縄を次の戦争に利用し、犠牲に供する決意を示すでしょう。私たちが民衆の立場から岸田首相による決意表明を拒否・拒絶できるかが問われています。
【琉球新報】戦後78年「慰霊の日」 沖縄は「戦場」を拒否する
貴い生命を奪う殺りくが続く。抑止力向上を名目とした軍備増強が急速に進む。平和に逆行する動きの中で私たちはこの日を迎えた。きょうは敗戦から78年の「慰霊の日」である。
昨年来、平和はもろく、その回復は極めて困難であることを思い知らされてきた。平和を脅かす戦争準備に強い危機感を抱いてきた。それでも私たちは平和構築の不断の歩みを断念するわけにはいかない。沖縄の島々が再び戦場となることを県民は明確に拒否する。そのためにも沖縄戦の実相を見つめ直す日としたい。
沖縄に住んでいる私たちは今、国際社会の分断と脅威論の広がりを目の当たりにしている。沖縄にとっては、いずれも平和構築の障害であり、克服しなければならない。ロシアによるウクライナ侵攻は無辜(むこ)の民に犠牲を強いるとともに国際社会に深刻な分断をもたらした。侵攻から1年で、双方の軍民の死者数は当局者らの公表分だけで計約2万7千人を数えた。停戦の糸口は見えないままだ。
先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)は国際社会の分断を融和へと導く場とすべきであった。しかし、ロシアへの制裁強化を確認し、包囲網を固めたことで分断はより深まったように見える。
ロシアに影響力を持つ中国との連携や、戦闘を続ける両国に対し中立を保つ「グローバルサウス」の国々との対話を踏まえた停戦の働き掛けが必要だ。停戦を促す国際的枠組みづくりが急がれる。先進国の取り組みを求めたい。
ロシアのウクライナ侵攻は台湾有事という脅威論につながった。それらを背景とした防衛の「南西シフト」によって宮古、石垣、与那国の軍備増強が急激に進んだ。北朝鮮によるミサイル発射や衛星打ち上げも脅威論の横行に拍車をかけている。3島への地対空誘導弾パトリオット(PAC3)配備は2カ月近くになる。
これらの軍備増強は他国との緊張を高めるものでしかなく、地域住民の平安な暮らしに寄与するものではない。他国の標的となることへの危惧を住民は抱いている。何よりも「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓に照らしても、現在の軍備増強の動きは否定されるべきものだ。
「慰霊の日」に当たって沖縄が政府に求めることは、台湾有事や中国、北朝鮮の脅威をあおることではなく、緊張緩和に向けた外交努力である。防衛費増額の財源を確保する特別措置法は成立したが国民は防衛費増に否定的だ。政府は国民世論を直視し、軍備増強政策を改めるべきだ。
きょうの全戦没者追悼式では玉城デニー知事が発表する平和宣言と合わせ、岸田文雄首相があいさつを述べる。沖縄の島々が再び戦禍に巻き込まれることがあってはならない。県民の思いに沿うメッセージを求めたい。
【沖縄タイムス】慰霊の日に 「平和な島」を手放すな
沖縄戦は、幼児からお年寄りまで、あらゆる世代を巻き込んだ戦争だった。本来、保護されるべき一般住民も、逃げ場を失って戦場をさまよい、米軍の容赦ない攻撃の犠牲となった。住民を守ってくれると信じていた「友軍」(日本軍)は、住民を壕から追い出し、食料を奪い、投降しようとした兵士を背後から射殺し、住民をスパイと見なして殺害した。当時、沖縄県庁で疎開業務に携わっていた浦崎純さんは、本島南部の戦場で、死んだ母親にすがって乳房を含んでいる幼子の姿を見た。どうすることもできなかったという。
「そこには前線もなければ後方もなく、戦闘員、非戦闘員の区別もなかった」(『消えた沖縄県』)
なぜ、このような凄惨(せいさん)、無残な戦争になってしまったのか。敗戦の結果、沖縄は本土と切り離され、冷戦の最前線に置かれた。そして今、「新たな戦前」ともいわれる危機の真っただ中にある。
沖縄はきょう、慰霊の日を迎える。二度と戦争を起こしてはならないという切実な声をもっと広げ、世界に向かって伝えていく必要がある。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓は、戦時下にあって、兵士にも民間人にも深く浸透し、行動をしばった。軍人は事実上、捕虜になることを禁じられた。民間人も「米兵に捕まったら女性は強姦される」などという流言にしばられ、捕虜になるより死を選ぶケースが相次いだ。第32軍司令部は戦略持久作戦にこだわり、住民保護も適切に行わないまま、南部に撤退したが、その結果、軍民混在という最悪の状況が生まれ、住民の犠牲を多くしたのである。住民保護の明らかな失敗であった。
南風原にあった沖縄陸軍病院には多くの重傷患者が収容されていた。南部に撤退する際、兵士に青酸カリが配られ、「処置」されたことはよく知られている。退却の際、重傷者をどう扱うかは、沖縄戦のずっと前から、日本軍の中で問題にされていた。ここに見られるのは、ハーグ陸戦条約やジュネーブ条約など非戦闘員の保護や捕虜の取り扱いなどを定めた国際条約に対する日本の後ろ向きの姿勢である。
ジュネーブ条約(赤十字条約)には傷病兵が捕虜になることを認める条文がある。硫黄島に配属された混成第2旅団野戦病院は、この条約を根拠にして米軍と交渉し、投降勧告を受け入れ、組織ごと捕虜になった。彼らはグアムに送られた後、米軍側の要請で沖縄に移動し、軍病院で沖縄住民の治療に当たった。日本が降伏する前の戦争中の話である。
沖縄陸軍病院と第2旅団野戦病院のこの違いはどこからくるのだろうか。日本は1929年に不戦条約を批准し、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する、という国際法上の義務を負うことになった。この考え方は、国連憲章や日本国憲法第9条に取り入れられている。だが、日本を含め多くの国々がこの条約に反するような戦争を続けてきた。
ロシアによるウクライナ侵攻で、世界の光景は一変した。核大国が核使用をちらつかせて他国を威圧するということは、国際法上あってはならないことだ。中国や北朝鮮は軍備増強、核・ミサイル開発を続け、日本政府も防衛費の大幅増額、敵基地攻撃能力の保有を表明し、対抗姿勢を鮮明にした。歯車が完全に逆回転し始めているのである。
23日の慰霊の日、糸満市摩文仁の平和祈念公園では、「沖縄全戦没者追悼式」(主催・県、県議会)が開かれる。国籍や軍人、民間人の区別なく戦没者の名前を刻銘した「平和の礎」は、二度と戦争を起こさないという誓いのモニュメントである。「新たな戦争」の犠牲者の名前が追加刻銘されるようなことがあってはならない。




https://ryukyushimpo.jp/statics/html/okinawasen/
今日の式典で、岸田首相は先月の広島に続いて、沖縄を次の戦争に利用し、犠牲に供する決意を示すでしょう。私たちが民衆の立場から岸田首相による決意表明を拒否・拒絶できるかが問われています。
【琉球新報】戦後78年「慰霊の日」 沖縄は「戦場」を拒否する
貴い生命を奪う殺りくが続く。抑止力向上を名目とした軍備増強が急速に進む。平和に逆行する動きの中で私たちはこの日を迎えた。きょうは敗戦から78年の「慰霊の日」である。
昨年来、平和はもろく、その回復は極めて困難であることを思い知らされてきた。平和を脅かす戦争準備に強い危機感を抱いてきた。それでも私たちは平和構築の不断の歩みを断念するわけにはいかない。沖縄の島々が再び戦場となることを県民は明確に拒否する。そのためにも沖縄戦の実相を見つめ直す日としたい。
沖縄に住んでいる私たちは今、国際社会の分断と脅威論の広がりを目の当たりにしている。沖縄にとっては、いずれも平和構築の障害であり、克服しなければならない。ロシアによるウクライナ侵攻は無辜(むこ)の民に犠牲を強いるとともに国際社会に深刻な分断をもたらした。侵攻から1年で、双方の軍民の死者数は当局者らの公表分だけで計約2万7千人を数えた。停戦の糸口は見えないままだ。
先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)は国際社会の分断を融和へと導く場とすべきであった。しかし、ロシアへの制裁強化を確認し、包囲網を固めたことで分断はより深まったように見える。
ロシアに影響力を持つ中国との連携や、戦闘を続ける両国に対し中立を保つ「グローバルサウス」の国々との対話を踏まえた停戦の働き掛けが必要だ。停戦を促す国際的枠組みづくりが急がれる。先進国の取り組みを求めたい。
ロシアのウクライナ侵攻は台湾有事という脅威論につながった。それらを背景とした防衛の「南西シフト」によって宮古、石垣、与那国の軍備増強が急激に進んだ。北朝鮮によるミサイル発射や衛星打ち上げも脅威論の横行に拍車をかけている。3島への地対空誘導弾パトリオット(PAC3)配備は2カ月近くになる。
これらの軍備増強は他国との緊張を高めるものでしかなく、地域住民の平安な暮らしに寄与するものではない。他国の標的となることへの危惧を住民は抱いている。何よりも「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓に照らしても、現在の軍備増強の動きは否定されるべきものだ。
「慰霊の日」に当たって沖縄が政府に求めることは、台湾有事や中国、北朝鮮の脅威をあおることではなく、緊張緩和に向けた外交努力である。防衛費増額の財源を確保する特別措置法は成立したが国民は防衛費増に否定的だ。政府は国民世論を直視し、軍備増強政策を改めるべきだ。
きょうの全戦没者追悼式では玉城デニー知事が発表する平和宣言と合わせ、岸田文雄首相があいさつを述べる。沖縄の島々が再び戦禍に巻き込まれることがあってはならない。県民の思いに沿うメッセージを求めたい。
【沖縄タイムス】慰霊の日に 「平和な島」を手放すな
沖縄戦は、幼児からお年寄りまで、あらゆる世代を巻き込んだ戦争だった。本来、保護されるべき一般住民も、逃げ場を失って戦場をさまよい、米軍の容赦ない攻撃の犠牲となった。住民を守ってくれると信じていた「友軍」(日本軍)は、住民を壕から追い出し、食料を奪い、投降しようとした兵士を背後から射殺し、住民をスパイと見なして殺害した。当時、沖縄県庁で疎開業務に携わっていた浦崎純さんは、本島南部の戦場で、死んだ母親にすがって乳房を含んでいる幼子の姿を見た。どうすることもできなかったという。
「そこには前線もなければ後方もなく、戦闘員、非戦闘員の区別もなかった」(『消えた沖縄県』)
なぜ、このような凄惨(せいさん)、無残な戦争になってしまったのか。敗戦の結果、沖縄は本土と切り離され、冷戦の最前線に置かれた。そして今、「新たな戦前」ともいわれる危機の真っただ中にある。
沖縄はきょう、慰霊の日を迎える。二度と戦争を起こしてはならないという切実な声をもっと広げ、世界に向かって伝えていく必要がある。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓は、戦時下にあって、兵士にも民間人にも深く浸透し、行動をしばった。軍人は事実上、捕虜になることを禁じられた。民間人も「米兵に捕まったら女性は強姦される」などという流言にしばられ、捕虜になるより死を選ぶケースが相次いだ。第32軍司令部は戦略持久作戦にこだわり、住民保護も適切に行わないまま、南部に撤退したが、その結果、軍民混在という最悪の状況が生まれ、住民の犠牲を多くしたのである。住民保護の明らかな失敗であった。
南風原にあった沖縄陸軍病院には多くの重傷患者が収容されていた。南部に撤退する際、兵士に青酸カリが配られ、「処置」されたことはよく知られている。退却の際、重傷者をどう扱うかは、沖縄戦のずっと前から、日本軍の中で問題にされていた。ここに見られるのは、ハーグ陸戦条約やジュネーブ条約など非戦闘員の保護や捕虜の取り扱いなどを定めた国際条約に対する日本の後ろ向きの姿勢である。
ジュネーブ条約(赤十字条約)には傷病兵が捕虜になることを認める条文がある。硫黄島に配属された混成第2旅団野戦病院は、この条約を根拠にして米軍と交渉し、投降勧告を受け入れ、組織ごと捕虜になった。彼らはグアムに送られた後、米軍側の要請で沖縄に移動し、軍病院で沖縄住民の治療に当たった。日本が降伏する前の戦争中の話である。
沖縄陸軍病院と第2旅団野戦病院のこの違いはどこからくるのだろうか。日本は1929年に不戦条約を批准し、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する、という国際法上の義務を負うことになった。この考え方は、国連憲章や日本国憲法第9条に取り入れられている。だが、日本を含め多くの国々がこの条約に反するような戦争を続けてきた。
ロシアによるウクライナ侵攻で、世界の光景は一変した。核大国が核使用をちらつかせて他国を威圧するということは、国際法上あってはならないことだ。中国や北朝鮮は軍備増強、核・ミサイル開発を続け、日本政府も防衛費の大幅増額、敵基地攻撃能力の保有を表明し、対抗姿勢を鮮明にした。歯車が完全に逆回転し始めているのである。
23日の慰霊の日、糸満市摩文仁の平和祈念公園では、「沖縄全戦没者追悼式」(主催・県、県議会)が開かれる。国籍や軍人、民間人の区別なく戦没者の名前を刻銘した「平和の礎」は、二度と戦争を起こさないという誓いのモニュメントである。「新たな戦争」の犠牲者の名前が追加刻銘されるようなことがあってはならない。
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